今ある幸せを噛みしめて
船は沈没していた。溢れ出す聖水の重みに耐えきれずに沈んだのだ。パツィとミュリエル改めパトリックとマイクはフェリーが沈んだ辺りを眺めた。フェリーは魔物の魚が泳いでいるような、そんな海に沈んだ。何のために戻ってきたのか、一瞬分からなくなったが、打ち寄せる波を見てハッとした。
「ねえ、この魔物を見てよ」
砂浜にはクラゲが打ち上げられていた。魔物化して触手だけでなく傘からも鋭いトゲが生えているクラゲだ。
「それがどうしたの?」
寒くていい加減建物の中に逃げ込みたいパトリックはマイクが指差したクラゲを見てもつまらなさそうにしていた。
「クラゲもそうだげど、波を被った後のクラゲを見てよ」
あまり気乗りしないパトリックは渋々クラゲを眺めた。
「トゲが……、なくなっていってるっ」
瞬く間に魔物化したクラゲは波を被るうちに普通のクラゲに戻っていた。
「さっき川も見てみたんだけど、泳いでいる魚は普通の魚だったよ」
二人は知るよしもなかったが、川がわき出ている山の麓にはジェレミーが育てた毒キノコのマッシュリーヴァが生えており、その胞子が川に混じったのだ。マッシュリーヴァの毒は魔物を浄化し元の動物に変化させていた。
「黒い呪いの水の影響が無くなったのかな?」
「そうだと……、いいね」
何でもない他愛もないことが、いや、こんな状況だからこそ有り難いことだと思えた。悪い状況は長くは続かないのだと。
「私ね。魔物がいなくなったらダンサーになりたいな」
「そういや昔そんなこと言ってたねー。こんな時でも希望を持つのは良いことだね」
「マイクは? 何したい? やっぱり人形造り?」
「いや、それは止めとく」
「何で? 諦めたの?」
波打ち際のクラゲは波にさらわれたらしくいなくなっていた。
「そうじゃなくて、ただ……、いろんなモノが魔物のせいで壊されてしまったでしょ? だから、町を再建できたら良いなって。それでパン・シール教団が禁止したことを復興させるの。今って国があってないようなものじゃん? だから、文化を取り戻すの。それを私はやりたい」
扉はまたしても破壊された。二回目に扉を壊したのはアールではなくヨエルだった。華奢な腕からは想像もつかない腕力で扉を殴ったのだ。
「血ヲクレ。血ヲクレ。寄越サナケレバ、コロス」
血走った目をしたヨエルにはもはや理性の欠片も残っていなかった。すさまじい衝撃で気を失っていたミラは目を覚ました。
「血なんて、自分のがあるでしょ! 誰の血だって渡さない!」
ダニエラをころしたショックで立てないでいるカーラはミラの叫ぶ声を呆然と聞いていた。エリアとジョシュアはヨエルを食い止めるためジリジリと歩幅を狭めていたが、カーラには何をする気力さえわかなかった。
「おい、お前何とかしろよ! 倒したのは魔物で人間をころした訳じゃないんだぞ!」
このトミーの発言に異議を唱えたのはルチアだった。先程まですごい剣幕で魔物を殴り付けていたカーラを見て怖じけついていたルチアだったが、この発言を聞いてすかさず立ち上がるとトミーを思い切り平手打ちした。
「な、何するんだよっ。オレは何も悪いこと言ってないだろ?!」
「話を聞いてなかったの? あの魔物はカーラの友達だった子よ! 友達をころしてショックを受けないはずがないじゃない! 確かにカーラはやりすぎたかもしれない。けどね、友達が魔物になって嬉しい人はここにはいない! カーラはただ、やりすぎた、それだけよ」
大事な人が人の命を大切にしない魔物になって嬉しいはずがない。その魔物が口先で命を大切に、と言うだけでも嘘だと分かる。甘い言葉を吐いて人を破滅に向かわせる魔物になってしまったダニエラをカーラは許せなかっただけだ。
「おい、お前何しようとしてるんだ!」
唐突なアールの叫び声にカーラは顔を上げた。そこにはミラを噛もうとしているヨエルがいた。
「止めて!」
衝撃で壁が吹き飛んだなんて、最初の内は分からなかった。凄まじい雪が教会の中に吹き込んだことで私が壁を破壊してしまったことは明白だった。アールとミラはとっさに身をかわし事なきを得た。が、いくら探してもヨエルの姿が見当たらなかった。
「ひっ。こ、この瓦礫のしたにいるのってっ」
ルチアの言う通りだった。ヨエルは瓦礫の山に埋もれていた。アールが瓦礫の山を全て取り除いた後、めちゃくちゃになった見るに耐えないヨエルの亡骸がそこにあった。
「あ、あぁ……。また、やってしまった。そんな、つもりじゃ、なかったのに! ドクター・ハイネは魔物じゃなかったのに!」
私は今夜で二人もころしてしまった。魔物に襲われたら無抵抗のままでいるなんて出来ない。けれども、自分の知っている人をころしてしまうことはどうにも耐え難い。
私が衝動的に動いてもロクなことにならない。それぐらい分かっていたず、なのに。
雪が教会の中を埋めていく。薄赤色の雪が積もって、積もって、積もり続けた。
「ようやく兵器を発動させたな」
カモメが沈んだフェリーを見てそう呟いた。あの後、町に着いたカモメは二人を探したがいくら探しても見つからないので港に引き返したのだ。カモメの言う兵器とは武器のことではなかった。呪いの水の元である怨素を消滅させる能力を付与した聖水のことだ。カモメの尾黒には水を研究していた部下がいて怨素を消す能力を持つ水を秘密裏に開発していた。それがパツィとミュリエルが持ってきていた聖水と海に沈んだことで混ざりあったのだった。
これでようやく魔物は造られなくなっていくだろう。しかし、まだ懸念することは残っていた。そう、パン・シール教団の父長であるジェイルを倒せていないことだ。それでも、明らかになったことがある。
ジェイルは人間ではない。最初から人間ではなかったのだ。しかし、魔物でもない。彼は機械だ。意思を持ち、質の悪いことに増幅もする。尾黒が、まだ人間だった時にショットガンを何発もジェイルに食らわせたことがある。その時の驚きは今でも彼の脳内にこびりついている。銃弾を何発も受けていながらそこに立ち続けていた。血を流すこともなく、せせら笑いながら立っていたのだ。カッとなった尾黒はジェイルの眉間を狙って撃った。しかし、それでもジェイルは立っていた。
「君はそれで勝ったつもりでいるのか? だとしたら君は実に哀れだ。力で押すしか脳のない君には分からないだろうが、私はしにはしない。なぜなら、私はアンドロイドだからだ。動く人形とでもいった方がいいかな? そして私の頭には人工知能がつまっている」
「……何が言いたい」
「私の体を壊せても私を動かす人工知能は他にもある。そして複製機能付きだ。だから君が私を倒したからとて有頂天にならないでくれたまえ。私を形作ったものはこの時代にはいないのだから」
この言葉の意味を言われた時は尾黒には理解できなかった。しかし、今なら分かる。彼は別の時代に逃げた。だから探しても見つかりようがない。そして彼は別の時代で理想郷を造るだろう。やり場のない怒りだけが尾黒の脳内に込み上げた。




