日常がついに壊される
それは異様な光景だった。魔物を大切にするあまり、身の危険が差し迫ろうとも魔物が無事なら満足とでも言うような人が続出した。もう、人間を守る法はあってないようなものだった。
それでも私の通う学校は平静そのもので、あたかも街の騒動がまるで蚊に刺された程度のように扱った。先生までもが魔物の繁栄を喜ぶ様は異質だ。私は、耳をふさいだ。魔物称賛は聞きたくない。テレビもタブレットの流す動画も見なくなった。頭の中で思い描く過去だけが、私の慰めとなった。
課題提出当日。私は激しい鼓動に気づかないふりをして、自説を披露することにした。きっと罵倒される。学校を退学させられるだけではすまされないかもしれない。けれど、自分自身に嘘はつきたくなかった。魔物はパン・シール教団が造ったこと、巨人絶滅はあらゆる動物の魔物化の結果であること、私の祖先に巨人を滅ぼした者はいないことを、はっきりと証明するときが来た。
それでも解けない謎があることは確かだ。パン・シール教団はいつから魔物を造り出したのか? パン・シール教団はいつ設立されたか? あの本に書かれていることは嘘だらけでないにしても、何が真実かまだ突き止めきれていなかった。
私は大きなスクリーンを前に深呼吸した。
「私は巨人絶滅にはある人物が裏で糸を引いていると思っています」
その時だ。窓ガラスが割れる音がした矢先、何か得たいの知れないモノが教室に侵入した。皆我先に教室から逃げ去っていく。私は一瞬パニックになり身動きがとれなくなってしまった。
最悪なことに、その得たいの知れない奴と目があってしまった。
鱗に覆われ角が生えたトカゲのようなものが私を獲物でも見るような目付きで見やり舌なめずりした。
「旨そうな人間、見ーっけ」
その言葉を聞いた瞬間私は足に力が入らなくなり床に尻餅をついてしまった。こんなことしている場合ではないのに。頭では分かっていても体はテコでも動こうとしなかった。それを良いことに爬虫類風の魔物はますます距離をつめてきた。
「……嫌っ」
悲鳴にならない蚊の鳴くような声をあげた時。トカゲみたいな魔物の鱗の隙間から血が吹き出た。魔物は何が起きたか理解できずオロオロし始めた。一体何が起きているんだろう?
「何をボンヤリしている! 逃げろ!」
強い語調で叱咤し腕をぐいと掴んだのはジョシュアだった。
「え……」
「奴に毒の魔法を食らわせた。いいから走るぞ」
そういうや否や彼は私の腕を握ったまま全速力で教室を抜け出し校庭を駆け抜けた。
一息ついた時、周囲が異常な空気に包まれていることに感づいた。空が赤黒い。しかも見たこともないような魔物がそこら辺をうろついていた。
「もうここは安全じゃない。どこか隠れる場所を探そう」
「うーん」
私はまだ頭がろくに回転しておらず生返事してしまった。それが彼にとって癪に障ったらしい。握っていた腕を離してどこかへ去ろうとした。
「待って! どこへ行くつもりなの!」
「……。分からない。どこも行くあてなんてねえよ。ただ……」
最後までいい終わらない内に何者かの襲撃が私たちの会話を中断させた。
「逃げるなんて、ひどいなぁー」
ばらまかれた巨人、あるいは魔物の物語はいくつものパターンに分かれている。倫理観が強い人には魔物が人間に痛め付けられるシーンが多く盛り込まれ人間が残虐非道な存在と思わせる。承認欲求が強い人には魔物になり注目を集める話が書かれる。商人気質の人には呪いの黒い水の商品化の話になる。そして、カーラのような正義感のある人の場合は……。
今はマリー・ハイネと名乗っているヨエルは、呪いの水に含まれる怨素の無毒化の研究にことごとく失敗した。それは怨素がどのような作用をもたらすのか、分からなかったというわけではない。むしろマリーはその物質について知りすぎるほど知っていた。研究の際、魔物から分離した怨素に様々な実験を試みていたからだ。その時にも聖水を使用したが魔物を元の動物に戻すことが出来たが、体にわずかに残った怨素の影響で、魔物だった時の行動を維持していた。
そして人間にも試した。確かに聖水は素晴らしい万能薬のように見えた。しかし、ある欠点があった。ある一定数黒い水にさらされても魔物化しない人がいる。その場合、聖水により理性を取り戻すことが出来る。が、最近判明した研究結果では、聖水にさらされた怨素は聖水と結びつき体に固定してしまうらしかった。そのことはマリーの気分を大きく消沈させた。
どうやら意志が強い人ほど魔物化しない変わりに怨素がもたらす反作用にさらされるらしいことが分かったのは、パン・シール教団の本部があるある建物から魔物がばらまかれた時だった。そしてその時には大多数の人が楽園の到来を歓迎した。怨素以外の何かが、正気に見える人々の価値観を変えてしまったかのようだった。そしてそれは確かにマリーの研究では分かり得ない事が原因だった。
虚構を信じる心に、怨素は必要ではなかったのだ。
「やっぱり、おれが行ってくるよ。おれが間抜けじゃなけりゃこんな体にならなかったし、魔物が増えることもなかったんだ」
モヤのようなアールが荒廃したサルーシャ山の洞窟から出ようとした。空はどこを見渡しても血のように赤黒い。その昔巨人が沢山いた頃は空がどんよりと曇ったり夕闇が迫って辺りが暗くなったとしても、禍々しい雰囲気はなかった。
「お主は何も分かっておらぬ。お主は仲間の巨人の最期を見届けたはずだ」
半透明の竜が告げると、モヤのアールは落ち込んだ素振りは見せずこう答えた。
「あいつの望みは魔物が繁栄することだってのは分かってる。けど、奴が出てくる前から巨人はおれの父親と近い親戚以外いなくなっちまった。……力比べやケンカが大好きな奴が多いんだよ、巨人は。おれみたいな人の役に立ちたいなんて奴は、軟弱呼ばわりされたんだ。だから奴が手を下す時には、巨人はおれだけになってた。奴を食い止めるために力を合わせようなんてこれっぽっちも考えなかったんだ。だから奴が呪いの黒い水をばらまかなくたって、巨人はいなくなってたよ」
アールの決意が堅いことは竜自身も知っていた。しかし、アールの力添えだけでは、この緊急事態は解くことは出来ない。聖水を持っていても、結界を張ってもおよそ解決には遠く及ばない。
「焼け石に水だとしても、覚悟の上だな?」
「今のおれは雲なんだ。その気になったら、浄化の雨を降らせて見せるよ」
カーラが持っていたあの物語を書いた本は増殖し、ありとあらゆる虚構をばらまいた。それでも、騎士物語を信じたアールは誰かのための恵みの雨になろうとしていた。
血まみれになったトカゲ男がカーラを見下ろしている。ジョシュアは脇腹を抑え呻いている。トカゲ男の襲撃を食らったのだ。脇腹からドクドクと血が流れていた。逃げようにも後ろは袋小路。ましてやジョシュアをおいて逃げるなんて考えられない。けれど、一向に打開策は思い浮かばなかった。
「さようなら、……あの世でデートしなよ」




