不穏な空気
アールがマダムのところで修行に励むころ、街中では二種類のチラシを見かけない日はないというほど目に見えて増えていた。
『神のいただいた命を大切にするため、肉食をやめましょう パン・シール教団』
『人間に害を与える種族をこの町から放逐するため、力を貸してください サン・マリ教会』
二つの異なる団体の主張は徐々にではあったが、アールにとってよくない状況を作りだしていた。前まではゼルのおかげでディレル街に入りこめたアールだったが、今ではディレル街の門の前に来ただけで追い払われる始末だった。
「どうして入れさせてくれないんだよっ?」
「人間に害をなす生き物や種族は入れてはならないのでありますっ!」
マダムに助けを求めようとしたが、あいにくとマダムは用事があるからとディレル街の前に着くころにはもう自宅に戻っていたのだった。
「おれ何も悪いことしてない……」
言いかけたその時、門のそばに見たことがある人物が通り過ぎるのを見つけた。ゼルとパツィだ。助かったとばかりにアールは二人に手を振ったが、あろうことか二人はアールを見るなり街の奥へと引っ込んでいってしまった。
「なんなんだよ……」
急にしょんぼりした巨人に気が付いた兵士は上に向って合図をした。何をしているのだろう、と思った矢先体にチクッとした痛みが走った。よく見てみるとそれは矢だった。引っこ抜こうとしている間にも矢が雨のように降り注いできた。
「いたっ、痛いじゃないかっ!」
何もしてないはずなのに、このような仕打ちを受けて怒りを覚えたアールは思わず兵士に殴りかかろうとした……。
「うわっ」
殴りかかろうとした拳は宙を浮き、そのままアールは地面に突っ伏してしまった。立ち上がろうとした瞬間、誰かがそばに来るのを感じた。
「命が惜しいならもうこの町に戻ってはいけません。森に戻りなさい」
どこかで聞いた声だ、と思った瞬間目の前の景色が掻き消えた。最後に耳にした兵士たちの怒号はアールに対しての嫌悪感をむき出しにしていた……。
「えぇ、それ本気で言ってるのかよっ! オレ、巨人捕まえるためにいろいろ仲間集めてきたのによぉっ!」
ディレル街一大きいサン・マリ教会のすぐ目の前にある広場で盗賊のスカイが縄を振り回しながら教会の前にいた騎士に向って叫んでいた。すぐそばにはスカイをとり押さえようとする兵士もいたが、スカイの様子を見て半ばあきれ顔の者もいた。
「うそは言っておらぬっ! あの巨人はもうこのディレル街に現れることはないっ!」
スカイの大声に負けじと騎士も怒鳴り返していたが、うんざりした顔を隠せないでいた。
「賞金はどうしてくれるんだよっ! たんまりくれるんじゃねぇのかよっ!」
「さっさと目の前から失せろっ! ……ったく、ゼル様を見守らないといけないっていう時に……」
小声でボヤいたはずの声はスカイの耳に届いたらしく、怒りの表情を引っ込めた。何かたくらんでいるような表情をしたので騎士たちは警戒の色を示した。
「お前、さっきゼル様って言ったよな?」
「……それが、どうかしたか?」
「あの巨人、たしか騎士になるために弟子にしてくれってそいつに頼んでたから、今後もそのゼル様に付きまとうはずだぜ? いいのか、オレを邪険に扱っても?」」
「それは、そうかもしれないが我々がゼル様をお守りする故必要ないっ」
「オレも巨人狩りの道具はたくさん持ってんだ。ここは取引しよ……」
「断るっ。どうせ金が目的だろうっ! もういいかげんにしろっ!」
ゼルのことは本当はどうでもいい金目当てのスカイと、ゼル様命の忠誠心抜群の騎士との言い争いは夕方になっても続いたという。
日暮れも近いころ、アールは森の奥深く、エリアの診療所の前でエリアに矢を引き抜いてもらっていた。あの時アールを連れだしたのはエリアだったのだ。瞬間移動の魔法を使ってアールを連れてきた後、ディレル街の衛兵たちにもう巨人は現れないと伝えたのだった。
「あの、その……」
顔を赤らめながらエリアに助けてくれたお礼を言おうとしたが、突然金切声が響いたせいでエリアの気がそがれてしまったようで、アールのお礼の言葉は立ち消えとなってしまった。
「もうっ! あれほどここには来るなって言ったじゃないっ! 親が心配するでしょっ!」
「だってー、エリアに会いたかったんだもんっ!」
そこにいたのは犬耳娘、もとい獣人族のミラだった。またもや家出したらしく肩で息を切らしていたが、エリアに会えたうれしさを体で爆発させていた。
「会いたかったんだもん、じゃないでしょ? どれだけ親が心配すると思ってるのよ?」
「いいもんっ! ちゃんと戻ってくるって地面に書いておいたからっ! ところで、そのおっきいの、何?!」
そういうとミラはアールのほうを見上げた。ミラは5歳くらいの子どもくらいの大きさだが、アールからするとミラはまるで人間に例えると腕で抱えられる子犬のようなものだ。小さい体からあふれんばかりのキンキン声がほとばしるせいで耳の良いエリアだけでなくアールも耳をふさぎそうになった。
「へぇー。それじゃ、アールはきしっていうのになりたいから、町に行きたいんだねっ。あたしもその町っていうところに行ってみたいなぁ。人間見てみたいし」
「行ってもいいと思うけど、ミラはその耳を隠さなきゃだな」
「えぇー。いやだよっ! 耳聞こえなくなっちゃうっ」
夕暮れ時、アールはエリアの家で家出してきたミラと共に夕食を食べていた(ミラが人懐こいせいでアールは出会った瞬間ミラと仲良くなっていた)。このところ、全く狩りをしていないアールはエリアの出してくれた夕食の野菜スープに物足りなさを感じていたが、出してくれた手前文句は言えない。エリアは奥の厨房で片づけをしていたが、ひょっこりと顔を出すとアールに向かってこう言った。
「ところで、アールはマダム・マーラっていう人のところに泊まってるんでしょう? 帰らなくてもいいんですか?」
「あ、忘れてたっ! 心配してるかもっ」
ディネポサ山のふもとにあるマダム・マーラの家に、一人の青年が訪れていた。その人は周りに誰もいないことを確かめると、扉をノックした。
「はい、どちらさま……、あら、ルッツィじゃない。あなたがこんなところに来るなんて、よほどのことがあるんでしょうね」
ルッツィと呼ばれた青年はマダムの顔を見ると安堵したかのように返事も待たずに屋敷の中に入った。家に入るなり、ルッツィは間髪いれずに頭を下げた。
「お願いがありますっ! ある人への復讐に力を貸してくださいっ! あなたしか、頼れる人はいないんですっ!」
瞬く間に街中で二つの熱狂が湧きあがった。それは全ての命を大切にすることと、人間に害をなす生物を駆除すること。一見相反するこの主張は、反目し合っていたがいつしか見分けがつかないほど分かちがたく組み合わさることとなった。
このことは、伝統的なサン・マリ教の信者であるゼルの眉を顰めさせる結果となったが、この熱狂はすさまじい勢いで広まったためサン・マリ教の信者でさえ、新興宗教のパン・シール教団の教えを無意識的に信じるようになっていた。そしてこのことが人々の生活を変え、意識をも変えアールの前に障害として立ちふさがることとなる。