崩壊の危機、狂気と理性の狭間
累々と積み上がった人形の山。皆一様に切り裂かれた痕がある。それをやり遂げたのは大きなハサミを掲げたテレージアだけではなかった。
最初のうちは襲いかかってくる呪いの人形をテレージアが次々と斬っていった。が、倒しても次から次へと人形が襲いかかってくるものだから、見かねたミラが襲いかかってきた人形を引き裂いたのだ。エリアが二人を守るため守護魔法をかけたおかげで、ミラとテレージアは無傷で済んだ。
「この人形、人間みたいで生々しい……。二人とも速くここを離れましょう。他にも何か罠が仕掛けてあるかもしれないから」
「はーい!」
とは言え、これからどうすればいいのかまだ不明だった。ミュリエルを助け出そうにも、彼女の居場所がわからないし、見つけたところで無事に帰られるとも思えない。
エリアは森の奥に人間の建物がある事を認識していたが、深く追及しなかったことを後悔していた。パン・シール教団に関係している建物だと早くに分かっていれば、対処出来ていたのかもしれない。
後悔は先に立たない。今すべき事に集中しなければ。エリアが無事に大量の人形を倒したミラとテレージアを連れながら思案していた矢先の事だ。
「ちょっと! 待って! どこ行くの?!」
突然テレージアが叫んだ。その先に誰かいる。とっさに振り向いたエリアが見たものは……。
「ミュリエル! 助けに来たよ! 速くここから出ましょ!」
しかし何か様子がおかしい。テレージアが呼び掛ける声にミュリエルは反応せずに脇を通りすぎたのだ。その異変にエリアも感づいて、ミュリエルの顔を見てハッとした。
「テレージア、ミラもミュリエルに話しかけては駄目」
「え? 何で? あの人テレちゃんの友達なんでしょ? どうして……」
「ミュリエルは人格を黒魔法によって塗り替えられているわ。あの人はもう、私たちの知っているミュリエルじゃない」
無色透明の水をケトルに入れ沸騰呪文で暖める。この水はマダム・マーラが浄化作用のある龍の血を透明化呪文をかけ無味無臭にしたものだ。洞窟内は降ってきた赤い血を集めた袋で足の踏み場がなくなりそうになっていた。
「村があった頃はまだ幸せな方でしたよ。街の人たちほど裕福じゃなかったけど、あの頃は帰る家があったんですから」
誰に話しかけるというわけでもなくルッツィが過去の思い出を話し始めていた。
「私、本名はルチアっていうんです。ルッツィは村が魔物に滅ぼされた後、素性を隠すために仕方なく名乗った名前だった。その頃一緒に遊んでいたトミーも、行方をくらませて街で泥棒みたいなことをやっていることを知ったときはショックでしたよ。まあ、私が言えた義理じゃないんですけどね」
「あなたも、トミーも生きるのに必死だったのでしょう。今はスカイと名乗っているようですが」
しばらくするとケトルから湯気が沸いてきたのでマダムは沸騰呪文を止めた。コップを二つ取り出しお湯を注ぎハーブ入りの小さな袋をそこにいれた。
「魔物さえいなかったら、私はまだ村で過ごしていたかもしれないし、トミーも泥棒なんてしなかったかもしれない。私、やっぱりジェイルに復讐したい」
「あなたがそう思うのは無理のないことですわ。あの人のやっていることは生命への冒涜ですから。でも一つ、あなたに言っておくべき事がありますわ」
ハーブティーをルッツィに渡しながらマダムは次の言葉を続けた。
「東洋のある国にはこういう言葉があります。どんな時もお天道様が見ている、というものです。お天道様というのは太陽のことですわ。良いことも悪いことも天がちゃんと見ていてくださると言うことです」
「……なんだか、お祖母ちゃんがそんな事を言ったような気がする。でも、私にはそんなこと信じられそうにない。誰かがあいつを倒さなきゃ……」
「そう、今は信じられないかもしれません。こんな世の中ではそう考えたくなりもします。ですが、悪いことはいつまでも続くものではありません。それは良いことも同じ。物事には終わりがあるのですわ」
「でも……」
ルッツィはまだ不服そうな顔をしていた。悪事を野放しにするぐらいなら速く倒した方がいいと言いたげだ。
「それに、わたくしに出来ることは誠意を持って真実を語る事くらいですわ。無理矢理自身の考えを押し通しても、恨まれますから。良いことをしたと思っても誰かがあなたを恨めばその人にとってはあなたが悪人ということになりますからね」
「マダムは誰かに、……恨まれたことがあったのですか?」
ルッツィがこう聞いたのはどうやら、マダム自身の事を言ったのではないかと思ったからだった。
「わたくしがあなたくらいの時に一度だけ。わたくしがまだギョドルム公国にいた駆け出しの呪い師だったころのことですわ。その頃のわたくしは浅はかにも将来が分かるなんて豪語していましたわ。今なら、恥ずかしくて口にもしたくないですわね。それで、客の将来を見ていたのだけれど、わたくしはしてはいけないことをしてしまいましたわね」
そこでマダムは一息ついてハーブティーを飲んだ。ルッツィは聞いてはいけないような気がしていた。
「……それで?」
「見えたことをありのまま伝えてしまいましたわ。わたくしは伝える相手をよく見ておくべきだったのですわ。そのせいでわたくしは身分を隠さなくてはいけなくなったのですから」
「それはどういう意味、ですか?」
「ある名門一族の滅亡をその人自身に語ってしまったのですわ。ギョドルム公国に来ていたミドルーラ家の子息であるゼル様に、ね。その何年か後に一度お会いしたのですけれど何年も前のことだから、ゼル様はわたくしの事を覚えていなかったようですけれどね。あの時伝えたときには激怒してもう二度と俺の前に姿を見せるな! って言われたのですが、間に誰かが止めに入ってくれなかったら、今ごろわたくしは獄中にいましたわね」
狂気に飲まれたアールの頭の中には怒りが渦巻いていた。暴力をふるう父親への怒り、自分を捨てた母親への怒り、巨人に無理解な世間への怒り。そして何よりどんなに努力しても騎士になれそうにない自分への怒り。様々な怒りがない交ぜになってただただ誰かを襲うことしか考えられなかった。
どうせなら、自分に一番無理解な奴に報復しよう。そう思い立ったアールはディレル街へと向かった。
黒く深い霧の向こう、おぼろげに満月がかすんでいた。
薄れ行く理性を手放すまいとヨエルは一か八かの賭けに出ていた。人々の理性と良心を取り戻すための聖水の雨を降らせる呪文をかけることにした。うまく行けば皆元通りになるかもしれない。悪くすれば何もかも崩壊してしまうかもしれない。けれど、これ以上の辛酸はなめたくなかった。
「どうか、皆を元通りにするための聖なる雨を降らせてください」
街が狂気に飲み込まれようとしていた時。赤い雨が透明な雨に混じって降ってきた。いつしか雨はどしゃ降りになり、黒い水を洗い流し人々の理性を甦らせた。しかし、レイラムの支配は終わっていなかった。彼女の目から放たれる赤い光がまたもや人々の理性を狂わせようとした。
そんな時だ。アールが街を襲撃したのは。龍の血の雨はアールの正気を取り戻すどころか、灰になった体をボロボロにしただけだった。そしてアールはまた煙のような姿に変ぼうした。
「おい、あれを見ろ! 何かがこっちに来てる!」
人々が空を見上げる。その時には空にたなびく煙のアールが街を壊滅させようとしていた。




