呪いの痕跡、今まだここに
目が覚めたときには、一瞬自分がどこにいるのか、まったくもって検討がつかなかった。服に違和感を感じたのでよくみると、マダム・マーラは服が赤いもので濡れていることに気づいた。
「……もしかして、これはあのミリア湖の竜の血?」
彼女自身は薄々感づいていた。たとえ竜の血で魔物を浄化しようとも、根本の原因であるジェイル父長を野放しにしていては解決したことにはならないことを。
「一度、あの娘のところへ戻った方が良さそうね」
あの娘とはルッツィの事である。マダム自身が呪いから解放されたならば、もう目を覚ましているはずだ。そして、あの獣耳娘のミラも。ルッツィは魔法が使えないので、他の誰かが周りの結界を解かない事には、外には出られない。そして恐らくミラもマダムの勘によれば、他の魔法の素養がある者によって、ルッツィと同じように周りに結界を施されているはずだ。
辺りを見渡すと、何の変哲もない山の景色が広がっているはずだった。確かにあのどす黒いヘドロのようなものは、赤い雨で消滅していたし、魔物の植物も見かけなかった。しかし、アールがこの辺り一帯を炎で焼き尽くしたため、山肌は燃え尽きた木々と灰で埋め尽くされていた。
「なんておぞましい……。まさか、アールが? そんなはずは……。……あら、これは何かしら?」
ふと視線を下に向けた。地面から何か得体の知れない灰色の大きなものが出ている。良く見てみると、それは大きな手だった。灰色なのは、灰で煤けているからだ。
「……アール……」
何もかも失ってしまった。屋敷に戻ったゼルたちは不気味な赤い雨にぬれながら呆然としていた。屋敷の中は荒れ放題、メイド等の人気もなかった。それもそのはず、ゼルたちが捕まっていた間、パン・シール教団の関係者が屋敷内に在るものをすべて奪い取ってしまったからだ。誰も口を開こうとしない中、最初にしゃべったのは初めてゼルの屋敷に侵入……、ではなく入った盗賊のスカイだった。
「……まさか、財宝全部ないのか? 何もないなんてあるか? こんなことってあるかよ!」
「お前はここにきてまで財宝のことしか頭にないのかっ。こんなこと父上が許すはずがないっ。……そうだ。父上、父上を探さなければ! どこかにおられるはずっ」
なぜ、盗賊であるスカイがそこにいるのか、という疑問は誰も差し挟まなかった。それだけ屋敷の中ががらんどうだったのだ。
「私も探して来るねっ」
屋敷内は広いから盲滅法に探しても無駄だとヨエルが忠告する前にパツィは行ってしまった。
「……じゃあ、オレはお宝探しするか。まったく何もないってわけじゃあないだろうしな」
右手がないのでもし仮に宝を見つけたとても抱えることのできそうもないスカイがパツィに続いてどこかの部屋へと向かった。
一人残されたヨエルは、だだっ広い玄関ホールを見渡した。天井には、吊るされているはずのシャンデリアでさえもなかった。
「……この屋敷、不穏なものが漂っている。それが目覚めぬうちに、ここを出た方が良さそうだな」
それは微々たるものだった。魔法に素養がある者でしか感知できない、黒魔法の罠が屋敷全体に張り巡らされているのを、ヨエルは感じ取っていた。しかし、みんなに知らせようにも、すでに皆散らばってしまった後だった。
「気乗りはしないが、探しにいくか」
そう言いながらヨエルは、玄関ホールを後にした。その直後、ヨエルが入っていった扉は跡形もなく消えていった。この屋敷はゼルたちがとらえられた後、パン・シール教団のアジトにされていたのだった。
そんなこととは露知らずヨエル以外の人たち、ゼルとパツィは人探しに、スカイは残された(?)宝探しに躍起になったのだった。
湖から戻ったエリアは、診療所に人の気配がないことに気付いた。部屋の中は作りかけの薬が残されたままだ。それを見たエリアはなにかとんでもないことにミュリエルが巻き込まれたのだと悟った。頭の中が真っ白になるのを感じながら、微かに何かが叫んでいるような音がしたことをエルフの鋭敏な耳がとらえていた。
「外から聞こえる。誰かしら?」
もしかしたら、赤い雨を逃れた魔物がまだ残っているかもしれない。警戒しながら、エリアは診療所を出た。
「……してよっ。ここから出してってばー!」
その音、というより声は呪われたミラを閉じ込めた小屋から聞こえていた。呪われたミラから出る大量の呪いの黒い液体を阻むため、小屋の周りに結界を張っていたのだ。
「……ミラ、あなた体は大丈夫なの?!」
「起きたら、赤い何かでずぶ濡れになってたの! それよりも、早くドアを開けてよー! 外に出たいよー!」
ミラの声は元気そのものだ。赤い雨が結界を通り抜けて、小屋の中にまで染みだしたのだろう。竜の血の雨がミラの呪いを消したらしい。けれどもまだエリアには心配する事が残っていた。もし、呪いの水か小屋の中に残っていたら? そうなると、簡単に小屋の扉を開くわけにはいかなくなる。ミラを外にだした瞬間に黒い液体が外に流れて来るからだ。エリアは悩んだが、あることを思い出した。透視すれば小屋の中を見ることができることに。あまりこの術は使用したことがないのでうまくいくかどうかわからなかったが、ミラの容態を調べるため、やるしかなかった。
「もう少し待っててね。少し調べてから扉を開けてあげるから」
何時間過ぎただろうか。突然降ってきた真っ赤な雨でずぶ濡れになりながら微動だにしない扉の前で人形のテレージアはいったり来たりを繰り返していた。彼女に表情があったならば青ざめていたことだろう。何故ならば、テレージアと一緒にいたミュリエルは、中から出てきたジェイルに捕らわれてしまったからだ。
「赤い雨が降ってきたときはもう終わったかと思ったけど赤い雨のお陰で魔物が元の動物に戻って少し安心したわ。けど一難去ってまた一難……。あの人をどうやって助けようかしら? 私が人形じゃなくて人間だったら良かったのに……。……あら? 何かが駆け寄ってきてる?」
その何かは、テレージアが文句を言う前に彼女を抱き抱えた。
「お人形さんだー! しかも喋ってる! すごーい!」
テレージアを抱き上げたのは、呪われていたミラだった。呪われた時は、黒い液体が目鼻口、耳からも吹き出していたが、その痕跡はどこにもなく元気そうだ。抱き締められたテレージアは、何とかミラから逃れようとしたが、ミラの力は思いの外すさまじく逃げられなかった。
「何よ! こいつー! 離しなさいよ!」
「ほら、人形さんを離してあげなさいっ。嫌がってるでしょ!」
「いやー! この子連れて帰るんだもん!」
ミラをたしなめたのは、エリアだった。全速力で走るミラを追いかけたせいで少し息が上がっている。
「いきなり走ったらダメじゃない……。……っ、この館はっ。……何で、こんなところに……」
エリアの顔がひきつったのはその建物のせいだった。建物の扉の前には、禍々しい魔物のオブジェがいくつも立ち並んでいたからだ。他人に言われなくても、ここがパン・シール教団に関係していることくらい嫌でもわかる。今にも動き出しそうな魔物の銅像の前で、ミラは無邪気にテレージアを撫でていた。
「一緒に暮らしたら楽しいよー。ね? アール兄ちゃんも喜んでくれると思うよー!」
人形を離そうとしないミラは呑気に人形に話しかけ続けていた。嫌な雰囲気に飲まれかけそうなエリアに気づく素振りは微塵も見せなかった。




