赤い滴と黒い灰
空を覆う黒い霧。人々が空を見上げた時だった。異様なその黒い霧は人々を恐怖に陥れるには十分だった。徐々にではあるが黒い霧が街に向って降下してきた。身の危険を感じた街の人々は建物の中に駆けこんだ。黒い霧に覆われるとどうなることかわかったものではない。皆一斉に駆けだしたせいで小さな子どもや女性は勢いに耐えられず人々の波に押し倒されてしまった。
しかし、異変は最初から起きていた。が、気付いているものはなかった。ディレル街は最初から黒い空に覆われていたのだ。一体何が街の人達の目を曇らせていたのだろうか? どうしてここまで物事を悪化するに任せていたのだろうか?
しかし、同じようなことは他の街にも起きていた。人形作りで有名な工房があるあのトルストゥールでさえも、黒い霧の魔の手から逃げられることはなかった。店主は人形作りに没頭していたためか、助手が終始怯えた表情でいることに気づかなかった。
「……あの、外の様子がおかしいんですけど……」
「人形の服を縫う手を止めるんじゃない」
「でも外が……」
「うるさいっ! 仕事に集中しろ! 外のことなど気にするな!」
助手は店主に強く言われたこともあっておとなしく従うことにしたが、心の内では外が真っ黒になったのは人形のせいだと思っていた。呪われた人形を作っているから空まで呪われてしまったのだ、と。
止められなかった。止めようとした時にはもう、湖の主であるドラゴンは血を吐いて突っ伏していた。湖が鮮血の色に染まっていく。この血さえあれば呪いの水を浄化できる。エリアは頭では分かっていたけれどもどうしてもそれをすくい取る気にはなれなかった。でもここにはエリア以外には倒れた龍しかいない。涙が自然とあふれ出る。それでも世界を救うためにこの血を雨に変えなければいけなかった。
「主様、私たちを守り、そしてこの汚れた自然を元に戻してください。邪悪な力を消し去ってください。……この血を雨に変えたまえ」
パツィは皆を引き連れて全速力で走っていた。ゼルとスカイは余裕しゃくしゃくで走っていたが、ヨエルはかなり息切れしていた。後から兵士たちが追いかけて来たが補助魔法で脚力を強化したパツィたちには後れを取るばかりだった。が、もう追いつけないと思ったのか兵士の一人が矢を放ってきた。
「おい、おっさん! お前魔法使いなんだろっ。矢を飛ばしてくる奴を何とかしろよ!」
スカイだけはパツィの補助魔法なしに軽々と走りながら息を切らして足が止まりそうなヨエルに野次を飛ばした。
「ぜぇぜぇっ。お、お前に指図されるいわれはないっ」
「変なプライドは捨てたほうがいい。俺達は装備が何もないんだ。ここはこの盗賊の言う通りにしておけ」
「そうよっ。もし矢が当たったら、逃がしてくれたあの幽霊に失礼よっ」
皆が逃げることができたのは、ひとえにあの幽霊のおかげだった。扉から出る時幽霊が外にいた兵士たちに幻を見せパツィたちの姿を見えなくしたのだ。けれども一人の幽霊の力では限界があったのか、あまり屋敷から離れていないうちから兵士が幻の力を打ち破り追いかけ始めた。その時にはすでにパツィが脚力を上昇させる補助魔法を他の三人にかけるところだったが。
最初に気づいたのは、魂だけになったジェレマイアだった。空高く舞い上がり、うず高く巻き上がる炎から逃げた時、空から一滴の雨が降ってきた。それは赤銅色の雨だった。あまりにも異様な雨なので、それを避けようとしたが、あえなく赤い雨はジェレマイアに当たった。
「何だこれっ? あたっちまっちゃったじゃねえかっ」
雨を拭き取ろうにも、手がないジェレマイアは振り払おうとした。けれど雨はどんどん染み込んでいった。赤い雨はみるみるうちに大雨になり、サルーシャ山を包む青白い炎を瞬く間に消し去った。
「……俺、どうにもなってない、よな?」
赤い雨は何事もなかったかのようにジェレマイアを貫通していく。しかし、アールにとっては大事だったようだ。煙だけの身体のアールは、消し炭も同然だった。
「……うぅ……」
炭の中からうめき声がした。周りの魔物らしき焼け焦げた物体は全く身動きひとつしなかった。だとしたらこの声は何者のこえなのか。ジェレマイアが逃げようか近づこうか迷った時だ。炭の中から何かがうごめいた。
「う、うわー!」
必死になって逃げるジェレマイア。彼の頭の中には、あの煙の魔物から遠く離れた場所へと避難することだけしか残らなかった。
「あいつ、まだ生きてやがる!」
逃げている間にも、赤い雨は降り続けた。
赤い雨は、黒い霧が覆い被さった街にも降り注いだ。初めのうちは空は黒々としていたが、徐々に赤い雨が黒い霧の間から舞い降りてきた。黒い空に赤い雨。人々が恐慌を来すには、それだけで十分だった。
「ね、ねえ! 赤っ、赤い雨がっ! もうこの街は終りよ!」
人々が雨を避けようと建物の中へと避難しようとした時。外に繋がれていた頭に角生えた獰猛そうな犬に錆色の雨があたった。生々しく血塗られたように身体中赤い雨でぬれた魔物犬は苦しそうにうめき声をあげた。
「あの犬を助けなきゃっ」
誰かがその犬に駆け寄ろうとした時には、犬に思いもよらない変化が起こっていた。
「つ、角が縮んでいってる?」
確かにそうだった。赤銅色の雨にぬれ、真っ赤に染まった犬の頭には、まがまがしい角は跡形もなく消え去っていた。
「普通の犬になってしまった……」
変化はそれだけではなかった。雨に当たった人たちは落ち着きを取り戻したかと思うと、憑き物が取れたように今までの行いを恥じた。魔物を愛さない人を罰したか、罰しなくともパン・シール教団に協力したことを恥じたのだ。
世界から徐々に魔物がいなくなっていく……。しかしまだ終りではなかった。でもその事を誰が知ろうか。パン・シール教団や、魔物に熱狂していた人たちは騙していた犯人捜しで夢中になった。最初にやり玉にあげられたのはジェイル父長だった。が、探せども居場所が見つからない。そこで人々が取った手段は許されるものではなかった。スケープゴートを誰かに背負わせることにしたのだ。
「そうだ、あの巨人を捕まえればいいんだ。あいつは前に街中を恐怖に陥れた。あの巨人に責任を背負わせようっ」
赤い雨は結界を貫通した。呪いをうけたルッツィやミラやマダム・マーラは程なく呪いから解放された。けれども、それでも事は終りではなかった。これは、新たな災厄の始まりにすぎないことをこのときは誰も知る事はなかった。
サルーシャ山の中腹。くすんだ灰から、大きな手が延びてきた。その手は地面をしっかりつかみ、その大きな何かはすっくと立ち上がった。




