迷いの森とミリア湖の守り主
痛む足を抑えながら立ち止まる。ミュリエルはエリアに対する不信感がつのりパルアベルゼの森を西に抜けたところにあるミリア湖に行くことにしたのだ。
一人だと寂しいので人形のテレージアも一緒だ。けれど二人は最初こそ互いに話し合っていたが、いつまでたっても目的地であるミリア湖にたどり着けないので二人ともついには黙ってしまっていた。
手にランタンを持ち目の前の道なき道を照らす。不気味なほど静かな森は鳥のさえずりさえ聞こえない。上に目を向けても高い樹が視界を遮り空は全く見えずもう日が沈んだのかどうか全く目視できなかった。
「はあ、ミリア湖、まだかな……。全然見えてこない。本当にミリア湖なんてあるのかなぁ?」
疲労がたまっているせいか、ついうっかり不満をこぼしてしまった。けれどそんな愚痴をこぼしても、テレージアは黙ったままだ。それどころか聞こえないふりをしている。
「……ねえ、ミュリエル」
ついにテレージアが声を発したのはミュリエルが疲れたとばかりに切り株に座ったときだった。ミュリエルの膝の上にテレージアが座ったので自然にミュリエルがテレージアを手で支える形になった。
「何? どうかした? 退屈だから何かしてほしいの?」
「そうじゃない。ただちょっと聞きたいことがあって」
それから少しの間テレージアは口を噤んだ。ミュリエルは人形が何を言いたいのか推測しようとしたがやめた。相手が人間や亜人なら表情があるのでアイコンタクトでわかる部分も多いが、いかんせんテレージアは人形なので表情でわかる、ということがないのだ。
「聞きたいことって?」
「……私たち、おんなじところ歩いてない?」
ひどい悪臭のする沼の中、ルッツィはミラと歩き続けていた。これは夢だという自覚があったが、ひどく長くそしてリアリティのある夢に疲れ果てていた。
「ルッチさん! 臭くてたまらないよ! いつになったらこの沼から出られるのっ!?」
歩き疲れているらしいミラは時折駄々をこねる。嗅覚は人間より鋭い犬並みなのだからこの悪臭に文句を言いたくなる気持ちは痛いほどわかっていた。けれどもミラが何度も駄々をこね続けるのでルッツィはしまいには耳をふさぎたい気持ちになっていた。
「もうちょっと我慢してっ。いつかはこの沼から出られるからっ」
でまかせだった。ルッツィ自身もこの悪夢がいつ覚めるのか分からないのだ。分かっていることはただ一つ、この悪夢に陥る前自分自身の口から黒い水を吐いたことだった。私は呪われている。そう悟った瞬間にこの悪夢が訪れたのだった。
「いつかって五日後のこと? 五日後にこの沼から出られるの?」
一体何をどう聞いたらいつかを五日と聞き違えるのだろうか。ルッツィは溜息が出そうになった。
「五日後に出られるといいんだけどね……。でももう今日が何日なのかわからなくなってるし……」
暦通りならもう霜が下りてきていてもおかしくない時期だった。彼女の村が魔物によって滅ぼされたときからもう一年が過ぎようとしている……。
ルッツィはジェイルに復讐すると決めたときからいろんな事態を考慮して変装しもしものときのために毒薬を飲むことにしたのだ。彼女が少し低い声なのは毒薬を飲み続けた結果声がかすれてきたからだ。
毒薬を少しづつ飲み耐性をつけてきたが呪いに関しては全く想定外だったため、ルッツィは黒く濁った呪いの沼の悪夢から目覚めなくなってしまったのだった。
ミラはこのことに全くと言っていいほど気付いてないのか、ただ単にだだっぴろい沼地の中へ迷い込んだのだと思いこんでいる。ミラはまだ幼いためこのことを言って聞かせるのは酷だと思いルッツィは黙っていたのだが、こうも駄々をこねられ続けては我慢の限界を超えそうだ。
「はやくアール兄ちゃんに会いたいな~。会って高い高いしてほしい~」
アールという名前を聞いてルッツィはドキッとした。今のアールは煙のような姿になってもはや原形をとどめていない。アールもいわば黒い水の被害者なのかもしれないのだ。
呪いの被害は至るところに出ているとすれば、ジェイルをこのまま放っておくのは賢明とは言えない。ルッツィはなんとしてでもこの悪夢から目覚めないといけないと思った。
が、どうやってこの悪夢から目覚めればいいのだろう? ルッツィは服用すると眠りにくくなる覚醒薬を持っていたがこの夢の中ではポケットの中を漁っても覚醒薬どころか傷薬でさえでてこなかった。魔法薬も何錠か持っていたがこの悪夢の中ではどんな薬も出てこなかった。
期待していたわけではない。分かっていたけれども気が沈んでしまう。少し落ち込みながら足元の黒い沼を見ていると足元が泡だっていた。
「……ん?」
次第に泡が大きくなっていく。ボコボコと泡だっているが隣にいるミラは臭いに気を取られていてそれどころではなさそうだった。警戒して足元の泡を眺めていると次第に泡がもっと大きくなった。身の危険を感じたルッツィはミラに呼びかけようとした……。
激しい雨も止み、洞窟から出てきたアールとマダムは聖水捜しを再開した。魔物だらけの山で安全に聖水を探すため気配を消す呪いをマダムが自身にかけたとき、違和感を感じた。足元がぬかるんでいる。よく見ると黒くて嫌な臭いがした。しかもその黒くてドロドロした物が地面だけではなく木にも覆いかぶさっていた。黒い泥を免れた樹は皆無に等しいと言っていいくらいそこかしこ黒く染まっていた。
「なんだこれっ! そこらじゅう黒い泥まみれじゃないかっ! どうなってるんだっ?!」
アールが臭いに顔をしかめて喚く中、マダムは嫌な予感がしていた。もしかしてこれは……。
「……呪いの水が雨として降ってきた?」
絶望感がマダムを襲う。ついさっきまでマダムは雨に打たれていたのだ。もしかしたらその雨水も呪われているかもしれないと思うと心底ゾッとした。濡れた服や髪は魔法で乾かしたとはいえ、もしかしたら呪いの成分は体に残っているかもしれない。
「ど、どういうこと? 呪いの雨が降ったって?」
マダムがこぼした言葉はもれなくモヤモヤした姿のアールの耳にも届いていた。もしアールに体が残されていたら青ざめていたことだろう。
「……先ほどの雨に呪いがかかっているとはまだ決まったわけではないですわ。けれども、黒い水がそこら中にあふれるようになったということは、今までわたくしたちに恵みをもたらしてきた自然はもうなくなってしまった、ということですわ」
「おれ達、どうなっちまうんだっ? いやだよ、ルッツィだけでなくマダムまで呪いにかかっちまうなんてっ」
思っていたより呪いの水が広まる速度は速かった。ということは呪いの水の影響を受けなくするには洞窟か、建物の部屋の中に立てこもって水を飲まないようにするしかなかった。けれどもそれはあまりにも非現実的だった。それで呪いは防げたとしても食料に呪いの影響がないとは言いきれないからだ。
大量の聖水の雨を降らせるためにはマダムの魔力ではあまりにも無力だと彼女は痛感した。
「……この湖は今のところ呪いの影響はない。けど、それもいつまでもつか……。湖の周りに呪いを跳ね返す結界を張っておくのは正解だったが、森の土壌が以前より汚染されつつある。エリア、我はもう水の守り主として力が弱まってきているのを感じている。そこで、頼みがある」
「何でしょうか。ミリア様」
ミリア様と呼ばれたのはミリア湖を統べる巨大なドラゴンだ。銀色の鱗をしているがどこか色あせているようにも感じるのは気のせいだろうか。エリアはほかの自然だけでなく自身が住んでいる森も生気がないと感じていたが、これは気のせいではないのは確かだ。魔物が以前より活発になっているのだから。
「ミリア様と呼ぶでない。龍様と呼んでもらうほうがいい。その名はもうジェイルとかいう奴が名を盗んでパン・シール教の女神として崇めておるからな。頼みというのは……」




