増加する魔物と異様な雰囲気の街
男の名前はヨエルといった。ディレル国ではあまり聞かない名前だが、それもそのはず、男はディレル国よりもはるか北にあるカリドゥスという国からやって来たのだそうだ。マダム・マーラはディレル国の南にあるギョドルム公国というところから来たがその何倍も遠いらしい。
アールとミラは暖かい焚火にあたりながらヨエルの出した燻製肉をおいしそうに食べている。最近生肉しか口にしていないアールでさえ燻製肉を口にした瞬間おいしさがわかるほど香ばしい匂いがした。
けれども、マダムはその肉がまるで魔物の肉であるかのように一切口をつけなかった。そのことに気がついたヨエルはこう言っただけだった。
「その肉は干したシカ肉だ。ついさっき倒してもらった魔物の肉ではない。……だが、素性の知らぬ者が出した食べ物に手をつけないというのも賢明な判断ではある」
「その肉食わないんだったらおれが食べてもいいか? 食べないなんてもったいないよ」
「あっ、あたしもほしいっ! これおいしいんだもんっ!」
ミラがそう言ってマダムの目の前にあった肉に手を伸ばそうとした。が、洞窟の中にはカンテラと魔法の明かりしか灯っておらず足元が暗い。そのせいもあってか、ミラは足元の石に気づかずつまづいてしまった。
「いたた……」
「だ、大丈夫か? ミラ?」
「うん大丈夫……」
かすり傷で済んだらしくホッと胸をなでおろしたのもつかの間、頭上からとても奇妙な鳴き声がした。全員が声がしたほうに目を向けると、血走った目が二つ、ケガをしたミラのほうを狙い定めていた。
そのころディレル街ではパン・シール教団に影響された人々による肉の非買運動が興っていた。市場で売られている肉だけでなく、昔からある伝統料理もその憂き目に遭うことになった。その結果、肉を売った店は倒産が相次ぎ、多くの自営業者が路頭に迷うことになった。
『すべての命に生きる権利がある。肉を買うな。野菜だけで生きよう!』
こういったスローガンが書いてある垂れ幕が街のあちこちで見られるようになった。肉を売っている者はパン・シール教徒に暴行を受けることがわかっているためか、肉を売ることをやめ青果店に鞍替えした者もいた。
このことを良く思わない者たちは、街から出て行くよりほかなかった。街はパン・シール教の思想で熱狂した。この事態を快く思ってないのは熱心なサン・マリ教徒の者たちと肉の販売者だけだったが、パン・シール教徒と同じ土俵で戦いたくないのか、あえてそれを口にする者はいなかった。
ゼルの生家で名家であるミドルーラ家は、表向きはサン・マリ教を信仰していたが、屋敷で働くメイドの中にはパン・シール教に心酔している人物がいた。そのうちの一人がパツィにミートパイをあげたサラである。
彼女はパツィを快く思ってないため、わざとパツィにミートパイを渡しパン・シール教徒からの評判を落とそうとしたのだった。しかし、彼女の思ってもない形でパツィに制裁が下された。なぜかゼルと一緒にディレル街から行方をくらましたのだ。
パン・シール教団に楯突いたからだと後で知り、いい気味だと感じた。が、同時に不信感も芽生えた。
(最近ゼル様の姿をお見かけしないのはあの子のせいに決まってるわ。きっと、ディレル街にいられなくなったからゼル様をそそのかしたに違いないわ。あの子だけいなくなればいいと思っていたのに、どうしてゼル様もいなくなるわけ? ご主人様はこのことご存知なのかしら?)
メイドのサラが心配するまでもなくゼルと連絡が取れないことは父親も百も承知だった。なぜなら、ゼルが戻ってこないことと街の異常事態に気がついた父親はすぐさまサン・マリ教皇であるデュレールに手紙を認めたからだ。
『このままパン・シール教団が力をつけるとサン・マリ教の地位が貶められることになります。提案といたしまして、パン・シール教団へ加担する者に厳罰を課すようお願い申し上げます パオロ・ミドルーラ』
ミュリエルを結果的に追いだしたにもかかわらず、ザカリーの人形工房は上昇傾向にあった。というのも、ザカリーがパン・シール教団のために人形を作るようになり、いつもより儲かるようになったのだ。
いつもミュリエルにひどく当たり散らしていたザカリーだったが、今では新人に厳しくするどころか、昼休みの休憩時間を伸ばすことも許すようになっていた。はたから見るとザカリーは幸せ者に見えたことだろう。
休憩時間に新人が家に戻ってから工房に一人きりになったザカリーは自分自身も羽を伸ばしてもいいと思い、思い切って工房の外に出ることにした。人形作りに没頭するあまりほとんど街を出歩かなかったザカリーは外に出て一瞬自分の目を疑った。
「……な、なんだ? これは……」
『すべての命を大切に! 命こそすべて! パン・シール教はすべての命を愛しています!』
工房を出てすぐ目の前に大きな垂れ幕が垂れ下がっていた。しかも垂れ幕はそれだけではなく街のいたるところに垂れさがっていて街の外観をこれでもかと損ねていたのだ。
「この垂れ幕のせいでトルストゥールの街並みが台無しじゃないかー!」
トルストゥールの石造りの街並みを自慢していたザカリーはあちこちに垂れさがる垂れ幕を見て憤慨した。が、その垂れ幕のほとんどが彼の資金源になっているパン・シール教団の物だということに程なくして気付くことになる。
血走った目の正体は、巨大なコウモリだった。かすかな血の匂いに反応して執拗にミラだけを狙い続けている。ミラは驚いて攻撃をかわしたが、巨大コウモリはミラという獲物をさらさらあきらめるつもりはないらしい。その証拠に大きく口を開けてエコーロケーションをしたからだ。
「う、うわっ!」
「耳が、痛いっ!」
口から出たエコーは耳に聞こえずとも確かに悪影響を及ぼした。巨大コウモリに殴りかかろうとしていたアールでさえすぐさま耳をふさいだほどだった。
「これじゃ攻撃できないよっ! マダム、なんとかならない?」
「無理ですわよっ。わたくしの魔法は魔法陣を描かないと発動しませんのっ。描いている途中で耳が大変なことになってしまいますわっ!」
今まで押し黙っていたとは思えないほど大きな声でマダムが返した時だった。横に立っていたヨエルがアールの前に立ったかと思うと、呪文を唱えずに杖をコウモリにかざした。
何も起きないかと思われたが、その効果は確実だったらしい。杖がまぶしく光った瞬間、巨大コウモリは慌ててその場から離れていったからだ。
皆があっけに取られていると、ヨエルは何事もなかったかのように杖をしまった。
「あの魔物は強い光に弱いからな。……お主もそうであろう? 影に侵された巨人さんよ」
ヨエルという男は魔物の研究をするためだけにこの土地に来たわけではなかった。というのも、魔物は今のところディレル国だけにしか存在しないという事実が判明したからだった。
遠い異国の地出身でありながらどうして魔物の存在を知りディレル国に来ることになったか? その疑問がマダムの中に湧きあがったが彼にぶつけられることはなかった。なぜなら彼女自身呪い師としてここ数年の間に増えてきた魔物のことを色々調べてきたからだった。
魔物の増加が今後の人間の生活をひっ迫することになる。それに対処するためには、ヨエルの動機を知ることなど些事にすぎないのだ。




