第五話
――ああ馬鹿だわ、リディア。貴女、淑女としてなんて事をしてしまったの!
エドモンドとキスを交わした時のことを思い出す度に、リディアは自己嫌悪に陥っていた。あれでは自ら強請ったようなものだ。
エドモンドはあの後、再び触れるような事はなく、数日が過ぎている。
何処か余裕のその表情に、弄ばれているのでは?と疑いたくなる。
王都に移動して来て以来、商会の仕事でエドモンドが不在になる事が増えて、余計に不安も増す。
そんな今日は久しぶりに女友達のお茶会に呼び出されて、リディアはある令嬢の屋敷にやって来た。
気心の知れたメンバーだけだと言うが質問責めにされることが分かりきっているのでその足取りは重かった。
「リディア、おめでとう!ロクスター様とお幸せにね」
「すごいわ。エドモンド・ロクスター様と言えば世界的な大富豪でしょ。国家権力並みの影響力をお持ちだそうよ。先日もインペリアルボックスに二人でいた事が話題になってたわ」
リディアはあの日の事を人に見られ、しかも噂になっていたと知り声を上げそうになった。何とか平静を装うが、エドモンドの影響力を甘く見過ぎていたとショックを受けた。
「……話題って、そんなに注目されてるの?ただの幼馴染みカップルよ」
リディアは額に汗を感じながら、落ち着くためにお茶を口にした。
「本気で言ってるの?新進気鋭の青年実業家、エドモンド・ロクスター様に注目していない人なんてどこ探したっていないわよ。その影響力の大きさから『ロクスター帝国の皇帝』って呼ばれてるわ!若くして莫大な富を築いたその手腕も人脈も、皆喉から手が出るほど欲しいのよ。……貴女、本当にこれから大変よ。きっとフレドリック殿下の側妃になった方がマシだったと思うぐらいにね」
友は意地悪そうに笑って言った。他の友人達も頷いている。
リディアは顔を痙攣らせたまま、友人宅を後にした。
自邸に戻りリディアは最近のタブロイド紙を取り寄せさせた。
すると、リディアとエドモンドの結婚が決まって以降、度々二人の事が見出しになっていることに気付き愕然とした。
『世界を股にかける現代の皇帝の婚約が決定!』
『ハリスン伯爵令嬢は王太子妃ではなく、皇妃に!』
『初恋を実らせたロクスターの皇帝――二人の出会い』
そして、一番最新のタイトルはこれだ。
『歌劇場のインペリアルボックスに現れた皇帝と婚約者』
二人の馴れ初めから、婚約の経緯までご丁寧に記されており、先日の歌劇場デートもしっかり写真付きで事細かに記されている。流石に二人がキスしたとまでは書いておらず、「仲睦まじい」程度に収まっていたが、リディアの気付かぬ内に側妃の噂は完全に払拭されていたようだ。
――何これ恥ずかしい!
リディアは今までタブロイド紙を読んだことはなかった。フレドリックの新恋人と噂された時も同様に話題になったと耳にはしていたが、まさかここまで赤裸々に書かれるものだと思いも寄らなかった。
当時のタブロイド紙をもし目にする機会があったならきっと一生領地の屋敷から出ようと思わなかっただろう。
リディアは読んでしまったことを後悔した。これでは婚約式もどうなることか。
興味本位の視線に晒される恐怖を今更ながら強く感じた。
フレドリックと踊っていた時は噂になっていると知っても目先の欲が勝って好奇の視線なんて気にもしなかったが、今回はそうは行きそうもない。婚約式の後、既にいくつかの夜会に出ることが決まっているが、恐ろしくて既に足が竦んでいる。
エリザベスが噂の渦中にある時倒れたということだが今更ながらその気持ちが分かる。
人に注目されるということはなんて恐ろしいことなんだろう。
恋にうつつを抜かしていた時には全く気にならなかったものだが、今回は気持ちが追いついていない分人の目が気になってしょうがない。
このままではエドモンドに合わせる顔もない。
リディアはその晩部屋に閉じ籠り、エドモンドを心配させることになった。
翌朝、何とか気を落ち着けてエドモンドと一緒に朝食を取った。エドモンドとの結婚は決定事項だ。いくら注目されるのが嫌でも彼との社交は必須だ。
リディアにできる事は彼に恥をかかせない様、貴族令嬢として凛と立つことだけだろう。
リディアはただの令嬢じゃない。将来のハリスン伯爵であり、領主だ。
人の目を気にして閉じ籠る事が許される立場ではないのだ。
そんな人間が領主としての責務を全う出来るわけがないのだから。
そう自分に言い聞かせて何とか折り合いを付けたが、朝食の席で、エドモンドから不審がられるほどリディアは顔色を失くしていた。
「リディア、どうした?お茶会で何があった?」
「何にもないわ。ただ少し、懐かしい皆と話し込んで疲れただけよ」
「そう?なら良いけど、執事にタブロイド紙を取り寄せさせたと聞いたよ。淑女があんなもの見なくて良いよ。万が一君の事を悪く書かれでもしたら、僕が許さないし、何とでもするからもう気にしないで」
リディアは慌てて首を振った。
「気にしてないわ。ただちょっと驚いただけよ」
「そう?まあ、君のことは心も何もかも僕が守ってみせるから、どうか一人思い悩まないで」
そう言ったエドモンドの顔は昔から頼りになる幼馴染みのそれだった。
リディアはやはりエドモンドが一番信頼できると、「弄ばれてるかも」なんて疑ってしまった自分を恥じた。
エドモンドがリディアに酷い事をするはずがないのだ。それは初めて会った時から一度も起こり得ない事だった。
エドモンドは常にリディアを気遣い、寄り添い、味方でいてくれた。
会えなかったこの数年も手紙でいつもリディアやハリスン領を思い遣ってくれたのだ。
それは決して忘れてはいけない事実だ。
朝食を終え、少し庭に出ようということになった。
新緑が眩く、瑞々しい光を放っている。
二人はしばらく黙って庭を歩いたが、中央辺りに来た所で、リディアが徐に口を開いた。
「……エドモンド、心配かけてごめんなさい。そしていつも本当にありがとう」
「どうしたんだい?突然そんな事を言うなんて」
「いえ、ただ、私いつも貴方に大事にしてもらってるなあって実感したのよ」
「僕はリディアの為ならどんな事でも苦じゃないからね。君の辛さも悲しみも憂いも何もかも取り去ってやりたいと思うほど、君が大切だよ。それだけは忘れないで」
「そうね、私にとっての貴方も同じだわ。仕事、大変なのでしょうけど、一人で抱え込まないで、何かあったら私を頼ってね。ハリスン領としても貴方やロクスター商会には恩があるし」
エドモンドは嬉しそうに微笑んで言った。
「ありがとう。リディアが僕と『同じ』気持ちだなんて!本当に嬉しいよ!ここまで来るのに随分時間が掛かったけど、諦め無いで頑張った甲斐があった!」
いつの間にかエドモンドはリディアを抱き込みその両手を一つ手で握っていた。リディアはいきなりの近さにまた顔を赤くして動揺し、「だから近すぎるってば!」と逃げようとしたが、結局身動き出来ず二度目のキスを受け入れる羽目になった。
そんな風に日々を過ごす内に遂に婚約式の日がやってきた。誓約書に互いに署名し、パーティーを開き集まった者たちに大々的に二人の婚約を告げる。
学院時代の友人達を始めとした親交のある有力貴族や、平民だが新興財閥と言われる者達が集い、二人を祝福した。
もちろんこの様子の一部始終もタブロイド紙の一面を賑わせた。
しかし、リディアにとって本当の試練はこれではなかった。
婚約式の翌週は、王宮舞踏会に二人で参加する予定になっている。
伯爵領の次期当主であるリディアの婚約を国王陛下に報告する必要があるので、こればかりは逃げられない。
もちろん、二人の婚約は式の前に国王の許可を取っているのだが。
タブロイド紙はエドモンドとリディアの婚約一色だが、貴族たちの記憶の中から昨年立った噂は消えてはいないだろう。きっと好奇の目で見られるに違いないと思うと、リディアの気持ちは暗く沈んだ。
何より、王太子夫妻にどのように接すれば良いのか。リディアはフレドリックに対する気持ちは整理をつけたつもりだったが、彼の顔を思い出すと胸がツキリと痛んだ気がした。