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昭和25年へ向けて「海軍補充計画」と「漸減戦術」(3)

 おっと、ついつい脱線しそうになりましたが、次に重工業力を端的に表す鉄鋼生産力で見てみましょう。

 


・鉄鋼生産(1938年度統計)

 銑鉄

ドイツ 1700万トン

ソ連  1500万ト

日本  270万トン


 粗鋼

米   6000万トン

ドイツ 2000万トン

ソ連  1800万トン

英   1300万トン

日本  650万トン


※銑鉄、粗鋼共に満州の統計数字を入れると、日本の数字は上昇するが、それも他の列強を前にしては程度問題。

 


 日本以外の代表的な国もいくつか並べてみました。

 

 でまあ、アメリカについては見たくもないのですが、一つだけ言わせてもらいます。

 

 アメリカは、第二次世界大戦時点で日本と桁が二つも違ってしまうほどの潜在的生産力を持っていた点をお忘れなきよう願います、と言うことです。

 事実、この時代に億の単位の粗鋼を作ってます。

 まさにモンスター国家ですね。

 

 そして、なにより日本の数字でなさけないのが、銑鉄の生産力の低さです。

 許すマジ統制経済と言わざるを得ないでしょう。

 この数字の比較を見れば、何の生産を拡大しなければならないのか一目瞭然です。

 まあ、自分の利益と省益と、目先のことしか見えない官僚や軍人に言うだけ無駄ですけどね。

 

 で、これがボンクラ官僚や統制大好き軍人も関係のない石油の比較になると、もう目も当てられない状況です。

 

 日本が数字を上げるのも恥ずかしくなる数字なのに、第二次大戦開戦時ですら、アメリカが第1位(年産約2億キロリットル、日本本土の産油量の1000倍!)で、資源大国ソ連(約3400万キロリットル)すら大きく引き離しています。

 

 また、大英帝国は、広大な植民地と巨大な資本力で世界各地の油田を事実上支配していましたので(主にイランなどの中東油田)、これらを総計すると約4000万キロリットルとなります。

 つまり、ソ連を抜いて事実上の2位ですね。

 これら原油生産高の大きさが、史実での連合国のパワーの源の一つだったんです。

 

 独日が生命線としていたルーマニアやインドネシアの油田などが、それぞれ1000万キロリットル程度ですから、何をか言わんやという事ですね。

 この点、連合国と枢軸国は三十倍の格差。

 ジオンも真っ青です。

 

 また、ファンタジーとして、採掘技術がある程度高度なものが要求される満州の大慶油田(油層は地下800メートル。

 当時の日本の技術では商業採掘は難しい)が、早期に発見され全力稼働したとしましょう。

 

 しかし、総力戦の前では日本の国力がこれを有効活用できるレベルになければ程度が知れています。

 採掘の難しい場所にあるので、当時の日本の技術力でどれだけ採掘できたか非常に疑問です。

 さらに採掘した油を効率よく精製しないといけませんから、日本独自でどれだけできたか疑問符がいっぱい浮かんでしまいます。

 だいいち油質も優れているとは言えないので、日本の製油技術を思うとかなりハンディが付くでしょう。

 

 また、オクタン価の高いガソリンの精製には、大量のモリブテンが必要ですが、無資源国の日本にたくさんあるワケがありません。

 

 これだけでも、ちまたに溢れる架空戦記が、ファンタジーであるかが分かるでしょう。

 謎の坊主一人でどうこうなる問題ではありません。

 だからこそ、たくさんの土建屋や技術者がプロジェクトXする必要があったんですね。

 

 でまあ、油や鉄の問題からだけで分かることは、日本で謎の超エネルギーが突然発見されたり、謎の宇宙戦艦が無傷で日本の手に入ったり、世紀末の日本の半分がタイムスリップするという事でもない限り、アメリカに勝ち目はまったくないということです。

 

 日本が勝つには、開戦初日に巨大隕石がアメリカ東海岸とモスクワとロンドンと延安と重慶とその他諸々の敵地にだけ落ちるぐらいの奇蹟や天佑がダース単位で必要でしょう。

 


 さて、トンデモな夢ばかり見るのも寂しいので、お金つながりで、他の値段も少し見てみましょう。

 

 まずは兵器のお値段です。

 

 日本の開戦初期の艦載機がだいたい6万円程度です。

 陸攻でも24万円程度なのに、アメリカのP47戦闘機なんて軽く20万円超えてます(まあ重量も零戦の三倍の6tもありますが)。

 戦後量産されたピースキーパー(B36)なんて、本気で駆逐艦並のお値段(約1000万円)です。

 B29なんて30億ドル(1ドル2・5円〜4円)かけて2000機も量産してます。

 ハッキリ言って、こんなもんを量産できる国とケンカするもんじゃありません。

 

 また、米国の艦艇を例にあげると、コロラド級:$2500万、サウスダコタが約$7700万です(1$=2〜4円)。

 この頃の日本円価値とインフレ率を考えれば、だいたいの予算も見えて出てきますね。

 

 もちろん、アメリカの兵器のコストが日本よりやや高いのは、人件費の差という理由もあります。

 が、それ以上に基本的なものが日本の戦艦より贅沢に作られていて、それだけ基本性能が高いという事です。

 

 続いて、お値段以外の空しいソースを少し上げましょう。

 戦前の日本は、輸出入総量の3〜4割を主に米英の船舶に頼っていました。

 良く知られているように、日本の船舶量が650万トンですから、日本経済を順調に維持・発展させるためには、あと200万トンの民間船舶が、しかも外洋型の優秀船舶が必要だったという事になります。

 船舶一つで、日本は経済的に英米との戦争なんてできなかったのが分かりますね。

 

 よく言われる300万トンという数字で示される船舶量は、ギリギリ国家経済を維持するという数字でしかありません。

 決して、日本経済が発展できる量ではないのです。

 この点、戦争しつつ経済的に発展する貧乏日本という構図はまったく見えてきません。

 船のない日本など、陸に上がった河童にすぎないのは、史実の惨状が全て教えていますからね。

 

 もちろん当時の日本も手をこまねいていたわけではありません。

 英米との関係が冷えた1930年代後半に、政府や企業も船舶不足を何とかしようとしたのが、数字の上から見えてきます。

 しかし、造船業界がこの受注を裁ききる事はできませんでした。

 

 ある資料では、1938年で未消化受注高が135隻、107万5530トンを数えていました。

 つまり、急に足りないものを作ろうとしても、工業力が不足していたんですね。

 政府の政策によって、旧式船の作り替え事業などで能力を拡大していたにも関わらずです。

 やはり、成長に体力が追いついてないんです。

 

 ただ、この頃に日本の基礎造船力そのものは、受注をさばくため大きく上昇しています。

 船舶受注を裁けなかった原因は、造船力単体ではなく、造船を支える鉄鋼生産力の不足が見えてきます。

 

 そして鋼材の不足は、この頃は日支事変による需要の著しい増大により、十分に船舶用鋼材を供給することができなかったというファクターがあります。

 ここにも、直接戦争以外に使う鋼材を供給できないという、基礎体力の不足する日本の現状が垣間見えてきます。

 

 また、日支事変勃発後の日本政府は、1937年「臨時資金調整法」を成立させ、資金を軍需産業に重点配分し生産力拡大を図りました。

 ですが、1939年までに設備拡充をめざした52社のうち予定通り拡充出来たのは18・5%に過ぎません。

 77・3%は計画未達成及び未着手で、しかもその主な理由は42%が資材不足で、40%は機械入手の遅延となっています。

 

 もちろん最大の原因は、英米の関係悪化とチャイナとの戦争にあります。

 日本は英米から主に機械を入手してましたからね。

 

 ですが、原因は海外との関係悪化ばかりではありません。

 エリート馬鹿も大きな原因です。

 

 中途半端な統制経済の悪影響と、熟練工の無軌道な徴兵がその象徴でしょう。

 どんな人間、兵器も、画一的な「駒」としか捉えられないよう育てられたエリート軍人などクソ喰らえってところですね。

 

 まあ度し難い純粋馬鹿どもの事はさておき、世界情勢が日本の窮状に拍車をかけます。

 

 原因の一つはドイツ。

 当時のドイツが未曾有の軍拡に傾いていたのが原因の一つです。

 ドイツの工業力は、なによりもまず自国に費やされていたんです。

 そして欧州の優れた機械じゃないと、日本は計画通りの生産はできないんですね。

 

 しかも、日本の鉄鋼鋼材不足は、製鉄所建設に対して日本政府中央が妙な統制を行ったからという、どうしようもないオマケがついてきます。

 やっぱり、統制経済許すマジです。

 


 そして日本の貧弱な重工業力の現状から、基礎工業力(ここでは、工場建設のための土建能力、材料加工のための工作機械の不足)が日本国内だけでは全然足りないという面が強く見えてきます。

 

 しかも国内にある、なけなしの重工業力も多くが既存の兵器生産に費やされており、日支事変がいかに日本経済に悪影響を与えていたかを証明しているでしょう。

 

 ないないずくしの軍需主導の傾斜生産など、どだい無理だったんです。

 

 それでも大東亜戦争最盛期までに多数の造船所、ドッグなどが建設され、技術向上と泥縄式の生産効率の上昇もあって、最大で年間300万トンの生産力を発揮できるまで造船力は拡充されました。

 

 だがこれも、重工業の基礎である鉄鋼生産能力が、施設がそれ程拡充されないまま既存施設での生産拡大のみが行われたため、日支事変ですでに限界に達していました。

 

 そして様々な要因から鉄鋼生産力を新たな拡充もできなかったので(ぶっちゃけ、一時期無茶をしていた満州以外では拡大する余裕がなかった)、いくら造船が生産力を上げてもそのための資材を鉄鋼側が供給できません。

 また、いかに多数の工場を造ろうとも、その中に据え付けられている機械は、ドイツやアメリカ、チェコなどの優れた外国製ではなく、日本製の精度・信頼性、稼働率に劣る機械なので生産効率はどうしてもかなり低くなります。

 

 しかもそれを操るのは、戦争末期になるほど悪化します。

 生まれてこのかたトンカチ一つ持ったこともない女の子に、ヤスリやハンマー片手に最新兵器を作れと言ってもできるわけありません。

 

 もっとも当時の日本は貧乏国。

 外国の工作機械を大量輸入していては、貿易赤字が増すばかり。

 当時世界は大戦争に向かっていて、日本に輸出する余力が少なかったという仕方ない側面もありますね。

 

 いっぽう1930年代の日本全体で、発電所、利水など基礎的なインフラが、満州以外で大規模に作られたという資料はあまり見かけません。

 ここから、重工業に不可欠な発電力や浄水能力も追いついていなかったのではと考えられます(少し資料不足してます(汗))。

 

 もっとも日本の工場の電化率は、列強最低の40%程度だったという資料があります。

 つまり、電力供給の問題はそれ程重要じゃないかもしれません。

 日本の工業が基礎的な面で遅れていた証拠でしかないようです。

 

 小さな町工場が生産の多くを担い、末期には学徒動員なんてしていたんですから、ある程度想像できるでしょう。

 

 ただし、今あげたような事は、とにもかくにもそれまでの日本の工業力が、規格化や大量生産技術などと言う以前に基盤面が貧弱であり、1930年代に入りようやく欧米列強並に発展しようとしていた、まさに重工業化に向けての過渡期にあったと言えると思います。

 

 だから、船を造る施設はあるのに中間資材(鋼材)がないなどチグハグな点が多々見られ、順当に経済と産業が発展していれば、今まで挙げた問題の多くが解決されている筈と解釈できます。

 この時期の日本は、真の工業国に向けて飛躍を始めようとしていたところだったのです。

 そう思えば、実にタイミングの悪い時に統制経済を実施し、総力戦をしたものだと思えてきます。

 

 なお重工業の発展については、労働集約型の重厚長大産業である造船の拡大こそが、重工業化の第一関門の一つ(第二関門は近代製鉄の拡大、もしくは土建業の拡大)であることからも分かるでしょう。

 

 これは現代の造船日本の姿勢こそむしろ異常と言え、欧米各国の造船の過半が、軍艦と客船の建造しかしていない事からも明らかでしょう。

 


 さて、お金、工場と見てきたので、最後に人の面を見ておきましょう。

 

 日本海軍を人材面から見ると、一つの面白い数字に行き当たります。

 それは、「八八艦隊計画」が実働していた時期と軍縮後の海軍兵学校、大学の生徒数です。

 単純に見て三倍の格差があります。

 それだけ「八八艦隊計画」は巨大な軍備計画であり、人材を必要としたといえるでしょう。

 当然これは、軍艦の実働を支える支援面にも波及し、工廠関係者など軍需、整備に関わる人の数も同様に拡大していました。

 

 ですが、軍縮で全部振り出しに戻り、四苦八苦しながら十年ほどを歩まなくてはならなくなります。

 

 また、「八八艦隊計画」によって育成された士官達がいたからこそ、大東亞戦争を乗り切れたとも言えます。

 この時期に育成された士官が中堅として軍を支えたからこそ、何とか人数合わせができたのです。

 

 ですが、これは別の側面から見ると、英米のように一般大学生を将校とする制度が日本に不足していた、何よりの証拠だともいえます。

 

 もっとも、一般学生を短期教育で将校にする制度があったとしても、さらなる問題が待ちかまえています。

 

 それは、日本に高等教育を受ける人が多くは存在しないからです。

 そして高等教育を受けていないのは、造船、鉄鋼を始めとする工業を支える工員、技術者においても同様です。

 海軍補充計画が順次拡大していけば、おそらくは海軍に偏重した技術者比率になっている筈です。

 

 この点を突き詰めてしまえば、日本人一人当たり所得が低かったため、誰もが高等教育を受けることができなかったという点が浮き彫りになってきます。

 

 そして、史実と同じレールの上で想定を作り上げていく以上、派手な想定を作り出すことは不可能になります。

 

 全てが比較的順調だったとして、日本人の多く(過半数以上)がある程度豊かになるのは、実質的に1940年代に入ってからになります。

 

 同時に、学生数そのものを増やすため、複雑な学制を改変し、もう少し敷居を低くする制度を作り上げなくてはなりませんが、学校に入るだけの経済力を市民が持たなければ、宝の持ち腐れになります。

 

 つまり、人材面で革新的な改変は不可能というのが、人材面での結論です。

 人材面だけから見るなら、ロンドン会議以後日本の発展が順調だったとしても、1950年代まで待たなければ十分な人材は揃わないという事になります。

 

 おそらく、全てが順調だったとしても、軍隊は「八八艦隊計画」頃のベテラン将校と、海軍補充計画が拡大して以後の若年将校によって多くが占められるという事になります。

 同時に、高等教育機関でマスプロ生産された高レベル労働者は、20代から30代前半が主力という事になるでしょう。

 


 何だか数字や資料をあげているうちに空しさばかりがこみ上げてきました。

 

 しかし、結局何が言いたかったかと言うと、1930年代後半全部を自由主義経済に基づいた工業施設の基礎面での拡充に充て、1940年代前半をその整備とさらなる拡大に費やせば、10年から15年で日本の本当の意味での工業化は達成できるという事です。

 そして、それが完成してしまえば、大艦隊でも機甲師団の群でも何でも作りたい放題です。

 

 アメリカほどとは言いませんが、ドイツやイギリス、ソ連レベルの生産効率と国力相応の生産力は発揮できる筈です。

 

 そして、1950年に「海軍補充計画」を完遂させるためには、1930〜40年代に戦争の当事者になってはいかんって事です。

 

 もしくは、日本の近代化そのものが四半世紀早ければ、順当な産業発展が行えて、ドイツに近い能力を持っていたとも仮定できますが、ここではそれは論じないので、日支事変勃発せずのフラグを最重要の起点としてもう少し見ていきましょう。


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