「ブリュームヒェン」 ~赤ずきん異聞~
昔々あるところに、赤ずきんという可愛い娘が居ました。その子はとても元気が良く、親に内緒でしばしば遠い場所へ遊びに行っていました。だけどその遠い場所というのが幼い娘にとっての遠くであり、大人からすればさほど遠くもない場所でした。
赤ずきんがよく遊びに出ているその場所というのが黒い森と呼ばれるところで、しかもそこには彼女のお祖母ちゃんが住んでいました。なので娘の両親は何処で遊んでいるかなどとっくに知っていたのです。
―――……だがしかし。赤ずきんの家族が知っているのはそこまで。赤ずきんが黒い森で誰と遊び、何処へ行っているのかまでは、全く知っていなかったのです。
――――――
そうして赤ずきんが乙女と呼んでもいいぐらいの年になったある日のことです。今日も赤ずきんはお日様が昇って間もないぐらいに黒い森へ出向いていました。
鬱蒼として広い森。人がよく行き来する道を通れば迷うことはありませんが、少しでも好奇心を覗かせて脇へ行くとあっと言う間に迷子になってしまう森です。
そんな森へ赤ずきんは決まって一人で来ます。その手にはピクニック用の荷物である籠が提げられています。
「おーいおーい!」
そして森へ着くなり大きな声で誰かを呼びます。娘の高い声が木々に吸い込まれた頃―――木の蔭からのそりと大きな影が姿を現わします。
姿を見せたのは狼でした。
大人でも見上げることになる巨躯を太い四肢で支えた灰色の狼。その大きな口をぐわっと開けば人の一人ぐらい丸呑み出来るでしょう。
そんな見るも恐ろしい獣。
しかし赤ずきんはそんな狼を前にして満面の笑みを見せます。
「おはよう狼さん!」
屈託無い陽気な挨拶。それに狼は疲れたように首を振ります。
「……ハァ……。おはよう、人の子。……だけど俺は前に言っただろ? 危ないから森で大声を出すなと」
「そうだっけ?」
「……まったく……この子は……」
「ねえねえ狼さん! それより今日も一緒に遊びましょう!」
娘は狼の首元に顔を埋めるように抱き付くときゃっきゃと騒ぎ立てます。その幾つになっても子供っぽい振る舞いに狼は「しようのない子だ」と言い、だがまんざらでもない様子を見せます。狼も赤ずきんが来るのを楽しみにしていたのです。
狼が草の上にしゃがみ込むと娘は飛び上がるようにその背へ乗ります。狼のわさわさとした毛のある背中は娘のお気に入りの場所でした。
「狼さん。今日は何処へ連れて行ってくれるの?」
「そうだな……花畑はどうだ?」
「私あそこ好き!」
「じゃあ決まりだ」
そうして狼はのっそのっそと森の脇道へ進んでいきました。
◆◆◆
赤ずきんと狼の馴れ初めは少し前に遡ります。
「私の“可愛い宝物”。実は貴女のお祖母ちゃんが病気でね、見舞いに行ってほしいの」
「良いよー!」
今より幼い娘は今と変わらず元気な声で二つ返事する。それに娘の母親は心配そうな目を向けます。
「大丈夫? お祖母ちゃんの家の場所、知ってるわよね? 私、用事が有るから貴女一人で行ってもらわないといけないのだけど」
「うんー! 大丈夫ー!」
「……本当に大丈夫かしらこの子……」
元気と愛想はとびっきりですがちょっと頭が足りない娘を母は心底心配そうに見ます。ですが結局は娘だけで見舞いに行かせることになりました
「行ってきまーす!」
「寄り道しちゃ駄目よー。あと知らない人の言うことも聞いちゃいけませんからねー」
「わかったー!」
娘は大きく手を振って家を出て行きます。もう片方の手には母から見舞いの為に持たされたケーキと葡萄酒が入った籠が提げられています。
娘は弾むような歩みで街の中を行きます。そしてすれ違う街の人々は娘を見掛けると声を掛けます。
「おはよう赤ずきんちゃん」
「おはようおじさん!」
「お出掛けかい赤ずきんちゃん」
「うんー! 黒い森のお祖母ちゃん家へお見舞いに行くの!」
「気を付けていってらっしゃい赤ずきんちゃん」
「はーい!」
娘は笑顔で声を掛けてくる人達に応えます。彼等は近所に住む顔見知りなので母の言い付けを破ったことにならないので大丈夫。
そして街の人が娘を赤ずきんと呼ぶのは彼女が赤い頭巾を被っているからです。そのずきん姿がとてもよく似合っているので皆は彼女を赤ずきんちゃんと呼んでいるのです。
この頭巾にしている赤いスカーフはお祖母ちゃんが作ってくれた物。丁寧でしっかりしたそれはお祖母ちゃんが孫であるこの娘を可愛がっている何よりの証でした。
多くの人に可愛がられている赤ずきんは意気揚々と目的の場所へ向かいます。行き先はお祖母ちゃんの家がある黒い森です。
―――しかし悪い者というのは何処にでも居るものです。
小柄な体を元気いっぱいに動かす赤ずきんの姿を影ながらあやしく見る者が居たのです。
「なんて美味そうな娘だ。赤ずきんと言うのか、それにお祖母ちゃんの見舞いに行くのか。よーし、追い掛けて隙を見て二人共々食ってやろう」
それは恐ろしい人食い鬼でした。青年に化けた人喰い鬼はひっそりと赤ずきんの後を追って黒い森まで入って行きました。そして人喰い鬼は先回りすると、赤ずきんの前に姿を現わします。
「やあ赤ずきんちゃん、こんにちは」
「こんにちはー?」
知らない人に森の中で突然声を掛けられた赤ずきん。母の言い付け的にかなり具合が悪い。ですが相手がニコニコと人が好さそうな笑顔で自分の名を呼んでくるものだからうっかり応えてしまいました。ですが赤ずきんは母の言い付けを完全に忘れてしまうほど馬鹿ではありませんでした。
「赤ずきんちゃん。これから何処へ行くんだい?」
「…………」
「おや? どうして教えてくれないんだい」
「ママから知らない人の言うこと聞いちゃいけないって教えられたから」
「知らない人とはひどいな。こうして挨拶して、君の名前を呼んだ。……ほうら、もうオレ達は知り合いさ」
「んー? ……そうかもー!」
……言い付けを忘れるほど馬鹿ではありませんが、赤ずきんはおバカちゃんでした。
「私ね、これからお祖母ちゃんのお見舞いに行くの。これは元気になりますようにって持ってきた甘いケーキとくさいジュース!」
赤ずきんは人喰い鬼に自分のことを全部言ってしまいます。人喰い鬼は鼻を押さえます。ケーキもお酒も彼にとっては舌にのせるだけで嘔吐いてしまう物で、そのにおいは嗅ぐだけで眉を顰める物。……ですが人喰い鬼はそんな不快感をおくびにも出さずニコニコ笑顔で赤ずきんに答えます。
「そうかいそうかい。お祖母ちゃんのお見舞いか。偉いねえ」
そして人喰い鬼は冴えた案を思い付きます。
「そうだ赤ずきんちゃん。お見舞いに行くというなら丁度いい話しが有るんだ」
「なーに?」
「そっちの脇道を真っ直ぐ行くとね、花畑が有るのさ。そこでお花の冠を作って持っていけば君のお祖母ちゃんはきっと喜ぶよ」
「本当!?」
お花が好きな赤ずきんは人喰い鬼の話しを聞いて目をキラキラさせます。しかし直ぐに困ったように俯きます。
「……でもママから道草しちゃいけないって言われてる」
「おお、それは困った」
人喰い鬼は白々しくそう言うと言葉を続けます。
「そうだ赤ずきんちゃん。オレが先に君のお祖母ちゃんの家に言って事情を話してこようじゃないか。そうすれば遅れても道草したことにならないよ」
「……大丈夫?」
「ああ、大丈夫」
「わかった! 私お祖母ちゃんの為にお花摘んでくる!」
「気を付けてね」
「うん、ありがとー! じゃあねお兄さーん!」
可愛い赤ずきんは人喰い鬼にお礼を言うと元気良く花畑を目指して脇道へ突き進んで行きました。
「……ヒヒヒ……上手いこといったぞ」
人喰い鬼が背後で薄気味悪く笑っていることにも気が付かず。
――――――
脇道を越えると、そこには見事な花畑がありました。瞳の中いっぱいに広がる鮮やかな花々が赤ずきんをお出迎えします。
「うっわ~!? すごーい!?」
赤ずきんはその綺麗な光景にはしゃぎ回ると丘のてっぺんまで走ります。
「素敵! お祖母ちゃんにとっても綺麗なお花の冠を作ってあげよう!」
優しい赤ずきんは誑かされていることも知らず、大好きなお祖母ちゃんの為にせっせと花冠を作っていきます。
そうして大きくて綺麗な花冠が出来上がろうとした時です。
「……あれ? 何かな、あそこに有るの」
何かを見付けた赤ずきんは作りかけの花冠片手にそこへ歩み寄ります。
「……ふわー……毛玉だ……」
赤ずきんが見付けた物。それはとても大きな毛の塊でした。遠目だと大岩のように錯覚してしまうほどの大きな毛玉が有ったのです。
「ごわごわ。でもあったかい」
皆に愛され怖いものなど知らずに育ってきた赤ずきんは躊躇無くその毛玉に手を突っ込みます。赤ずきんの小さな手が毛に埋まり、その奥の暖かさを伝えてきます。
「もしかして動物さん?」
その毛玉は生き物でした。温もりと共に感じる脈動が赤ずきんにそれを教えます。
「―――……誰だ? 俺の背中を触ってるのは……」
そして毛玉の主はその正体を赤ずきんに晒します。
丸まって眠っていた毛玉の主はゆったりとした動作で首を持ち上げます。その姿に赤ずきんは目をまん丸にして見上げます。
「……狼だ……」
毛玉の主は灰色の巨狼でした。狼は身を起こすと呆然と自分を見上げている赤ずきんへ向き直り、顔を寄せます。
「人の子。お前はこんな所で一人、何をしている」
狼は大の男ですら腰を抜かすような威容でそう問い掛けます。この花畑はこの灰色狼の縄張りであり、彼自身の手によって形作られた花々の楽園。そこへ不躾にも立ち入ってきた小娘に狼は歯を剥き出しにした形相を向けます。
普通の子供ならこの時点で泣き叫び、一目散に逃げ出したことでしょう。……狼もそうなることを狙ってやっていました。赤ずきんを追い払ったらまたお昼寝を楽しみたかったのです。
ですが赤ずきんは普通の子供ではありませんでした。
「私? 私ね! お花の冠を作ってたの!」
「は?」
「見て見てー、綺麗でしょ?」
「お、あ? ……むぅ。……そうだな」
「えへへー」
赤ずきんは絵に描いたような能天気でした。狼は自分をまったく怖れず、「狼さんも綺麗って言ってくれたー」と、ふにゃっとした笑顔でのたまっている赤ずきんにすっかり毒気を抜かれてしまいました。
狼は溜息を吐くと伏せるように寝そべる。
「……花冠、出来たのだろう? なら用が済んだのなら早々に帰れ。人の道ならいざ知らず、この森はお前のような“甘ちゃん”がのんびりできるほど優しくない」
「 ? 」
狼の忠告。ですが赤ずきんは意味が分からず首を傾げます。
「……寄り道するなと、そう言っているのだ。俺は」
「私、寄り道してないよ? さっき知り合ったお兄さんにもそう言ってもらったもの」
「…………」
赤ずきんの言葉に狼は眉間に皺を寄せます。そして鼻面をぐいっと赤ずきんに近付けるとふんふんとにおいを嗅ぎ出します。
「わひゃ。何? 狼さん急にどうしたの?」
「……くさい」
「へ?」
赤ずきんの表情がビシッと音を立てるように固まります。
「カァッ、酷いにおいだ」
狼は鼻の奥に詰まったにおいが煩わしいとでも言うように鼻息を吹き出すと頭を振ります。それを呆然と見ていた赤ずきんの体は震え始め……そして……
「……ひ……」
「ん? ……ひ?」
「ひっどーーーいッ!!?」
「ぬお!?」
赤ずきんが上げた大声に狼は首を仰け反らします。
「ひどいひどいひどい! 私くさくないもん! くさくない! くさくないよ!」
「む。待て。お前は勘違いを」
「狼さんのバカーーーッ!!! 大っ嫌ーーーいッ!!!」
赤ずきんはその顔も真っ赤にして怒鳴り散らすと花冠片手に走り去っていきます。
「―――行ったか。……まったく、騒々しい子だったな」
狼はその後ろ姿を何とも言えない目で見送ってしまうと、再び眠る為に目を閉じます。
―――そうして幾何かして。
風のイタズラか、はたまた別の何かが理由か。狼の鼻にこの場所に咲き誇る花々以外の、とても良い香りがそよ風に乗って届いてきました。
その香りの正体が気になった狼は億劫そうに身を起こすとそれが有る所まで歩きます。
「……む? ……これは」
そして狼はそれを見付けました。
狼はその場で蹲ると、目の前に有るそれを見て如何したものかと悩み後ろ脚で首を掻きます。
「……面倒だが。……まったく、しようのない子だ」
狼は諦めたように息を吐くと、それを壊さぬよう優しく咥えると立ち上がります。牙に引っ掛けるようにぶら下げたそれを持って狼は歩き出します。
「……俺は忘れ物を届けに行くだけだ」
誰に聞かせるわけでもなく呟くと狼は森の中へ分け入っていきました。
――――――
赤ずきんはぷりぷりと怒りながら元の道へと戻ってきました。
「あの狼さん。本当に嫌な狼さんだった。くさいだなんて……。……くんくん……」
赤ずきんはちょっと不安になって自分の体のにおいを嗅ぎます。ですがやっぱり気になるにおいなど無かったので狼さんが意地悪を言ったのだと決めました。
「……早くお祖母ちゃん家に行こ」
花畑に行った当初はあんなに弾んでいた足取りも今は重い。肩も若干落ちています。
―――そうして歩き続け、お祖母ちゃん家が目に入ったころ……赤ずきんは気付きました。
「……あ……あーーーっ!? 無い!? お見舞いが無い!?」
母から持たされていたケーキと葡萄酒が入れられた籠がその手にありませんでした。
「……ああ……きっとあそこよ。花畑で忘れて来ちゃったんだわ」
赤ずきんはお祖母ちゃん家を目前にして右往左往します。
「……先にお祖母ちゃんに顔を見せよう。それで取ってくるのは後にしよう……」
狼が居る花畑に行くのが少し嫌だった赤ずきんはお見舞いの品を取り戻しに行くのを後回しにしました。もう既にかなり遅刻しているのですから。
「……狼さんに会ってから散々……」
泣きそうな気分で赤ずきんはお祖母ちゃん家の戸を叩きます。
「お祖母ちゃーん。私だよー。お見舞いに来たー」
赤ずきんがそう呼び掛けると中から返事がきました。
「―――ぉお。赤ずきんや。来てくれたのかい」
その声を聞いて赤ずきんは首を傾げます。
「まあ、お祖母ちゃん。声が変。そんなにひどい風邪なの?」
いつものお祖母ちゃんの声とはまるで違う低い声。男が無理矢理に老婆の声を出しているかのように濁った声でした。
「ああ、そうさい赤ずきん。ひどい風邪で喉がやられちまったのさ。でもこれは人にうつるような風邪じゃないから安心して入っておいで」
「……そっかー! わかったー!」
今の説明で納得した赤ずきんは「おじゃましまーす!」と元気良く良いながら家の中に入ります。そしてベッドの上で頭まで布団を被って寝ているお祖母ちゃんへ駆け寄ります。その際に閉じられていたカーテンを開けてやります。その方がお日様が入って暖かくなるだろうという赤ずきんの思い遣りでした。
「どうお祖母ちゃん。体は平気?」
「ううーん。かなり悪いね。お前の声がよく聞こえないよ。もっと近くまでおいで」
「わかったー」
赤ずきんはベッドの傍、手を伸ばさなくてもお祖母ちゃんに触れる位置まで近寄ります。
「あれ? お祖母ちゃんってこんなに体が大きかった?」
「これはね、病気に負けないようご飯をたらふく食べたからさ」
布団の上からでもわかる。以前より一回りは大きい。まるで老婆から大人の男に変わったぐらいの違いです。それでも赤ずきんは疑いません。
お祖母ちゃんと少し話せた赤ずきんはお見舞いの品のことを思い出します。
「ねえお祖母ちゃん、私ね」
「そうだ赤ずきん」
「え? ……う、うん……なあに?」
しかし赤ずきんが言い切る前にお祖母ちゃんが遮ります。いつもは穏やかに赤ずきんの言葉に耳を傾けてくれるお祖母ちゃんとは様子が違います。それに赤ずきんはほんのちょっぴり不安な気持ちになります。
そんなこととはつゆ知らず。お祖母ちゃんは言葉を続けます。
「あー寒い。赤ずきんや。どうか一緒に寝て暖めておくれ」
「んー? わかったー」
お祖母ちゃんと一緒にお昼寝をしたことがこれまで何回もあった赤ずきんは素直に頷きます。……ですが次のお祖母ちゃんの言葉には流石に戸惑うことになります。
「そうだ赤ずきん。服は全部脱いじまっておくれ」
「……え。……なんで?」
「その方が暖かいからさ」
「で、でも……恥ずかしいよぉ」
「さあ、早く」
「……ぅ……うぅ……」
もじもじした赤ずきんはお祖母ちゃんに急かされるまま、服を一枚一枚脱いでいきます。
「……脱いだお洋服はクローゼットでいいの?」
先ずはシャツとスカートだけを脱いで手にした赤ずきんはクローゼットに近寄りながらそう尋ねます。すると―――
「こら赤ずきん!」
「ッ!?」
突然恐ろしい声で叱られた赤ずきんは身を竦ませます。今まで一度としてお祖母ちゃんから怒鳴られたことなど無かった赤ずきんは膝を震わせ、そんな風に怯えている少女にお祖母ちゃんはあの濁った声で言います。
「クローゼットは今ちょうど物がいっぱいなのさ。人一人分のスペースしかなかったからね。それが埋まっちまったのさ」
「……そ、そう……。じゃあこの服はどうしましょう」
お祖母ちゃんは布団の下から突っ張るように暖炉を指差します。
「服はもう要らないから火に焼べておし」
「……え……でも……」
「早くおし」
「ご、ごめんなさい」
また怒鳴られるのが心底怖かった赤ずきんはお祖母ちゃんの言う通りに服を暖炉の火に焼べていきます。
「……下着と靴下も?」
「全部は全部さ」
下着と靴下も暖炉に入れてしまった赤ずきん。だけど最後に残った頭巾にしていた赤いスカーフだけは胸に抱いています。暖炉とお祖母ちゃんへ視線を行ったり来たりさせながら、赤ずきんは恐る恐る口を開きます。
「……これも?」
「聞き分けのない子だねっ。そんな布きれなんて早く燃べちまいな!」
「っ!?」
また怒鳴られた赤ずきん。彼女はスカーフを抱いたまま俯いて震え―――
「……ぅ……ぅう。……うぇええん……」
悲しそうに泣き出してしまいました。そして泣きながら言うのです。
「どうしてぇっ? どうしてそんなこと言うのぉ……これはお祖母ちゃんが私にくれた大切な物なのにぃー……っ……ふぅう……ぇええええん!」
赤いスカーフ。皆が赤ずきんちゃんと呼んでくれる、お祖母ちゃんが可愛い孫の為に作ってくれた、大切な宝物。
それを布きれだと。燃やしてしまえと言われ。赤ずきんはとうとう悲痛で耐えきれなくなりました。
「……ちっ……」
お祖母ちゃんは面倒臭そうに舌打ちすると……バッと布団から手を伸ばし、赤ずきんの腕を掴みます。
「―――っ! きゃ!?」
そして赤ずきんはベッドへと引っ張り込まれます。その際に見た自分を掴む腕が明らかにお祖母ちゃんの物ではないことに気が付きます。
ベッドに押し倒された赤ずきんは自分を見下ろしてくる者に悲鳴を上げます。
「……ひ……ッ!? だ、誰!? あなたは誰なの!?」
窓から差す日がその者を照らします。
「お、お兄さん?」
「ヒヒヒ。また会ったねぇ、赤ずきん。れろぉ」
「……ぃッ……やぁっ!?」
森で会った青年。その青年は醜い人喰い鬼の正体を晒すと長い舌で赤ずきんの白い頬を舐めます。あまりの怖気に顔を青くした赤ずきんはベッドから逃げだそうとしますが……人喰い鬼にのし掛かられ腕を押さえ付けられているので無理でした。
「……お、お祖母ちゃんは……」
人喰い鬼の恐怖に震えながら赤ずきんは姿の見えないお祖母ちゃんの所在を尋ねます。
「お前のババアはクローゼットでお寝んねしてるぜ。お前のフリして家に入って驚かしたら気絶しちまいやがったのさ。そんであそこに叩き込んでやったのよ」
「……ひどい……」
あのクローゼットにお祖母ちゃんが居ると知って赤ずきんは辛そうな顔になります。ですがお祖母ちゃんはまだ生きていると知ってホッとしました。……しかしお祖母ちゃんがまだ無事に生かされている理由を人喰い鬼の口から聞いてそんな安堵も消え失せることになります。
「最初はババアを食って次にお前を食おうと思ってたが……ヒヒヒ。もっと良いことを思い付いたのさ。わかるかい? 赤ずきん」
「……っ……」
「必死に首を振っちゃって可愛いねー。ヒヒ。俺は優しいから教えてやるよ」
人喰い鬼はその手で無遠慮に赤ずきんの体を撫でると言います。
「―――お前を体の隅から隅まで散々イジメぬいて。そうして汚れて傷付いちまったお前をババアに見せて絶望させてから一辺に食っちまおうって決めたのさ。どうだぁー? 良い考えだろー? ヒヒヒヒヒヒ!」
「――――――」
人喰い鬼の悍ましさ。それに赤ずきんは何も言えなくなります。
これまで他人から愛されることしか知らなかった赤ずきんは、この誰もが吐き捨てたくなるような悪意に抗う術など持ち合わせていませんでした。
「泣き叫ぶ人の血肉を頂く。最高だぁー」
人喰い鬼の手がまた赤ずきんの体を這い回ります。
「い、イヤァアアアアアアアアッ!!? 離して離して離して離してぇええええええええッ!!?」
「どんだけ嫌がってももう遅いんだよ!」
「助けてママ! お祖母ちゃん! 誰かぁ!?」
「さあ、良い声で鳴いて愉しませろよぉー。まあ、命乞いなんて訊いてやらないけどな! ヒヒヒヒヒ!」
赤ずきんが泣き叫び、人喰い鬼が舌舐めずりする。。
……かくして、少女と老婆が人喰い鬼の餌食になった―――そうなろうとした時でした。
「―――くさい―――」
―――ガシャンッ、と。灰色で太い何かが窓を突き破ってきました。
「なっ!? なんだ―――ゥゲエッ!?」
鋭く大きな爪が生えた灰色の毛深い腕。それが人喰い鬼の首根っこを掴み上げます。そのおそろしい力に人喰い鬼は抵抗できません。そのまま勢いよく外へと引っ張り出されます。
「――――――」
自由になった赤ずきん。しかしその目の前で起きた一連の出来事に身動きが取れませんでした。―――そうした時、外から2つの声が届いてきました。
「な、なんだお前っ……狼!? どうして狼がこんなところに!?」
「……人喰いの不快なにおいが鼻についた」
「ま、待て!? 食うのか! オレを食う気か!? 気に障ったのなら謝る!」
「…………」
今の会話で外に居るのが何者なのか。人喰い鬼を外へ掴んで連れて行ったのが何者なのか。赤ずきんはわかりました。
「……狼さん?」
家の外から聞こえる人喰い鬼の声は悲痛な物に変わっていきます。
「そ、そうだ狼! この家に可愛い女の子が居るぞ! きっと俺なんかよりもやわらかくて美味い! そっちをお前にやる!」
「人など食わん」
「じゃ、じゃあこの家にある食い物は全部譲る! それでどうだァ!? 人の一人や二人ッ、俺に食われた所でお前には関係無いだろぉうッ!? 狼だって散々人に悪いことをしてきたケダモノだろうがぁあッ!!」
「……うるさい」
「グギッ!?」
狼は人喰い鬼を締め上げて黙らせると……最後に言い放ちます。
「―――悪い狼は命乞いなんて訊かない。……お前もそうだろう?」
「―――ッ!?」
狼は『悪い』人喰い鬼に対してそう言うなり―――頭からバクンと丸呑みしてしまいました。
「……ごくん。……げふ……」
そうして人喰い鬼をペロリと平らげた狼は「うげえ」と長い舌を出します。
「カアッ、最低な味だ。これなら胃袋に石でも詰め込んだ方がマシだ」
狼は今さっき食べた物の味の悪さにひとしきり文句を垂れると、自分が割り破った家の窓から顔を差し入れます。
「また会ったなフレーゲル」
「…………」
赤ずきんはスカーフを掻き抱き、ベッドのシーツを裸の上に巻いた状態で狼を見る。そんな彼女の顔を見て狼は鼻で笑います。
「ひどい顔だ。あの時の笑顔は道端にでも落としたか」
赤ずきんは未だに怯えたままで、あの朗らかさがすっかりなりを潜めていました。
「しようのない子だ。本当に。……ほら。拾ってきてやったぞ」
「……あ……これ……」
狼が赤ずきんの居るベッドの上に置いたのはお祖母ちゃんへのお見舞いを入れた籠でした。
「持ってきてくれたの?」
「……また来てやかましくされるのは敵わないからな。しようがないから持ってきただけだ」
「…………」
赤ずきんはその籠を受け取ると狼に頭を下げる。
「……ありがとう。助けてくれて」
そうして礼を言った赤ずきんに狼は目を細めます。
「今日のようなことに懲りたら今度は親の言い付けはしっかり守るといい。……ではな」
狼は窓から頭を引っ込めていきます。それを見て赤ずきんは「……あ……」と声をもらしますが、どうしてそんな声が出てしまったのか赤ずきん自身にもわかりませんでした。しかしそれを耳にした狼は足を止めます。
「ん、何か言ったか?」
「え。……ええと……その……」
「……? ……ああ。そうかそうか。思い出した」
狼は口角を上げて笑みを作ります。牙が露わになる狼の笑顔はとても恐い物でしたが、赤ずきんは不思議と恐いとは思いませんでした。
狼は笑みを作ったまま赤ずきんの耳元に顔を寄せると優しく言います。
「お前からは綺麗で甘い花の香りがする。“可憐な花”」
「ッ!?」
顔を真っ赤にした赤ずきんは狼から飛び退くように身を仰け反らせます。
「ハハッ。いい顔になったな人の子。泣き顔よりよっぽど良い」
狼は意地悪そうに笑うと今度こそ家の中から身を出してしまいます。
「さよならだ人の子。次にその顔を見せたら悪い狼が食ってしまうぞ」
そして狼は去り際に「ォオオーン!」と遠吠えをすると森の奥へと駆け抜けていきました。
「…………」
赤ずきんは割れた窓を顔を赤くしたまま見詰めます。その小さな胸の奥にある心臓は張り裂けそうなほどドキドキしていました。
――――――
―――その後。狼の遠吠えを聞き付けてやって来た猟師の手によって赤ずきんとお祖母ちゃんは無事に保護されました。
この日から赤ずきんは親の言い付けをきちんと守るようになり、危ない目に遭うことはとんと無くなったようです。
……ただ。黒い森へ以前に増して遊びに行くようになったことが赤ずきんの大きな変化でした。
――――――
赤ずきんは三日も経たぬ間に狼の前に姿を現わした。
「えへへ。来ちゃった」
「バカかこいつ」
「え!? ひどっ!?」
狼が呆れた様子で言った辛辣な言葉に赤ずきんはショックを受けます。
あの日の花畑でふたりは顔を突き合わせます。
「……もうこっちには来るなと言った筈だが?」
「そんなこと言われてないもん!」
「……次に顔を見せたら食うぞと言ったが……」
「だって狼さん、人は食べないって言ってたし……」
「…………」
説得が面倒になった狼は首を横に振ると花畑の上に寝そべります。
「もういい。明るい内には帰れよ」
「うん、わかったー!」
赤ずきんはニコニコ笑顔で返事をしました。あの時とは違いすっかり元気を取り戻していた赤ずきんは花畑でまた冠を作ったり花束を作ったりして遊んでいました。そして寝ている狼の背に乗ったり尻尾に抱き付いたりもしました。
ちょろちょろうるさく駆け回る赤ずきん。それを見て狼は迷惑そうな顔をしましたが、内心では朗らかに笑っている赤ずきんを見て安らかな気持ちになっていました。
―――その日から赤ずきんは何度も狼の元に来ては遊ぶようになりました。
花畑以外にも……妖精が時折立ち寄る綺麗な湖。小鳥たちが演奏会を開く大樹。森の先にある人の身では嶮しい精霊が棲む山……などと多くの場所へふたりで遊びに出掛けました。
◆◆◆
赤ずきんと狼がふたりで遊ぶようになって何年か経ち、赤ずきんもすっかり少女から乙女と呼んでもいいぐらいに成長しました。
ふたりは馴染みの花畑に着くと早速思い思いの行動に移ります。
赤ずきんは咲き誇る花々から手芸に使えそうな物を朗らかな笑顔で見繕う。狼はその様子を寝そべりながら穏やかに見守る。
「ねえ聞いてよ狼さん。この前、黒のサンタから貰った石炭で火を熾したら煤がブーって出たのよ。それでパパったら顔を真っ黒にしちゃって」
「それは大変だったな」
「あ、でも別に貰った林檎で作ったパイは美味しかったわ。今日はそれを持ってきてるの。食べるでしょ?」
「どうりで良い匂いがしてると思った。食べる」
こんな風にふたりは良き友人として親しくしていました。―――だけど赤ずきんは、ほんの少しだけ今の関係に不満が有りました。
「……ねえ、狼さん」
「何だ?」
大きな狼からすれば小っちゃな林檎のパイ。それをちまちま味わって食べている狼へ赤ずきんは声を掛けます。さっきまでしていたお花集めは止めて狼の傍に腰を下ろします。
「えっとね」
赤ずきんは言葉に悩むように視線を彷徨わせます。狼は急かすことなくゆっくり待ちます。
「……私ね、大人になったよ。ママやパパにお前はもう一人前だって言われたの。……まあ、パパはちょっと複雑そうな顔してたけど」
「大人か。動物なら巣立つ頃合いだな。お前の父はそれが寂しいと見える」
「そう。そうなの」
赤ずきんは狼の首元へ肩をもたれさせます。
「私もね、いつかママやパパみたいに……誰かと家庭を持つの」
「……そうか。それは素晴らしいことだ」
赤ずきんが言う、いずれ誰かと結婚するという話し。それを聞いて狼はめでたいと思うと同時に少し寂しさも感じます。もし赤ずきんが家庭を持てばこれまでのようにふたりの時間を過ごすことは出来なくなるからです。
―――元々、狼と人の子。すむ世界が違う。ならいつかくる別れも必然―――
そんな風に狼が考えていた時でした。
赤ずきんが狼にぎゅっと抱き付いてきたのです。
「……どうした? 人の子」
「……ねえ、狼さん。……私ね―――」
そして赤ずきんは狼の耳元で囁きます。
「……“Ich habe dich lieb”……」
赤ずきんはそう言うと真っ赤になった顔を狼の毛の中に埋めます。
「……お前……」
「ッ!!」
狼は驚きを持って自分の毛の中でぶるぶる震えている赤ずきんを見ます。そして「……そうか。そうだったのか」と独りごちると―――
「―――ハッハハハハハハハ!!」
花畑に狼の大笑いが響き渡る。それに赤ずきんはびっくりして顔を上げる。
「えっ? ……え? 何? もしかして私が笑われてる?」
「ハーッハハハハハ!! ……はー……フッ、フハハ……。……あー……すまんな。お前を笑ったわけでは……クッ、ハハハ」
ゲラゲラと笑う狼に赤ずきんは顔を上げて唖然とする。顔の赤みもすっかり引いてしまった赤ずきんに狼は笑いながら謝ると……赤ずきんに顔を擦り寄せる。
「……狼さん?」
「自分の気持ちというのも、存外自分ではわからない物だな」
「それはどういう意味?」
首を傾げる赤ずきんに狼は目を閉じて慈しみに満ちた声で応える。
「先の告白も良かったが……どうせならもう一歩踏み込んだ言葉が欲しいのだが?」
「ッ!? ……あっ、あれでも恥ずかしいの我慢して頑張ったのよ!? 私っ!」
さっきの勇気を出して行った告白をからかわれたと思った赤ずきんは腹を立てる。だが狼はそんなことに意を介さず行動に出る。
「なら俺が言ってやろう」
「え」
狼はいつかのように……赤ずきんがもっと幼かった時にしたように、耳元で優しく囁く。
「“Ich liebe dich.―――Blumchen”」
……そう耳元で囁かれた赤ずきんは頭が真っ白になる。
「――――――っ!」
そして狼を強く抱き締める。とても嬉しそうに。
「わ、私達! これからずっとずぅーっと一緒!?」
「ああ。俺が育てたこの花畑のように、お前のこともこれからずっと愛でてやろう」
「やったー!!」
「……まったく。幾つになっても子供のようにはしゃいで……しようのない子だ」
「あ。狼さんはまたそうやって私を子供扱いする」
赤ずきんは幸せに頬を赤く染め、見惚れるような微笑みを浮かべ、狼に伝える。
「もう私、子供じゃなくて―――狼さんの番いなのよ」
「…………」
その言葉に狼も微笑む。
「……近いうち、お前の家族へ挨拶しに行かねばな」
「きっとびっくりするわ。パパなんか鉄砲を出してくるかも」
「鉛玉のデザートは遠慮したいな」
「大丈夫よ。弾丸じゃなくてこの森で採れた桜桃を使ったトルテを振る舞ってあげるから」
「それは楽しみだ」
―――そうしてふたりはいつまでも笑い合う。
青空の下、陽の光が照らし、花々に彩られて。
――――――
赤ずきんと呼ばれる黒い森の乙女はこうして優しい狼と結ばれ、末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。
Ich habe dich lieb. 「あなたが大好き」:友達以上恋人未満。
Ich liebe dich. 「愛してる」:単純だけど最も大事な言葉。
おまけ。
「黒い森の乙女」 Schwarzwalder Maiden.(シュヴァルツヴェルダー・メイデン)