05 尽きる命運
寒い……凍えそうだ。
体を動かそうとすると全身に痛みが走る、動けない、ボクの体はどうなってしまったのか。
また近くで水の音がする。どうやら昨日川辺に倒れ込んで、体の半分が水に浸かったまま一晩中気を失っていたみたいだ。
「うぅ……」
目一杯の気合を入れて、まだ寝ているんじゃないかと思うほど言うことを聞かない体を、ゆっくりと立ち上がらせる。
今日で異世界に来て五日目だ。
疲労と痛みで、冷たく固まった体をほぐす気にもならない。そのままズルズルとゾンビのように歩き出す。
殺した赤眼オオカミが目端に映り、昨日の恐怖がフラッシュバックする。極力それを意識しないように、進行方向へ体を向けた。
しかし、昨日の戦闘では様々な出来事があり、目を背けるだけとはいかない、思い出せる所はしっかり検証しなくては。
まずあの獣は何だったのか、すぐに思いつくのはモンスターだということ。
あの赤い目、オオカミの変種とかじゃない、尋常ではない殺意のカタマリだった、動物が殺意というのもへんだけど、弱肉強食を超えた意思を感じた。
やっぱりここは異世界で、だからあんなモンスターも居るのだろう。
指先を動かすのも辛い今、またモンスターが現れてもボクは抵抗しないと思う、そのまま食べられると思う。それだけは今から諦めておこう。
そして自分の体のこと、はっきり言って超人的な肉体だと思った。
ネット小説などで見るチート能力と比べれば、残念極まりないほど弱いけど、普通の十歳児とは明らかにかけ離れた力を持っている。
こんな小さな体で、どう考えても赤眼オオカミの攻撃は凌ぎきれない。
最後に掴みとった石だって、あんなに大きな石を片手で持ち上げることは、元の大人だった時でも出来やしない。
この十歳程度の子どもの体には、屈強な成人男性ほどの力がある。
体そのものも丈夫だ。雨に打たれて食べるものもなく、それなのに次の日にせっせと移動するなんて、普通なら無理だと思う。
極めつけは今日だ、夜の寒空の下、疲労困憊の状態で、一晩中川水に浸かったまま寝ていたなんてありえない、確実に低体温症で死ぬ。
足の裏の土を払って触ってみる、すべすべしている、このやわらかな素足で外を歩き回れば、すぐボロボロになってしまうはずだ。
……だけど。上着をめくってお腹を出して見ると、この五日間でかなり体がやせ細っていた、肋骨が浮き出てお腹もぺったんこだ。
このやつれようを見るに、栄養は体の耐久力とは無関係みたいだ。つまり、このまま食べ物がないと死ぬことになる、それは超人的な体でも同じ。
怪我こそしてないけど満身創痍の状態だ。ずりずりと少しずつ歩けてはいるが、いつ倒れてそのままになってもおかしくない。
食べ物、とにかく栄養を取らないともう終わる。でも、キモ杉の森に近いこの場所には何も食料の期待が持てない。
歩くしかない、なるべく森から離れるように、人に出会える場所まで。
しかし、見える先は、ずっと変わり映えのない風景が続いていた。
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もう草でもいいから食べよう、時々思考が止まる時間帯がある、正直もう死にそうだ。どうせ死ぬなら試しに食べてみるのも悪くない。
手には“のびる”が数本握られている、ここへ来るまでに、土手に生えているものを抜いて持ってきたのだ。
瓜の前例があるため、食べる勇気がなくて持ったままになっていたけど。
「これ食べれるやつだよね、瓜はダメだったけど、これは汁を肌に付けていても大丈夫だし、よし食べる、もう食べる」
自分を納得させるように言葉にしながら、そのスッと細長く伸びた野草を一つ口元に近づけた。川の水で洗った白くぷくっとした根本をかじる。
……からい、でも、野菜のような気がする。
一つ食べてしまったら、もう覚悟を決めたように、一つ、また一つと口に含んでゆく。いくら何でも大量に食べるわけにはいかず、五本ほどでやめておいた。
これがどれほどのエネルギーになるのか、たいして期待もできない。
またズリズリと歩き出す。途中、杖に良さそうな流木を見つけたので、二代目として持っていくことにした。
初代の杖は、赤眼オオカミからボクの身を守ってくれるほどの活躍をして、かなり愛着もあったため、折れてしまったことに随分落胆した。
新しい杖に身をあずけながら進み、一時間ほど経った頃だろうか。何か体の様子が変だ、徐々に悪寒が走り、そのうちブルブルと震え出した。
今朝から目眩や手足の痺れはあったけど、こんな酷くはなかった。さらに強い吐き気と目眩に襲われ立っていられない、ドサッとその場に倒れこむ。
横倒しにビクビク痙攣していると、突然胃の収縮が始まり、そのまま胃の内容物を吐き戻した。
「ぅ……ゥ……オ゛、お゛え゛え゛ぇぇ」
ひとしきり嘔吐しても胃の収縮は収まらない。
「ォェ……ォェ……」
まだ弱々しく胃が痙攣している。ボクは白目をむいていたろう、とっくに意識など無かった。
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気が付いた時はまだ陽があった、そんなに長いこと気絶していたわけではないみたいだ。
口の中に残る吐瀉物を地面に垂れ流す、無色透明の胃液に白いネギ状のものが混ざって出てきた、さっき食べたノビルだ。
安全なはずのノビルを食べて、ボクは倒れたらしい。
「…………」
もう言葉も出ない。普通なら食べられる物もこの世界じゃ毒なのか。
這うようにして川岸まで行き、胃液がこびりついた頬と口腔を洗う。
手足の痺れが収まらない、視界はなおもあやふやだ。ボクは致命的に体力を消耗したと確信した。
やがて日が沈み、この世界で初めて見る星々が夜空を覆う。
寝る準備をしようなどとは思えなかったけど、満月が近いのか、煌々とする丸い月が周囲を照らしている。
孤独なこの異世界で、唯一ボクの味方のように感じた。
月の光に背中を押されるように、河原へとせり出す雑木林から枯れ枝や葉っぱを引っ張り出し、地面に仰向けに寝転び自分の上に積み重ねる。
目の前に広がる星々は知っている星なのかも分からない、プラネタリウムもマジメに聞いておけばよかった。
でも多分、この星座達は、地球で見るものとは違うのだろう。
ボクは、あまりにも見事な満天の星空と、眩しいほどに輝く満月をじっと眺めていた。
自然とこぼれ落ちる涙も拭わず、意識の続くかぎり、その美しい夜空に包まれていたかった。
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もう目覚めないと思った、だけど、何とか今日が訪れたようだ。
自分の上に積み重なった葉っぱや小枝を払いのけ、ぞぞっと起き上がる。
まだ立ち上がれる自分が不思議だった。でも、今日で六日目だ、この過酷な環境下で、さすがにもう生きるのは無理だと思う。
また下流に向かい歩き始める。そう言えば、ボクは何のために歩いているんだっけ? ……そうだ、人を見つけるために。
もう考える力も弱くなって、はっきりしない。
前に進むというより、杖に寄りかかりながら、足元を確認しながら、転ばないように気をつけるのが主な仕事となっていた。
そんな時、ふと顔を上げると、目の前に橋があった。
「……」
えっ!? と声を上げたと自分では思った、だけど声は出なかった、ただ息が漏れただけな気がする。
まったく気が付かなかった、ずっと足元を確かめながら歩いて来たから。無心で歩いてきたからこそ、突然現れた建造物に面食らってしまった。
橋は目の前を横切る形で架けられている、太い蔓と木板からなる吊橋だ。しかし、乗れるかどうかも不安なほどボロボロで、使われている様子もない。
でも、この異世界に人が居るのは確かだ、それが確認できただけでも、諦めずに歩いて来て良かったと思った。
力を振り絞って土手の上まで到達すると、何年も使っていないような荒れたあぜ道が現れた。そのあぜ道を橋を背にして下って行く。
あとどの位このあぜ道は続くのか、そう思っていたが、意外とすぐに別の道に出た。舗装はされていないが、車が通れる程の道幅がある。
その道を、更にふらふらと進んでいると。
ついに、人が居た。
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やっと人を発見した。
その人は道から十メートルほど外れた草むらの中に居て、下手をすれば見逃してしまう所だった。
そこはちょっとした高台になっている。その人は向こうを眺めながら、時折手で庇を作り、周囲を見回して何かを探している様子だ。
ボクは杖も放り出し、その人を目指した。目の前を遮る草にダイブするように、草むらに分け入って近づく。
強い風が吹いているため、草音ではボクに気づいてくれないようだ、小さな声も届かない。
未だに丘向こうを見回しているその人の、すぐ後ろまで近づき、しっかり声が出るように気をつけて呼びかけた。
「あ、あの」
瞬間、バッとその人は勢い良く振り向き、鋭い眼光をボクに向けた。
その過剰とも思える反応と、現実では見たことのない姿に、ボクは驚いて固まってしまった。
三十歳半ばほどの壮年の男性だ、鳶色の瞳にブラウンのクセのある短髪で、欧州人を思わせるような面持ちだった。
驚いたその装いは、草が深く上半身しか確認できないが、所々金属が貼り付いた皮の鎧を着込んでいる。
そして、右手は左腰へと伸びていて、そこにはシャムシールのような曲剣が、草の間からチラチラと見えていた。
鬼気迫る眼光と初めて見る腰にある凶器に、ボクは竦み上がって動けない。
「あ……あぅ……」
固まって反応できないでいると、その人は急に優しい表情になった。
「どうしたんだボク、こんな所で、迷ったのかい?」
ボクが迷子だと解ったのか、警戒を解いてくれた。
さっきは背後から急に呼びかけたから、ちょっと驚かせちゃったのかもしれない。でも、良い人そうで安心した。
「はい、あの、迷っちゃって」
「そうか、ここらは危ないぞ? 他のみんなは居るのかな?」
こんな山奥で、子共のボクが一人で彷徨っていることが不自然に見えたのだろう、当然、引率者が居るものとしての質問だ。
「いえ、ボク一人です」
そう答えると、その人は草をひとかきして退け、目の前に座り込んで目線を合わせてきた。
「よしよし、怖かったな? もう大丈夫だ」
そう言い、ボクの頭に優しく手を乗せた。
この世界に来てからの辛い場面を思い出し、優しくされたことで涙が溢れてきた。ボクは、うん、うんと、小さく頷くことしか出来なかった。
その人は腰に括りつけられていた袋を手に取り、中からピンポン球ほどの緑の球体を取り出す。
「ほら、これあげるよ」
べそをかいているボクの目の前に、その球体を差し出してきた。
なんだろう? 緑の球体の上にはちょこんとオレンジ色の花弁が見えている、何かの植物の蕾のようだ。
何かは分からないけど、ボクは両手で受け取ろうと手を伸ばす。
すると、その人が緑の球体を指でつまんで潰した。ポフッと、中から煙のようなものが舞い上がり……。
その煙に包まれたボクは、目の前の花に意識が吸い込まれるように、気を失っていった。