04 未知なるもの
ポツポツと、顔の近くで水滴の音がする。その音のせいで目が覚めてしまった。
いま何時だろう、まだ深夜なのは確かだ、真っ暗で何も見えない。
外に耳を澄ますと、サラサラと、森全体が優しくなめらかなノイズに包まれていた。この異世界に来て初めての雨だ。
むくりと体を起こして、シェルターの中で膝を抱える。
キモ杉の枝で組まれた天井からの雨漏れと、下に敷いた葉っぱから雨水がにじみ込んできて、とても寝てなんていられない。
雨音は大きくなったり小さくなったりを繰り返しながら、徐々に勢いは増している。
やがて優しく降り注いでいた雨は、地面やシェルターに当たる粒の音がハッキリと捉えられるほどに激しくなり、この闇と合わせて不安を煽るまでになった。
昨日の夜の闇も怖かった、でもそれは、森の上で月が出ていた分、ぜんぜんマシな方だったと思い知らされる。
本当に何も見えない、平衡感覚すら狂いそうな完全なる闇の中、下手に動いてシェルターが壊れては取り返しがつかない。
ボクは膝を抱えながらじっとしていた、体はすでにびしょびしょだ、このままでは体温と同時に体力も奪われてしまう。でも打つ手は無い。
寒さで震える肩を両手で寄せながら、不安を煽る雨音と、まとわり付くような黒い空間に怯えている。
とにかく、この暗闇が尋常じゃなく怖かった。
大変なことの連続で心が不安定になっているんだと思う、だけど、それを差し引いても、ただの闇にここまで恐怖を覚えるなんて普段では考えられない。
この森には一切の動物が居ない、自分を害する猛獣や毒虫などの心配もないんだ。そんな危険もなく、じっと耐えていればそのうち朝は来る。
そう頭では分かっているのに、恐怖が心を握りつぶす。
正直言うと泣きたい、泣き叫びたい。実は森を歩いている時にも何度か泣いてしまった、体の疲労や痛み、絶望感、それらに耐えることができなかった。
こんな状況だから泣いても仕方ないと、心に言い訳をしてあやふやにしていたけど、でも本当は違う。子供の体になってから、やたらと情緒不安定だ。
それだけじゃない、ボクってこんなに愚かだっただろうか、転移に喜んだと思えば勝手に絶望して、もっと冷静に立ち回れないものか。
これだけは認めたくなかった、しかし認めざるをえない。この子供の姿同様、感情制御や状況判断能力も退化している。
ボクは二十歳なんだ、見た目が子どもになっても中身は大人の神代優乃なんだ、もっとしっかりしろ、どうしちゃったんだ。
自分が自分でないみたいで怖い、森での生存率にも関わってくるかもしれない。
もう今すぐにでもしゃくり上げそうになる。だけど、大人のボクなら泣かないはず。ボクは、喉の奥にこみ上げる嗚咽の塊をぐっとのみこんで耐えていた。
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雨に濡れて寝ることもできず、闇に怯える心を抑えながら、おそらく外がある方向へ視線を向けて何時間こうしていたのか、やっと朝が近づいてきた。
雨は上がり、木々の姿がゆっくりと浮かび上がる。森の中も白んできたのでシェルターから這い出る。
霧なのか霧雨なのか、微細な水のつぶが僅かな風に泳いでいた。水粒がまとわりつきひんやりとした空気の中、木々の天井から漏れてくる朝日が暖かい。
土と樹木の匂いと合わせて、昨夜と比べれば生まれ変わったような清々しい朝だ。イヤな夜を吹き飛ばすように、朝の空気を胸いっぱいに深呼吸する。
地面は水はけが良く、あれだけ雨が降っても歩くのに支障はないみたいだ、少しホッとした。
キモ杉の森を彷徨い今日で四日目となる。食べ物が無い状況では足止めされただけで命の終わりは近づく、どうしてもボクは歩かなくてはならない。
泉は相変わらず清涼な水をたたえていた。今は雨で体も冷えて喉も乾いてないけど、空腹が耐えられ難く、それを紛らわすように大量の水を胃に詰め込む。
そして、今日こそは森を脱出してやると、あらためて決意する。
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命の泉とも言える源泉を後にして、さらに数時間が経過した。
徐々に森の姿が変わってきた、刻々と植生も変化している。
無限とも感じたこの気味の悪い森を抜け出せるかもしれない、にわかに現実味を帯びた希望が湧いてくる。
何か食べ物がないかと注意深く歩いていると、遠くで実が生っているのを発見した。近づいてみると、薄緑色をした円筒形のつる植物の実だ。
「瓜だ」
……瓜か。キュウリならまだしも瓜なんて馴染みがない、大抵が漬物などで食べるものだから、生でかじっても大丈夫だとは思うけど。
これが本当に食用なのか確信が持てない、そもそも自生している野菜なんて始めて見た。
本当は、そこいらにある葉っぱでさえ食べてしまいたい危機的な状況だけど、この衰弱した体で間違って毒を食べたら大変なことになる。
そうだ、以前テレビで見たパッチテストを試してみよう。半分に折った瓜(仮)の断面を、二の腕の柔らかい所に当ててみる。
数分経つと、瓜を当てていた皮膚がほんのりピンク色になって、毒性反応を示した。
「…………」
ボクはすぐさま瓜を投げ捨て、傍らを流れる小川の水をすくい、瓜を当てた場所を良く洗い流した。
瓜に酷似しているのに毒だなんて。でも危なかった、こんなに早く毒性反応が出るくらいだから、あの瓜もどきは猛毒だったはず。
ぬか喜びの悔しさと、危険を回避した安堵で涙目になるも、異世界なんだから地球の常識は通用しないと、気を引き締め直した。
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さらに歩く、森の景色は通常のものに変わってきている。キモ杉が数を減らし、代わりに雑多な樹木が辺りを埋め尽くす。
ここから先はちゃんとした木の実も期待できるし、動物や魚も居るかもしれない。もっとも、瓜(仮)の二の舞いには気をつけなくてはならないけど。
まだ危機的状況は続く、気は逸るが冷静にならなくちゃ。たとえキモ杉の森を抜けたとしても、人に出会えたわけではない。
すでにキモ杉の代わりに増えた植物は厄介だった、何の変哲もない日本の山の風景に似ている。それが非常に進みにくい。
背丈以上の藪が立ちはだかる、地面に散乱する枯れ枝は裸足で進むには厄介だ。杖代わりにしていたキモ杉の枝で、藪をかき分けながら進む。
そうやって小川を追って歩いていると。
コ――……。
木々に反響して水流の音が聞こえてきた。小川なんかじゃない、けっこうな水の量が流れている。その方向へ強引に突っ切る。
藪を抜けると視界が開け、大きな渓流に突き当たった。
やった、人里への道標だ、水辺には人が暮らしているはず。眼下に流れる川に沿って下流へと並走する。
やがて川に降りられるほど下ってきた。白く空気を巻き込みながら激しく流れる川の近くへと寄り、水中を注意深く眺める。
ボクの興味は、食料となる魚がいるかどうかだ。
しかし残念ながら、この渓流にも魚は確認できなかった。
さっきの瓜もそうだけど、期待を裏切られると反動が厳しい。気持ちと一緒に、体力もごっそり持っていかれる気分だ。
この場でのおあずけは死の宣告に等しい。でも仕方ない、今はひたすらに下流へと歩くしかない、一刻も早く人を発見することを期待して。
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河原には丸石が敷き詰められ、足つぼマットみたいで歩きにくい。
一度休憩することにした。ベンチのような横に長い石に腰掛け、杖を肩に抱え寄せ、体重を預けて休む。
川幅も広く、水流も穏やかに変化した川の行き先を見る。いったいどこまでこの風景は続くのか、まさか異世界には生物が居ないのか?
しばらく下流の彼方を憎々しく見つめていると、川沿いの雑木林の中から、何か動物が現れた。
瞬間、血の気が引く。
異世界へ来て初めて見る動物だけど、あれはイノシシか野犬だ。
あの手の動物は危険だ、もし襲われたら、十歳程度の子供が棒きれだけでどうにかできる相手じゃない。
でも、こんな河原で身を隠す場所もないし、登って退避できるような木もない。川の対岸へ逃げるにしても、衰弱した体で川に飛び込むのは自殺行為だ。
向こうもボクに気が付いたみたいだ、ウロウロしては首を伸ばし様子を伺っている。そして、遂にボクに向かって走り出した。
こうなっては逃げても無駄だ、フラフラなうえに子供の足ではすぐに追いつかれてしまう、栄養不足の幼い頭脳も良い案が浮かんでこない。
……もう、戦うしかない。
影がダッシュしてくる、完全に襲うつもりだ。姿が判別できるほど近づいてきた、あれはイノシシや野犬じゃない、大きすぎる、オオカミだ!
しかも、血に濡れたような真っ赤な目をしている、こんな生物地球じゃありえない、おぞましい姿をしている。
ボクは座っていた横長の石の後ろへ回りこみ、杖として持っていた棒きれを、野球のバットのように構えた。
戦うなんてボクにできるのか? だけどもう、迷っている時間はない。
さらに加速し、一直線に向かってくる。もう幾ばくもない、ひと飛びで襲いかかられる距離だ。
――ガアァ!
赤目オオカミは短く吠え、跳躍した。力強く空を裂き、寸分の狂いなくボクの喉元へ飛び掛かって来た。
予見した通り、横長の石を飛び越えてきたか。ボクは構えていた棒きれを、とにかくフルスイングした。
しかし、ボクの攻撃は当たらなかった。放物線を描きながら飛びかかってくる赤目オオカミに、棒を当てることが出来なかった。
空振りしたボクは、衰弱した体で踏ん張ることも出来ず、前方によろめく。
そのおかげで、赤目オオカミの攻撃もボクには当たらなかった。間一髪だ、でも、すくみあがっている暇はない。急いで振り向く。
赤目オオカミはすでに目の前まで迫っていた。とても棒きれを振り回せる間合いは無い。
咄嗟に棒きれを水平に突き出しガードする。メギっと牙が棒きれに食い込む。
重いっ! 正面から突進を受けたボクは、そのまま背中から河原に叩きつけられてしまった。
ボクを組み伏せる形で、赤目オオカミが上に覆いかぶさる。
棒きれに噛み付いている赤目オオカミは、そのまま激しく首を振る。持っていられないほど棒きれは暴れ、半分に折れて弾き飛ばされた。
ガードする道具は何もない、もうダメだ、殺られる!
ボクは無我夢中で、眼前に迫る赤眼オオカミの顔を、絶体絶命の気合で両側から掴んだ。
針金のように固い体毛を指に絡ませ、赤目オオカミの左右の頬肉を、小さな手で掴めるだけ掴んで抑え込む。
――グゴゥアア! グアガアァ!
赤眼オオカミは、あと十センチの所にある御馳走をめがけ、必死に顔をねじ込んでくる。
首を右に左に振りながら、ボクの命に喰らいつこうと、グイグイと少しずつ近づいてくる。
掴んだ顔の筋肉が引っ張られて、赤眼がむき出し、恐ろしい形相で激しく首を振る。
「フーッ! フーッ! フーッ!」
ボクは歯を食いしばり、口か鼻でか分わからない荒い息をするのみで、声を上げる事すら出来なかった。
こんな圧倒的な力の塊を、小さな手で押さえ込めるはずもない。
赤眼オオカミはさらに首を暴れさせ、ついに頬を掴んでいたボクの右手が外れた。残った左腕一本で支えられるはずもなく、ガクッと肘が折れる。
赤眼オオカミにとって、もう障害が無くなったも同じだった。ボクを絶命させる牙が喉笛めがけ迫る。
死にたくない一心で、迫る顎の下に潜り込んだ。すると偶然、ボクのくるくる角が赤眼オオカミの鼻先にカウンターで入った。
動物の鼻は敏感で弱点でもある、赤目オオカミは一瞬怯む。
ボクは、最期まで自分の命を諦めたくなかった。こんな異世界で、訳の分からないまま死にたくない。
赤目オオカミが怯んでいる隙に、振りほどかれた右手で辺りを手探る。
そして、河原に無数に落ちている石を拾った。
子供の片手では到底掴みきれない、椰子の実ほどもある石を拾い上げ、そのまま、赤眼オオカミの左側頭部後方に、力いっぱい打ち付けた。
一心不乱だった。
「 」「 」「 」
もう、何も耳に入ってこない。
ボクは、一生懸命、一生懸命、その石を赤眼オオカミの頭に打ち付けた。
いつのまにか赤眼オオカミは横倒しになっていたが、それでも石を叩きつけるのをやめなかった。
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目の前には、脳髄を撒き散らして絶命している、赤眼オオカミがあった。
どのくらいの時間戦っていたのだろう、すごく長かったような気もする。でも、多分そうでもない。
正気を取り戻すまで、ここでずっと立ちすくんでいたらしい。辺りには夜の帳が落ちはじめている。
自分が立っているのが不思議だった、限界の体力でフラフラだったのに、どうやって目の前の赤眼オオカミを倒したのか、うまく思い出せない。
……死ぬほど喉が渇く。川の方へフラフラと向う、今頃ガクガクと震え出す体を両手で抑えこみ、川岸に跪く。
あの湧き水とは比べ物にならないほど濁っている川に顔を近づけ、ズッ……ズッ……と、直接川水を啜った。
猛獣が居て戦闘になったんだ、早くここから離れたい。それに、夜に備えて寝床を造らなくちゃ……。
進行方向の川下へと向き直り、一歩を踏み出そうとした。だけど、ふらついて肩から崩れ落ちてしまった。
それ以上は何をすることも無理で、そこで意識は途切れた。