第卅七話 年齢
男はあまり飲まないワインをグラスに入れていた。
銘柄は、多分いいとおもわれるもの。
グラスの半分くらいまで注いだらそこでやめて、ボトルにコルクを押し込み、前で立っている部下に投げた。
部下は驚く様子もなく、ボトルをとってコルクをオープナーなしで再び空けて、断りもせずにラッパ飲みした。
「勝手に飲むとはな。」
男はわざと不機嫌な顔を見せた。
部下は、すいません、と一言詫びて、残りを飲み尽くした。
その様子を溜め息混じりに見て、多少、二酸化炭素の混じったワインを飲んだ。
ワインの味はわからないが、上品な味とやらは感じた。が、やっぱりさっぱりわからないので、一気に飲み干した。
「なぜ、今日はワインを?」
部下は男に訊く。
男は、照れた様子もなく、ただ、お前にやるためだ。とだけ答えた。そして、部下に訊き返す。
「小原のところはどうだ?」
部下は少し考え込んで、答えた。
「神前長目の様子が少し変わった様子でしたが、また戻ったらしいです。」
ほう。男は興味津々な様子で男にさらに訊く。
「少し変わった、とはどういうことだ?」
部下は、はい、と置いて続ける。
「小原が條原羅々を撃ち殺す幻覚を見せたところ、やけに静かになり、その後、小原を追い詰めたとのことです。」
「静かになり、追い詰めた?」
男は一人言のように部下の言葉を反芻する。
そして、男はいきなり話を変えた。
「菅、君に僕の過去を教えてあげよう。」
菅、と呼ばれた部下は結構です。と言った。そして、こう訊いた。
「なぜ、このタイミングで?」と。
男は答える。
「お前が知りたがっていたからな。新人であった俺が、なぜ、今では組織のトップにいるのかを。」
菅は、では、ありがたく。と言って椅子を出した。
* * *
僕は小原に向けた銃口をいつまでも離さず、迷ったが、こう訊いた。
「イポジェーオクレアートとはなんだ。」
小原は少し笑ってこう返した。
「いいの?愛しの羅々ちゃんのことは訊かなくて。」
話す気など無いくせに。
「訊けば話すのか?」とだけ僕は返した。
「ふふふふふ、いいわ、話してあげる。でも、私も組織の内情はよくわかってないの。ただ、裏社会の人間を統べればいいって言われただけでね。でも、少しくらいならわかるわ。次は四番線にいる。あなたたちが求めるものはそこにある。でも、具体的にはわからないし、どの駅かは、関係者しかわからない。駅については検討がつくかもしれないけれど、潜伏先はわからないわ。」
「そうか。」
しかし、銃声は聞こえない。なぜだろうか。
「ふふふふふ、暗殺者の方は私がまだ知っていると、思っているらしいけど、私は本当に知らないわ。」
小原はまだ死なない。
暫く沈黙が続くが、軈て僕が口を開いた。
「・・・羅々はどこにいる。」
小原は呆れた顔をした。
「まだ言うの?話すわけないじゃない。」
暗殺者が小原を殺さないということは、きっとこれが重要なのかもしれない。しかし、情報自体を罠とするならここまで勿体振るのはどういうことだ?
もしかして知らない?
あるところに縛っておいたが、その後、誰かが引き取った?
僕の仮定は当たる。
「もしかして、知らないのか?」
僕の問いに小原は一瞬横にフッ、と笑ってこっちを向いた。
「バレたのね。」
僕は次の質問に移す。
「誰が連れ去った?」
小原は少しだけ驚いたような顔をした。
「そこまでお見通しとはね。粉塵爆発を思い付くだけあるわ。」
それは、失敗に終わったが。
「多分、これを言ったら私の命は終わりね。」と、前置きして、小原は僅かに、本当に僅かに震えた声で、こう言った。
「連れ去ったのは、堀田菅崎よ。」
小原が口を閉じた瞬間、銃声は静かな廃工場内をつんざく。
小原を見ると、こめかみから血を垂らし、既に息絶えていた。その顔は苦しそうな表情ではなく、かなり安らかなものだった。しかし、見方によっては泣き出しそうな顔でもあった。
その小原の表情に、イポジェーオクレアートという組織の不条理さを感じたが、所詮は敵、一々想っていると、呑み込まれる。だから、僕は冷酷であるように努めた。
廃工場を出るまでは。