プロローグ
っしゃあああ!!明日から三連休じゃああああ!!!
心の中で雄叫びをあげるほどの喜びを胸に、僕はいつもより少しばかり軽い足取りで帰路についていた。
何を隠そう明日からは三連休だ。それも連休中に一日たりとも部活がない。まさに休みの中の休み!
僕が通う私立ベロニカ高校は定期テストまでの全日程を終え、明日から「テスト前休み」と呼ばれる三日間の連休に入る。しかもテスト休みの間、学生はテスト勉強に集中しなければならないため一切の部活動が活動停止になる。僕が所属するテニス部も例外ではない。
年に二回しかないこの完璧とまで言える三連休に僕は心を踊らせていた。
新しいゲームを買って、やりこむもよし。図書館に行って一日中好きな本を読むもよし。そんなこと一切せず、ただダラダラするもよし。…あ!三日もあるんだから全部こなすこともできる!
くうぅっ!何て素敵なんだ三連休は!うちの学校は最高だ!こんな素敵な休みを思い付くなんて。
「当たり前の話だが、テスト前休みは諸君がテスト勉強をするためにある。努々勘違いをしないように」
ふと、頭の中で担任が帰りのホームルームで言っていた言葉が思い返された。
なぁーにが「努々勘違いをしないように」だ!分かってるわそんなもんッ!!!テスト前にわざわざ休みがある理由くらい猿でも知っているわ!
うん、でもまあ、しないけどな。勉強。
高校生を甘く見るな。
やらなければならないと分かってはいるが、ギリギリまで何もしない。それが高校生だ。
そんなこんなを考えながら歩いている最中、僕は商店街の中の喫茶店の前で足を止めた。
せっかく休みだし、今日はまず「氷柱」でゆっくりしていこう。
思い立ったが吉日。早速喫茶店のドアを押した。
年期の入ったずっしりと重いドアを開くと、使い古されたドアベルが鳴る。
僕が店内に入るとカウンターにいる初老の男性と目が合った。男性は丁寧にコーヒーカップを拭いている。この店のマスターだ。
「いらっしゃい…おー純ちゃん、早いねえ今日は。学校はもう終わったのかい?」
若者に人気のチェーン店とは一線を画す、古き良き純喫茶「氷柱」。
駅前のカフェやファーストフード店が学生で賑わう中、この店は客層が高く、高校生は僕以外誰も寄り付かない。僕にとっての憩いの場だ。
「うん。今日はテスト前で部活も無しなんだ。マスター、いつもの奥の席使っていい?」
僕はいつも使っている奥の席を指さした。店内には誰もいない。
マスターはよく、「コーヒー好きの年寄りが道楽でやっている店だからねえー」とニコニコしながら話しているが、ここまで客入りが悪いと余計な心配をしてしまう。まあ、混んでいたら混んでいたで嫌ではあるんだけど。
「ああ、もちろん。注文はいつものやつでいいかい?」
「うん、ありがとう。あと、今日パソコンの電池が無いから電源借りるね」
マスターは拭き終わったコーヒーカップを置き、ニコニコしながら何も言わず、頷いた。
*
「…あ…の」
席でパソコンに向かっている最中、こちらを呼ぶ声が聞こえた。
「ごめんなさい、相席をお願いしてもいいでしょうか…?」
「へ?」
ふと見上げると、そこには一人の女性が立っていた。
顔を上げた瞬間に目に入った美しい顔立ちに思わずハッとする。
肩までの綺麗な黒髪に透き通るような白い肌。二十代前半くらいだろうか。スーツを着ているからきっとOLさんだろう。
ん?ていうか今「相席」って言った?この店のお客さんは今僕しかいないんだけど。
「相席…ですか?」
「ええ。その、ご迷惑でなければなんだけど」
冷静に考えろ。店内にお客さんは間違いなく僕一人だけだ。全く混んでいない。そこに見知らぬ美人から緊張の面持ちで「相席」という言葉が投げ掛けられている。
これは、つまり…。
何も答えられずにあたふたしていると、見かねたマスターがカウンターからやって来て、狼狽えている僕に声を掛けた。
「ごめんねえ、純ちゃん。うちの店、ここの席しか電源が使えないんだ。美生ちゃんがパソコンを使いたいらしくって」
なーるほどねっ!!そう言うことね!知ってたよ?そう言う業務的なアレってことは何となく予測はついていたよ??別にこの美人なお姉さんが僕のことを気にしているんじゃないかとか、そういう驕り高ぶった考えは一切持っていなかったよ?ハッハー。
「でしたら僕は別の席に移りますんで、遠慮なさらずに使ってください」
本当は電源が無いとパソコンが使えないから猛烈に困るんだけど、パソコン云々より見ず知らずの美人に対する第一印象の方が大切だ。
「でも、純ちゃんのパソコンも電池がもう無いって言ってなかったかい?」
「そうなの…?それでは、貴方に申し訳ないわ。貴方が迷惑でなければ、この席を一緒に使わせてもらえないかしら」
あ、これ知ってる。もしかしたら神展開ってやつじゃないかしら。
「もちろんでふっ!」
興奮しすぎて盛大に噛んだ。
ミオさんは軽い笑顔を僕に向けると、スッと僕の向かい側の席に座った。そしてパソコンのプラグを机の下のコンセントに差し込み、真剣な表情でパソコンと向き合い仕事を始めた。
パソコンに向かうその姿は如何にも仕事ができる女性という感じだ。一つ一つの所作が美しくすら感じる。
絵になるなあ。
前髪は耳にかけ、肩までの艶やかな黒髪は清潔感がある。そして大きく力強さを感じさせる瞳に、指の先まで透き通る雪のように白い肌……。
ああー。
なんていうか……。
すごい、いい。
って、いかん!完全に見蕩れてしまっていた!これじゃあ僕がこの席にいる理由が全く無くなってしまう。僕は僕のやるべきことを……。
「ごめんなさい、やっぱり向かいに人がいると気になるかしら?」
どうやら僕が凝視していることに気付いたらしい。
「ととととんでもないです!仕事の様子があまりにも様になっていたので、つい見入ってしまって」
「仕事?私が?」
「ええ、今パソコンでやっていらっしゃる」
「ああ。それなら気にしないで。別にこれは大したことをやっているわけじゃないから」
「すみません。いずれにせよ、お邪魔にならないようにしますんで」
「あなたが先に来ていたわけだから本当に気にしないでね。邪魔をしているのは私の方だから」
とは言われたものの、やはり目の前に美人OLがいればその一挙手一投足は気になるわけで。結局僕はチラチラとミオさんを盗み見し続けた。変態とかストーカーとかじゃないよ?社会勉強なんだからね!
ミオさんは鞄の中から手帳を取り出しパソコンのわきに広げた。そして何やら真剣な表情で懸命にボールペンを動かしている。
なるほどね、スケジュールの管理とかそう言うやつね。社会人になると手帳は必須とか言うもんなあ。
高校生でも女子が持ってたりするけど、男子で持ってるやつってあんまり見たことないな。
忘れ物するたびに何かに書いておけばよかったって思うから本当は高校生にも必要なものなのかもしれない。
それよりミオさん。そんなところに思いっきり広げちゃうと手帳の中身が見えちゃうんですけど。
いや、見たいわけじゃないよ?美人OLの手帳を覗き見したいとか、何を書いているか気になるとか、そういうスケベ心があるわけではないんだけど、これじゃあ偶然に見えちゃうって。
いやー、もう仕方がないなあ。見たいわけじゃないけど。チラッ☆
六月四日 十八連勝
どうやらこの人は今日十八連勝したらしい。
「調子がいい時の白鵬か!!」
「うっ!ぐっ…え?」
ミオさんは突然席から立ち上がり叫んだ僕を見て、最初は何故か少し苦しそうな表情をしたが、その後は何が起きたかわからないといった様子で狼狽した。その顔は少し紅潮している。
「あの、ごめんなさい。ちゃんと聞きとれなかったんだけど、私何かしたかしら?」
「え!?あ、いやー!違うんです。こっちの話で…」
「白鵬ってあの横綱の?」
ダメだ!大事なところが聞こえてしまっている。これは誤魔化せない。
「ふぁっ!?えーっと、その…」
「しかも調子がいい時?」
全部聞こえてんじゃねーか!!言ったことそれで全部だわ!
「あー、その…。お姉さんの肌の綺麗さが、調子がいい時の白鵬並みだと思いまして…」
なんだそりゃ。自分で言ってて恥ずかしくなるくらい無理がある。
しかしミオさんは僕のその言葉に先ほど以上に頬を赤らめ、両手を両頬に当てながら恥ずかしがった。
「え、私が…?そ、そうかしら。嬉しい」
え、嘘。いいのかそれで……。
ミオさんは再び何事も無かったかのようにパソコンに向かった。白鵬と言われたことが嬉しかったのか、先程より少し上機嫌に見える。
まさかこの世の女子で横綱にたとえられて喜ぶ人がいるとは。もしかしたらミオさんは少し変わっている人なのかもしれない。
それにしても十八連勝ってなんなんだろうか。
手帳に書き込むような大切なことで連勝か…。やはりミオさんの仕事に関わることだろうか。
でも白鵬と元楽天のピッチャー以外で十八連勝した人なんて聞いたことが無い。
うーん、気になるな。
よし。トイレにでも行くふりをして後ろからパソコンをチラ見しよう。そんで何をしているのかを確認してしまおう。
マウスを忙しなく動かしているところを見ると何もやっていないということはあり得ない。
「さてと、トイレトイレと」
僕は不自然で飲食店では最悪の独り言を呟きながら席を立ちあがり、彼女の背後に回り込んだ。
体はトイレの方向に向かいながらも首だけ振り返り、ミオさんのパソコンの画面を凝視した。
さあ、液晶に映っているモノは何だ!
…。
「はい、ソリティアアァァァ!!!わざわざ相席で喫茶店の電源まで借りてソリティアかよ!!!」
十八連勝ってソリティアの連勝かよ!システム手帳にメモるんじゃねーよそんなの!!
全力で叫んだ僕の声が、静かだった喫茶店の中に響き渡った。
ミオさんは先程と同様、驚愕の表情で…と思いきや。
「っぐっ…!!はあぁぁぁーっ!」
何故か苦しそうに吐息を漏らしながら悶えていた。
ミオさんは頬を赤く染めて眉間に皺を寄せながら、両腕で自分を抱きしめるようにしてクネクネと体を捩らせた。そして一言。
「き、気持ちいい…」
…え?気持ちいい?
「体が、体が熱い…」
スリムな印象の割に出るところは出ている発育の良い体を捩らせ、訳の分からないことを言うミオさん。
急に何が起こったのか。
先ほどのパソコンに向かう仕事の出来るOLはもうどこにもいない。
そこにいるのは何故か全身に汗をかきながらも恍惚の表情でぽーっと空中を見つめている女性。
言い方は悪くて憚られるが…。
変態だ。
美人OLが突如として変態に変わってしまった。
「ちょっと…あの」
ミオさんは僕が声を掛けても心ここにあらずと言った感じで、何かの余韻に浸っているようだった。小さい声で「もう一度、もう一度お願いします」と意味不明なことを呟いている。
仕方がないので少し強めに肩を叩く。
「ふえ…?あ、ごめんなさい私…」
「大丈夫ですか?」
「ええ。ちょっと急に全身に電流が走ったような刺激が…」
「で、電流?」
「でも、すごく良かった…」
ミオさんは我に返ったのかと思いきや再び恍惚の表情を浮かべ、少し潤んだ瞳で此方を見つめた。
「一体何が…」
「あなたのツッコミ…」
…はい?
「あなたのツッコミ、とっても痺れたわ」
その表情は色っぽく、真っ直ぐ目を見つめられた僕は思わずドキッとした。
やっぱりこの人は紛うことなき変態だ。
美人OLの皮を被った変態人間だ。
そして僕の平穏だった毎日は、この変態とその仲間たちによって弾け飛んでいくのだった。