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また、日は登る

作者: 聖華

 灯台の明かりがぐるりぐるりと回って、海面と砂浜を舐めまわして行っていた。月の見えない暗闇で、その光はあまりに眩しい。一瞬目が光に眩んで、また闇に慣れてが繰り返されて忙しかった。右手にある海に入り込まないようにだけ気を付けて進んだ。

 夜の海辺は恐ろしい程に静かだ。僕らの他に生き物の音はなく、ただただ波が打ち付ける音だけがする。


「離して……離してよぉ……」


 左後ろ、掴んだ手の先から震えた声が言う。えぐえぐと、泣き声が混じっていた。

 ところで、革靴で砂浜を走るのはやはりというかなかなか難しい作業のようである。どうにも、足元が覚束ない。柔らかな砂に、今にも足を取られそうになりながら、それでも繋いだ手を離さず走った。


「……じゃあ、離さなくていい、お願い、止まるだけでいいから……このままじゃ、死んじゃう」


 声はそう口にしながらも、僕と共に走り続けていた。理由は分かっている。自分が止まって僕の足並みを乱したら、僕がきっと転んでしまうから。自分の気持ちよりも僕の体を優先しているのだ。つくづく、彼女は優しかった。

 だから、猶更この手を離せない。ここで僕が手を離したら、彼女との繋がりも、きっと解けてしまうから。


 嗚呼、こんな真夜中だと言うのに視界が赤らみ始めて、目が痛い。先ほど殴られた時に額が切れたのだろう。そこから流れた血が、目に入ったらしかった。

 最悪だ。まただ。結局太陽は登っても落ちるだけで、再び上ることはないのだ。


 *


『また、日は登る』


 *


 彼女を見かけたのは、仕事場からの帰り路だった。ホームセンターのロゴが入ったビニール袋を引っ掻けて歩く僕の前、田んぼの横、羽虫がむらがる街頭に照らされながら倒れていたのだ。

 姿形からしてみれば、それは明らかに人の子供だった。小学生くらいのそれが、地面にうつ伏せになっているのだ。僕は、慌てて駆け寄った。こんな場所、救急車は入ってこれるのだろうかとか、もし大きな怪我をしていたらこの辺の貧相な病院で対処しきれないかもしれないだとか、とかくいろいろな思考を巡らせながら、大丈夫かと呼びかけた。


「おなか……すいた……」


 ちょうど、子どもらしきものが僕の足元に来た時、蚊の鳴くような声が聞こえた。間抜けな内容に思わず呆れてしまいそうになったが、しかし行き倒れる程の空腹となれば一大事だろうと、その小さな体を抱き起こす。体格差を考慮してもやたら軽く、熱く感じた。ぐるり、顔を上に、仰向けに、つまり僕が見える方に向けさせる。

 ――ぎょっとした。心臓が大きく鳴って、一瞬止まるような感覚が、たしかにしたのだ。


 ズボンに突っ込んでいたハンカチで、土に汚れた顔を拭いてやりながら、声をかけ続けた。目立った外傷はないようだが、しかしなかなか目を覚まさず、体感時間的に『ようやく』といったところで「んん……」と唸る声がした。

 ゆわり、長い睫があがった。薄い唇が動いた。


「……いただきます」


 耳に心地よい声。それが脳をつんざいた瞬間、僕は自分自身に困惑した。おかしい、訳が分からない。その言葉を聞いた次には、僕は腕の中にあるものに対する恩情と呼べるものを全て失っていた。心配も同情も、今までどうやって感じていたのやら。助けなければ、と思う気持ちを忘れてしまった僕は、ただただ開いた眼と視線を合わせて、固まっていた。

 先に動いたのは、向こうだった。くりりとした目を大きく見開いて、「ぁ」と小さく吐息をもらした。


「ご、ごめんなさいっ」


 細い眉毛を垂れさせて、白い肌をいよいよ蒼くさせて、怯えたように言ったのだ。とても不憫なその姿にも、僕は何一つ思うことが出来ず、でもまぁ何かされた訳でもないので、気にしないようにと答えたのだが。宥めようとする途中で、腕の中の――そう、その時になって僕の中で確定したのだ。まるで最初はそうでなかったものが、時間の経過と共にそう確定されたように――『少女』が、それを遮った。


「私は、悪魔なんです」


 *


 がらり、引き戸を開けた。家の中はしんと静まり返っている。当然だ、僕はここに一人で暮らしていて、出迎える犬猫も類も居ないのだから。手探りした先で電気のスイッチがぱちんと音を立てると、突然の光に驚いたのだろうか。少女は目をぱちくりさせて、部屋の中を見回した。

 山の麓に程近い、おんぼろ木造一軒家。とにかく静かな場所を、と選んだ物件だったが、住み初めて数年商店街や職場とも程遠い立地を後悔し始めたところだった。最も、今回に限って言えばこの立地は好都合であったかもしれない。自分の役職を差し引いても、こんな夜更けに自分のような年齢の男が少女を連れまわすなど、何かの事案としか思えない。

 僕が玄関から上がって尚、ガラスに鉄柵を嵌め殺した入り口のところで佇む少女に、中に入るように言う。どうにもうじうじしていたものだから、喉が渇いたから飲み物でも飲みながらがやるのがありがたいんだが、と提案してみると大人しく従った。


 先に居間へ案内しておいて、自分は飲み物を取りに台所に。男の一人暮らし、少女の好みそうなジュースの類がある訳がない。素直に二人分の麦茶を用意して少女の元に行くと、彼女は中央の掘り座卓に座るでなしに、居間の隣、障子で仕切られた向こうの部屋に居て、さらには箪笥の引きだしの中から写真立てを取り出していた。


「似てます、よね?」


 写真立てを顔のすぐ隣に掲げて、じっと僕を見つめていた。少女の居る部屋の明かりはついていない。障子の合間から漏れる照明が、一つ長い光線となって、彼女の顔と写真の中の顔を照らしていた。チープなスポットライトの中の写真には、僕と女性と少女が居る。

 僕が黙って机に麦茶を置くと、彼女は写真立てをしまって居間に戻ってきた。掘り座卓だと言うのに、敢えて畳の上に正座になった少女は語る。


「先ほども申しましたが、私は悪魔なんです。今も無意識に貴方が一番庇護したくなる姿をとって、こうして慈悲にあやかっています」


 悪魔。ここは日本で、更にはこんな山と海に挟まれたど田舎である。出てくるとすれば、妖怪であると思ったのだが。現実はどうやらそうロマンがあるものではないようだ。


「私は人のあたたかい感情しか、食べることが出来ません。……あの、さっきは勝手に食べてしまって、ごめんなさい」


 ぺこり、小さく少女は頭を下げた。なるほど、つまり僕が途端に少女への感情を失ってしまったのは、そういうことらしい。悪魔だのなんだのとても信じられる話じゃあないし、僕自身そういうのはあまり信じない人間なのだが、どうにも納得できるところが多く、さてどうしたものかとなる。

 ……しかし、もしそうだとしたら、どうして僕は今彼女をこうして家にあげて、お茶まで出しているのだろうか。不思議に思い尋ねれば、彼女も首を傾げさせた。


「私も、それが不思議なんです。普通なら、私に対して罪悪感も何も感じなくなって、そのままただ行ってしまうはずなのに……よほど、この姿に思い入れがあるのですか?」


 別に隠すほどのことではなかったから、素直に話した。今の君は僕の死んだ娘だ、と。

 すると少女はいかにも悪いことをしたという顔になって、おろおろやりだす。体ごとおろおろさせるもので、何かの拍子に麦茶をこぼしたりしやしないかと少し心配になった。悪魔を名乗るわりにどうにも悪魔らしくない。

 そんな思いが顔に出ていたのだろうか、彼女は罰が悪そうに言う。


「悪魔は、人間の皆さんから何かを奪って生きる存在なのですけど。でも、私は……そうしたくないって、思うんです。その所為で、まぁ、いろいろあったんですけど」


 下の方を向いて動かなくなってしまった彼女を見て、私は提案する。分からないことは多いが、詮索するのも野暮だと思って、だから彼女にこう尋ねたのだ。行く場所がないなら、先に風呂に入ってくるといい。その間に布団を用意しておくから、と。


 *


 僕が目を覚ました時には、彼女は既に服を着て居間に居た。かつて娘や妻が居たといえど、それもここに越してくるよりも以前のことだ。昨日はパジャマ代わりにTシャツを着てもらい、自分の布団に寝かせてやったのだが。昨日と違う服で着飾って曰く、


「悪魔はいろいろ便利なんです」


 そんなものかと思いながらも、普通の食事は必要なのかどうか聞く。「食べなくても大丈夫ですが、食べることはできます」との事だったので、台所に。一人暮らしになると、どうにも食の生活習慣が乱れて久しい。どうにかそれっぽくなるように心がけて、ご飯と目玉焼き、酒の摘みに買ってきていた魚の佃煮に、お隣からお裾分けされたぶっといキュウリをスティック状に。見た目的には斜めに切って目玉焼きに添えてやりたいところだったが、まぁこちらの方が食べやすいだろう。

 トレイなんて便利なものはないので、何回かに分けて料理を運ぶ。少女は自分の前に並んでいく皿を見て、きょとんとして僕を見上げていた。その視線を気にせず、そっと箸とフォークを置く。しかし、皿の枚数のこともあって、少女の方は細かく盛り付けて、自分の料理は一枚の大皿に乱雑に盛ってしまった。かえって少女に気を使わせることになるかもしれないな、と反省する。


「いただきます」


 どうやら、悪魔と言えどある程度人間の常識は弁えているらしい。挨拶を済ませ箸で黙々と食べ進める少女に、一人暮らしであるが故にマヨネーズなんかがないことを謝ると、「おかまいなく」と返ってきた。

 白米をかきこむと、ラジオをつける。今週の末まで晴天が続くとのこと。

 出かけようと思うのだが、と少し言葉を濁しながら話しかけると、少女はそれだけで何を言わんとしているか分かったらしい。


「悪魔はいろいろ便利ですから。貴方の隣に居ても、周りは一切の違和感を持ちません」


 まぁ、仮にその言葉が偽りであったとしても、もはや失うものは何もなくはあるのだが。しかし、今は亡き二人に顔向けできないところもある。


 そんなわけで、朝食を済ませ食器を洗うと――片付けの時は、少女が自分の皿を台所まで持ってきてくれたので往復せずに済んだ――二人で商店街に向かった。一重に、彼女の身の回りのあれこれを用意する為だ。一人暮らしをすること早数年、溜まるばかりだった給料に、ようやく使い道が出来た気がする。

 数時間おきのバスに合わせて家を出て、後ろの方に二人で座る。窓際かどちらがいいか聞くと、「? 何か、関係あるのですか?」と不思議そうに尋ねられたので、敢えて言うなら窓際の方が外が見えると答える。取り敢えず、窓際の席に追いやっておいた。

 田舎道をがたがた揺れて行くバスの中、さて何を話そうかと思案して、そういえば名前を聞いてないことに気付いた。


「フェニックスです」


 僕は思わずオウム返しになったが、しかしやはりフェニックスであるらしい。なかなか大層な名前を持っていることである。つまり君は死んだりしないのか、と尋ねてみると「死にはしますが、また生き返るんです」との返答を得た。

 しかし、街中でフェニックス呼びをするのは、流石に憚られる。せめてフェニくらいなら――娘の顔は可愛らしいとはいえ紛れもなく日本人であるので――まぁ娘がアニメの影響でそう呼ばれたがっているとかで誤魔化せるのではないかと思い、伺いを立てる。フェニックスは素直に了承してくれた。

 僕の名前も教えておいた方がいいかと思ったが、「知っています」とのこと。悪魔とはなんとも便利なものである。


 信号もそうそうなく大して車も走っていないもので、バスはものの数十分で目的地に到着した。

 寂れた商店街だ。寂れたという形容詞は主に建造物にかかる言葉で、決して人気がない訳ではない。シャッターが閉まっている場所などもなく、小さな店が軒並みを揃えて身を寄せあい支え合っているような様子であった。

 まずは服屋に赴き、好きな服を選ばせることにする。店先にまで服が雑多に服が並ぶ、見るからにオシャレとは遠い店なのが少し申し訳なかったが、子供服を取り扱う店自体少ないので、我慢してもらう他ない。


「私が、選ぶんですか?」


 困惑して私を見上げるフェニックスに、服を選り好みするのが苦手なら娘に合うような服を探してみるのはどうだろうか、とアドバイスをしてみる。もちろん、自分の好みに合うものがあったらそれも買えばいい、これからの事を考えたら服は多いに越したことはないからと。

 それを聞いたフェニックスは店内をまるまる一周見て回り、何着か申し訳なさそうに僕に差し出した。全体的に暖色カラーが多く、下はズボンしかなかった。一着だけ白に水色をアクセントに入れたワンピースが混じっていたが、どうもこの辺りは当人の趣味であるように思う。ちなみに下着類はやたらとファンシーであった。

 早速会計をしようとしたのだが、そこで彼女がふと店の片隅にあるブレスレットを眺めていることに気付く。声をかけてみると、「温度の低い炎の色だったので」と。どうやら、数あるブレスレットの中でも橙の石――恐らく天然石などの類なのだろうが、僕はそういうことに疎く名前は分からなかった――を使ったものがお気に召したらしい。丸くカットされた石を繋いだだけの、オシャレな数珠に見えないこともない地味なものだった。

 彼女に店先で待っているように言うと、そのブレスレットを引っ掴んで店主の女性に渡した。「娘さんですか」と聞かれたので、親戚の子を預かることになって、と答えておいた。


 店先に出ると、フェニックスはすぐに僕のところに駆け寄ってきた。何やら僕の服の裾を握って後ろに隠れたがるので、どうしたのかと尋ねると、何やら一方向を指さす。見ると、店を出て右手の奥、店と店に挟まれるように鳥居が見えていた。

 怖いのかと聞いてみると、「恥ずかしいんです」とよく分からない回答。しかし僕はこれからあの鳥居のすぐ隣にある布団屋に行かねばならないのである。どうしようかと悩んで、常に鳥居の側に僕が立つこと、それから手を繋いでいることを条件に布団屋に行くことへの許可を請う。フェニックスは僕の腕をしかと掴むことで答えた。その体温はやはり普通の子供より高く感じる。

 とにかく早めに用事を済ませた方が良さそうだと思い、布団は取り敢えず僕が選ぶことにした。選ばれた服からして、彼女はどうにも分かりやすい好みをしているようなので助かった。家まで配達してもらうように頼んで店を出るまで、服屋に居た時の半分もかからなかったのではないだろうか。鳥居に近づく度に手を握ってくる力が強くなっていく時はどうしようかと思ったが、どうにかなった。


「……どうして、私が良いな、と思う布団がわかったの?」


 と不思議そうに呟いているのが、どうにも可笑しくて、つい口元が緩んでしまう。


 服屋で意外なほど時間を食ってしまっていたようで、そのまま昼食に移った。フェニックスということだから鶏肉が駄目だったりはしないだろうかと思ったが、「鷹は他の鳥を食べますよね?」というありがたい言葉を受け取ったので、自分の行きつけの鶏肉料理屋に連れていく。

 薄暗いショーケースに劣化の酷い食品サンプルが並ぶこの店には、昼食はもちろん飲みたくなった時にもお世話になっていた。必然的に店員とは顔見知りな訳で、女将さんなど水を出しながら「お付き合いなさってたんですね」と単刀直入に聞いてきた程だった。彼女は親戚の子で、家庭の事情で預かることになったのだというと、気を利かせたのだろうか伝票と一緒に頼んでもないオレンジジュースが出てきた。

 そういえば、煙草の臭いは大丈夫なのだろうか。すっかり失念していたが、彼女曰く「ヤニ臭いのには慣れています」らしい。そういえば悪魔にはヤニの臭いをさせているものも居ると聞いたことがあるようなないような。ありがたいことだったが、この狭い店内でその言葉はどうにも誤解を生むのでやめて頂きたい。

 結局、フェニックスの机には当人が頼んだ親子丼の他に、特製プリンが添えられることとなった。彼女は自分の注文と違うことをとかく主張していたが、「サービスだから」と言われると不思議そうに受け取る。どうやら舌に合った様子で、本当に無心でスプーンを進めているのをチキンカツを突きながら眺めた。

 余談だがジュースとプリンの代金はきちんと伝票に添えられていた。どうやら女将さんは僕のことをよく分かっているらしい。


 そのまま晩御飯の買い出しに向かう。昼間は肉だったし、今日の夜は魚にしようとアジの開きを二枚カゴに入れた。明日は仕事ではないが、しかし仕事が始まってからは昼と、あと夜ももしもの為に作って置いた方がいいだろう。仕事となれば買い足しも出来ないから、その分も買っておいて、それからマヨネーズも――


「……こんなにいっぱい、大丈夫?」


 その声にカゴを見ると、一週間三食きちんと作っても処理できるかどうかという食品の山があった。もしものことを考えて、どうにも過剰になってしまったようである。ふとフェニックスに料理は出来るか尋ねると、「私はご飯、食べなくてもいいから」と言われてしまったので、明日からきちんと三食作ってやることを決意した。どうせだから、自分の昼食も自作弁当にしてしまおう。

 何かリクエストはないか、一応尋ねてみるとフェニックスはてくてく何処かに歩いていって、次には「……これ?」とプリンを持って現れた。余程先ほどのプリンが気に入ったのか、それとも他の食べ物をあまり知らないだけなのか。しかし、あのプリンを食べた後では市販のプリンはクオリティが低いように感じてしまいそうで少し不安である。

 プリン以外にもお菓子を何個かと、ハブラシなんかの日用雑貨を食品の上に乗せて会計。今日だけで何枚札が消えただろうか、急に金持ちになった感じがしてどことなく楽しかった。


 店を出たところで時刻表を広げると、ちょうどバスの時刻が近づいていたので、そのままバス停まで来た道を戻ることにする。ああ、そういえば女の子の日のアレは――


「ないので大丈夫です」


 *


 そうして家に着くことには、時刻は夕方に程近かった。布団は夜までに届くということなので、それまでに服を洗濯機に入れて、また部屋も準備する。やはり居間に近い方がいいだろうかと、障子で区切られた向こうの部屋、つまり僕の寝室をフェニックスの部屋にしてやろうかと思ったのだが、「そこまでしてもらわなくても、いいです」とやんわり断られてしまった。一通り部屋を回らせた結果、日当たりがいいということで台所の隣の一室が彼女のスペースに決まった。

 物置を漁くって、娘が生前気に入っていた犬と猫の書かれたカントリー風の衣装箪笥を引っ張り出して、彼女の部屋まで運んでやる。どうにも部屋が殺風景で、もっと何か買ってくればよかったかとも思ったが、「普段は居間に居るだろうから」とこれまたやんわりと否定されてしまった。


 台所に彼女と出会った時に下げていたビニール袋がそのままになっていたので、取り敢えず片付けているとチャイムと共に布団が届いた。時間が経つのはなんとも速いものである。ちなみにフェニックスは、僕が衣装箪笥や諸々を運んでいる間、ただ後ろをとことこと追いかけて回っていた。


「手伝いたいんですが、変に力を入れると元の姿になってしまいそうで」


 と申し訳なさそうに言っていた。ぽんぽん、と頭を軽く撫でてやると、不思議そうに首を傾げてみせた。


 普段使っていなかった為、魚を焼くコンロの掃除から始めなければならず、結局夕飯が出来たのは七時を回った辺りであった。あまりに掃除が進まなかったので、途中練炭で丸焼きにしてやろうかとも思ったのだがどうにかなったようだ。

 今朝と同じく、居間で向かい合って箸を進める。やはりというかフェニックスは箸を使うのが上手い、ひょっとしたら僕より上手いかもしれない。どうにも僕は不器用な性分であるようで、鯵の骨がぴんっと弾かれて飛んでいくのを我が事ながら苦笑いで眺める。


「人には向き不向きもあります」


 それを目ざとく見つけたフェニックスに慰められて、歳に似合わず恥ずかしくなる。

 話題を変えるべく、そういえば主食である感情は食べなくていいのかと聞くと、彼女はうつむきがちになって、味噌汁に浮かぶ木綿豆腐をつんつんとする。


「……ほんとうに、食べたくないんです」


 その声のトーンは明らかに低い。食後にプリンでもどうかと提案すると、「人間は物で人を励まそうとするんですね」と厳しい言葉を頂いてしまった。当人としては単純な疑問というかなんというかで、悪意や皮肉がないのは知っているのだが、どうにも罰が悪い。この後着替えの中にブレスレットを忍ばせておくつもりなのだが、どうなるだろうか。


 ちょうど洗濯機の乾燥も終わっていたので、フェニックスが風呂に入っている間にパジャマを一着風呂場に、明日着る服を枕元に置いて、残りを箪笥の中に入れておく。本当ならば服を自分で選んだ彼女にコーディネートを任せるべきなのだが、今日に限っては着替えの合間にブレスレットを隠しておかねばならないので致し方ない。というか、それなら箪笥にしまう作業もフェニックス当人に任せればよかっただろうか。どうにも過保護になっていけない。

 居間でドライヤーで長い髪をなびかせるフェニックスを眺めながら、火の鳥ならば自分の力で乾かしたりもできるのではないかと一人ごちると、「こちらの方がいいかと思って」と言われた。デビルイヤーは地獄耳という一節が脳内で流れる。恐らく僕が風呂に入れだの人間臭い振る舞いばかり指示している所為だろう、面倒だったら断ってくれていいと答えると、


「こういうのは初めてなので、逆に楽しいです」


 珍しく微笑んでみせたフェニックスを見て、本心と取っておくことにした。

 こんなやり取りがあったからか、僕が風呂から上がって居間にいくと「座って、目を閉じてください。私がいいって言うまで、絶対に開いたら駄目ですよ」と。何が始まるのかと思いながらも言われた通りにすると、ふと首から上、特に後頭部が暖かくなる。太陽に干されたものが発するあの匂いに、獣特有のポップコーンのような香ばしい匂い、それらを混ぜたような不思議な匂いが鼻孔を通っていく。

 「いいですよ」という声に僕が目を開けると、濡れた髪の毛は完全に乾ききっていた。「これが私の力です」なんて言うフェニックスはどことなく得意げに見えたので、感謝の言葉を伝えておく。ふと胡坐を組んでいた股のところに目線を落とすと、燃える炎の色をした――そうとした形容できなかった。それは橙を囲う赤のデザインで、ただそれらの二色は物が動いてないはずなのにずっとゆらゆらと動いているのだ――羽が一本転がっていた。

 ほぅ、と思って羽軸をつまんで照明に照らしてみようとすると、がっと横からフェニックスにかっさらわれた。


「お、おやすみなさいっ!」


 と大きく叫んだと思うと、自分の部屋の方に一目散に消えていく。

 フェニックスというだけあって本当の姿は鳥なんだなぁ、などと思う。


 *


 朝起きて障子を開けると、掘り座卓に座っていたフェニックスと真正面で目があった。どうやら僕が来るのを待ち構えていたらしい彼女は、「これはどういうことですか」と言って自分の手首を彩るブレスレットを見せた。

 君は良い感情を食べるらしいが、そんな君から見て今の僕はおいしそうに見えるか、と尋ねると黙って頷いた。つまりそういうことだよ、と通り魔的に頭を撫でておいて、そのまま台所に。昼も晩も共に和食であったので、今朝も洋食系のレパートリーで攻めることにした。

 ……焦げたフレンチトーストは僕の皿に置いておく。本当に、この料理は焦げつかさないにするのが難しいと思う。これを得意料理にしていた妻は、やはり料理が上手かったのだろう。トーストに悪戦苦闘したもので、残りの献立はドライフルーツ入りのフレークにヨーグルトを、そして生野菜を切っただけのサラダに市販のドレッシングをかけて終了した。余談だが昨日、やはりマヨネーズやドレッシングは天使らしきキャラクターをマスコットに使っている企業のものではない方がいいのかと尋ねたら「気にし過ぎです」と言われた。


 さて、久々に飲んだオレンジジュースの味に一つ息をつきながら、対面でフレークをぽりぽりしているフェニックスに今日はどこにいきたいかと尋ねる。


「……言った方が、貴方は喜ぶんですよね」


 なんならちょくちょくつまみ食いをしてもらった方が、バランスが良くなるくらいだ、と答えると「灯台に行きたいです」と。

 この町は北を山、南を海で包囲されたような立地をしている。つまり、山近くの僕の家から海まではかなり遠い。後片付けを済ませて、バスの時間に合うように身支度を済ませた。弁当を作っていくかは悩むところだったが、灯台に行くのであったら近くの港で美味い魚でも食べさせてやろうと考える。


 今回もフェニックスを窓際に追いやりながら、バスの後ろの方に着席。揺られながら、どうして灯台を選んだのか尋ねてみると、「着いてからお話しします」と言われてしまった。それからは会話もなく、ただ二人で窓の外を眺める。昨日降りた商店街を通り過ぎて、最後には窓の外、奥の方で広がる海が映ったところで降車。

 バスから降りた瞬間、ぶわぁと海風に巻き上げられて磯の香りが鼻孔に入りこむ。今日は快晴、早くも額に浮かぶ汗を拭うと、「大丈夫ですか?」とフェニックスが見上げてきた。涼しげな顔だが、まぁ当人が炎の化身というか、とにかくそんな感じなのだからこれくらい屁でもないのだろう。

 店などがあるのは港の端、浜辺に程近い辺り、灯台があるのはその真逆の端である。先に早めの昼食を済ませてから灯台に向かうことにする。浜辺に寄っていくか尋ねると、「何かあるんですか」と逆に聞き返されてしまったので、漂着した貝殻なんかがあるかなと答えておいた。なんなら泳いでいってもいいと言ったら、「これでもフェニックスなので」と困った顔をしてしまったので、うかつだったと少し反省する。


 九月の平日である、浜辺に着いてもそこに人の姿はほとんどなかった。遠くの方でご老人が釣り糸を垂らしている程度である。取り敢えず浜辺に下りてみたが、僕はそこで自分が革靴を履いてきていることに気付いて、失敗したなと思う。クーラーボックスは持ってきたのだが、こういうところは無自覚だった。

 フェニックスはと言えば、言われた通りに砂浜の上を目で追いかけて、一人で歩いていくと体を丸めた貝を一つ取ってきた。それはタカラガイと言って、昔の人はそれを通貨代わりに使っていたのだと教えてみると、「好き?」と聞いてきた。まぁ綺麗だと思うと答えれば、何故か被っていた帽子を脱いで、再び浜辺に繰り出していった。まぁしばらく好きにさせておこうと、一旦砂浜から上がって自販機でアイスコーヒーを買う。

 数分後、帽子いっぱいの貝殻を集めたフェニックスが僕を上目遣いに見ていた。しかも単純に目に見える貝を集めてきたのではなく、綺麗なものを選り好んで収集してきたようである。鳥だからこういうきらきらしたものに執着があるのだろうかとか、この短時間でこれだけの作業をする辺りが悪魔的だなとか、とかく考えるところはいろいろあったが、ひとまず頭を撫でてやった。


 取り敢えず、そのままお店の方に。何か買い物をして、そこでもらったビニールに貝殻を移してやろうと思ったのだが、それより前にいかにも気の良さそうなおじさんがビニールを渡してくれた。「嬢ちゃん、貝殻集め上手いねぇ」と笑いかけられたフェニックスは、どことなく得意げに見える。感謝の気持ちも込めて、おじさんの店で佃煮や諸々を何点か購入した。フェニックスは帆立を唐辛子や海藻と一緒に煮つけたものが気に入ったらしい。僕としてもおつまみに良さそうだと思ったので、それは二袋ほど。

 昨日いろいろ仕入れたし、仕事に出た日は二人で夕飯とはいかないかもしれないと考え、今日の晩は手巻き寿司にしようと思い至る。寿司に使う海苔のついでに味付け海苔、刺身のついでに開き、と買い増やしていく内に昨日のデジャヴ。


「買い物、苦手なんですか?」


 呆れた感じもあるその言葉に、いろいろなものを食べてもらいたいと思って、と返すと「それでこれから先餓えることがあっては困ります」。ご尤もである。しばらくは買い物を控えなければと一人決意した。なんだか、この辺りの感覚がすっかり麻痺しているように感じる。

 港のお土産商品である亀饅頭まで購入して、ようやく食べ物屋に移る。食券機を前に悩む僕を他所に、彼女はすぐに帆立メインの海鮮丼を選んでいた。よほどお気に召したらしい。なんだか微笑ましくなってしまって、僕も同じものを頼むことにした。

 海の見える二人席にトレイを運んで、昼食。帆立を何枚か彼女のどんぶりに入れてやると、彼女のどんぶりから鮪が数枚やってきた。どうやら、鮪を多めに仕入れていたことがバレていたようだった。


 トレイ返却口に食器を返して、お目当ての灯台に赴く。遠く見える防波堤と目の前から迫ってくる灯台を視界の隅に置きながら、二人で歩いていく。お昼頃ということもあってか、港に停泊している船は少ない。もっともこんな片田舎の港だ、居たとしてもそれらはほぼ全て漁船である。旗を下げてボディに渦潮丸などと名前をつけた船を見て、フェニックスが喜ぶかどうかといえばなかなか微妙なところだ。

 灯台は、ある種この街のランドマークといっても差し支えない規模のものだ。高層ビルなどないこの街においては、もしかしたら最も高い建造物かもしれない。灯台は真ん中のところがガラス張りの展望スペースになっていて、そこまでなら一般人でも立ち入ることが出来た。受付でブザーを鳴らし、出てきた男性に大人と子ども分の料金を払って階段を登る。そういえば、フェニックスは見た目こそ娘だが、実際の年齢はどれくらいなのだろうか。聞くとやはり「貴方より上です」との答えが返ってきた。それにしては感性が幼い気もするが、「つい数百年まで、いろいろとありまして」とのこと。


 螺旋階段が途切れた先、目的地は太陽の光に眩しかった。ベンチと望遠鏡が置かれているだけの、もの悲しいともいえる情景。当然と言うか、僕とフェニックス以外に人の姿はなかった。さっさとガラスの方に寄っていく彼女の背中を眺めながら、僕は中央の柱に沿っておかれたベンチに座る。クーラーボックスを隣にどさっと置いた。

 紐をかけていた肩をぐるぐると回している僕の耳に、フェニックスの言葉が届いた。


「久々に、視界が高い」


 ガラスに手をつけて眼下を見下ろす彼女の向こう側に、太陽の光にギラつく海が這いつくばって見えた。

 ぐるり、彼女が僕の方に振り返った。僕の方に伸びているフェニックスの影、逆光に陰る顔。なるほど、こうして見れば悪魔に見えないこともないかもしれない。ガラスの下につけられた手すりに腰を下ろして、語る。


「私がこの街に来たのは、この灯台が見えたからなんです。この大陸、どこもかしこも明る過ぎて暗過ぎて、でもふいに暗い中にすーっと光が伸びているのが見えて」


 座ったまま、体を捻って後ろにあるガラスを眺めた。


「この光がもう少し上を向いたら、きっと天まで届くのではないかと、そう思ったんです」


 僕はただ、黙っていた。


「……私、天使になりたいんです」


 天使、と思わずオウム返す。


「はい。悪魔にもそういう思想を持つ者はある程度居て……でも、そういうのって、やっぱり歓迎されなくて。数百年くらいですかね、ちょっとタチの悪いのに目をつけられてしまって、ずっと囚われの身でした。同胞のマルコシアスの助けがなかったら、今もそうだったでしょう」


 ガラスに再び手を置くフェニックス。フェニックスはまだ印象にあったが、悪魔に詳しくない私ではマルコシアスが何者であるのかは分からなかった。


「こうして逃げてきたのはいいものも……天使になれないように、人間の感情を食べなければならない呪いにかけられていました。餓死する分にはどうともないのですが……あの節は本当にお世話になりました」


 ぴょんと手すりから飛び降りて、一つ礼をするフェニックスに、僕はただこれからどうするのかと尋ねた。


「まだ私にも、これから先の見通しはなくて。だから、しばらくは貴方の下で過ごすつもりです。そうすれば、あのビニールの中身を使わなくても済むでしょう?」


 知ってたのか、と呟いた僕に「目が良いので。薄手のビニールの中身くらいは見てとれます」と。

 フェニックスと出会ったあの時、僕がぶら下げていたビニール袋。その中身は単純明快、ホームセンターで買い求めた練炭だった。


「辛いですか?」


 そんなことを聞かれても、今は辛くないと答えるしかない。フェニックスをただただ無心に、半ば現実逃避のように可愛がったことが誠実な行いなのかどうか、僕には分からない。

 例えるなら、過去の僕の思い出は太陽のようなものだった。常に僕を照らしているが決して届かず、仮に届くことがあったとしても振れた瞬間に僕が燃え上がる。しかし、その美しさはたしかに僕の日々を支えている。長い月日と精神の衰弱によって沈んだそれを再び追い求めるのは、そんなに悪いことなのだろうか。

 フェニックスはそんな僕に、ただ「ごめんなさい」と謝った。


「こんな時にこの姿のまま翼を生やしてみせたら、きっと貴方の踏ん切りもつくのではないかと思うんです。貴方の娘の姿をしていても、あくまで私が人外だと認識できるだろうから。でも、私は両極端な姿しか取れないし、もし極端に人外じみた姿をしたら、貴方がどうなるか分からなくて、怖いんです」


 日は、まだ紅になってくれないようだった。


 *


 夜は決めていた通り、手巻き寿司にした。……皿が家にないことを失念していて、シーチキンが缶に入ったままだったり、刺身が容器に入ったままだったりした。ついでに刺身の蓋も一旦洗って有効利用させてもらった。なんとも見栄えの悪い食卓である。無論、帆立は彼女に程近い場所にセッティングしてある。フェニックスからは「……二人にしては、レパートリーが豪華」という評価を頂いた。

 いただきます、と二人手を合わせる。フェニックスは僕が手巻き寿司を作る工程を眺めてから、それを真似てせっせと具を乗せていた。見ている限り、帆立巻の次くらいにシーチキンと卵とキュウリのシンプルなサラダ巻が気に入ったらしい。少し歪な卵焼きになってしまったが、喜んでもらえたのは何よりである。

 やはり、港の刺身は美味い。


 それからは昨日と同じだ、順番に風呂に入って、僕は台所の片付けや風呂場の掃除などを済ませて、早めに寝床に入る。ガラケーを開いて調べたところ、どうやらマルコシアスというのは悪魔の名で、そうしてやはり天に戻ることを願っているとのことだった。もっとも、ここに書かれている事実が、どこまで彼女の現実に合致しているかは分からなかったが。


 携帯と目を閉じてしばらく。すっかり眠っていた僕だが、どうにも腹のところが重い。内側が云々ではなく、まるで何かが上に乗っているかのような奇妙な感じ。寝ぼけ眼を擦って、片肘をつきながら体を起こした。

 裸のフェニックスが僕の上にまたがっていた。下着すらつけていない。暗い中で何故かその肌の白いのが浮かび上がって見えていた。

 すっかり目が冴えた僕の頬を、彼女はなぞって言う。歌うような声だ。そういえば、先ほど調べた時に見た。フェニックスの歌声は、聞いた者を魅了して時として精神を壊すほどとのことらしい。


「好きにして、いいんですよ」


 強制的に魅了されてる訳ではないようだが、しかし明らかに官能的な響きがあった。どうしようかと悩んだが、言葉に甘えることにした。



 まず、フェニックスの体をお姫様抱っこで持ち上げた。驚きの余り彼女が硬直するのがまさに手を取るように分かった訳だが、しかし彼女から言ってきたのだから実行しようと思う。そのまま彼女の部屋に行こうとして、道中居間の机で脛を強打して一瞬身動きが止まる。痛みに息を飲んだ僕にフェニックスは「もういいです! いいですから!」とかあわあわとしていたのだが、どうにかこうにか部屋まで辿り着いた。

 それから勝手に箪笥を漁ってパジャマを取り出し、腕を横に出してなどと指示を飛ばしながら着替えさせる。フェニックスは眉毛を八の字にさせて困惑しながらも従っていた。パンツも履かせてやったから、きっととても屈辱的だったに違いあるまい。

 布団に入るように言い、素直にもぐりこんだのを見ると、自分の部屋から娘が好きだった絵本を数冊持ってきて、枕元で読み聞かせタイムを開始した。人間は怒ると怖いということを、この悪魔によく分からせてやらなければならないと思った……のだが。


「ごめんなさい」


 酷く反省した様子でそう言われてしまうと、自分が凄まじく大人げないことをしている気分になって、こちらからも謝罪しておいた。


「もっと、私が居てもいいって、思って欲しかったんです」


 仕方ないので、頭を撫でてやった。そんなことしなくてもいい、と言おうと口を開いたその時、ピンポーンと。こんな真夜中だというのに玄関に呼び鈴の音が響いた。

 なんとも奇妙な来客である。僕が絵本を取りに自室に戻ったところ、携帯の時計は深夜三時四十二分を指していた。僕の家には昼間だって誰も来ないというのに、これは一体どういうことだろう。


 彼女を寝かせたまま、革靴を引っかけて玄関の戸を引いた。僕には予想もつかぬ並々ならぬ用件で訪れた人かもしれないと、そう思ったのだった。

 暗闇に立っていたのは、赤色に金縁の、西洋の王子が来ていそうな形の服――名前を失念してしまったのだが、でもこれで大体分かると思う――で着飾った、男性だった。「こんな夜更けに失礼を致します」と下げる頭には、王冠が輝いている。フェニックスの関係者であることは一目瞭然であって、当人も「こちらにフェネクスがお邪魔していると思うのですが」と――


 刹那、僕は背中をものすごい勢いで引っ張られ、次には玄関の扉を飲み込みながら男性に向かって放たれる炎の青が見えた。背中に、恐ろしいほどの熱量を感じる。ドンッ、と目の前で爆発音が鳴った。

 炎は確かに男性を直撃していた。だと言うのに、爆発に巻き上がった砂煙の中からは、「やれやれ、やはり裏切り者は礼儀がなっていない」と声が聞こえ、ついに男性は無傷なままで現れた。ズボンは白かったのだが、焦げ目すらついていない。


「ベリト……!」


 そう僕の後ろから響いた声は、今までに聞いたことがないものだった。振り返る。

 古い日本家屋、天井の低いそこに詰め込まれたようになって、巨大な猛禽が居た。全身の羽を膨らませ、翼を大きく広げ、長い首を前に突き出して鳴く。明らかに臨戦態勢であった。燃える赤の羽の合間に、橙の宝石のような嘴と爪が伸びている。


「どうやってここに現れた! お前はマルコシアスが法に則って処罰したはず……!」


 どうしようもなく、きょろきょろと交互に二人の顔を見る。ベリトと呼ばれたそれは「あのような犬畜生に私が負けると、本気で思っていたのです?」と清々しい笑顔で言っていた。間違いない、このベリトというのがフェニックスを数百年閉じ込めたあいつなのだろう。

 ベリトは続ける。「いやはや、君に慣れていた所為で、ついやり過ぎてしまいました。やはり、遊ぶなら君のような不死性持ちが一番です。さぁ、帰りましょう。そこの男は殺しますけどね」と。本当にさらっと、なんてことない世間話をするように言ってのけたのだ。嗚呼、こういうのはたしかに悪魔らしいなと思う。

 猛禽と化したフェニックスは、バッと僕の前に出て、そのまま男に飛びかかった。すでに焦げ付いていた玄関が、その巨体に抉れる。ベリトはどうやらその一撃を後ろに跳んでかわしたらしい、追撃をかけたフェニックスの長い尾が玄関から見える風景から消えた。弾けとんだ家の残骸を踏みつけて、僕は追いかけるように外に出る。


 一人が、人を飲み下せそうな巨体をいなしていた。手に持っているのはレイピアだろうか。あの細い刀身では巨体の攻撃は受けられまい、とも思ったのだが、相手は得物で防ぐまでもなく紙一重で攻撃をかわすと、肉薄したフェニックスの体にレイピアを突き刺していた。突き刺さった刃が抜ける度に、フェニックスの体から血が飛び出し、飛沫が落ちた地面が音を立てて黒に焦げていく。

 フェニックスも、決して動きが悪い訳ではない。嘴や爪を振るうだけでなく、羽ばたき巻き起こした風で相手を吹き飛ばし、口から吐いた炎で追撃したりと、手を変え技を変え攻めたてている。ただ、どれも当たらないのだ。

 そういえば、フェニックスは炎を吐いたりしているというのに、さっきからベリトはそれらしい、常軌を逸脱したことを何一つ行っていない。あの攻撃を避け続けるだけでも尋常ならないことではあるが、攻撃方法はレイピアで刺すというただそれだけなのだ。

 そこで、不意に彼の言葉が脳裏を過った。「遊ぶなら君のようなのが一番」と。もしかして、ベリトはフェニックスをただただ甚振っているだけなのではないだろうか。だとしたら二人の実力差は明らかで――


「――ッ!」


 鳥の高音が耳を劈いた。どうやら、レイピアが目玉を刺し貫いたらしかった。大きく後ずさった巨体が、最初からそうであったように、途中経過をすっ飛ばして少女の姿に戻る。ベリトが跳ぶ。巨体が後ろに下がって稼いだ数メートルの距離を、即座に詰める。

 僕は、堪らず飛び出した。

 肩口に、灼熱。「なんて馬鹿な男だ。それが不死鳥であることを知らなかったのか?」と目の前で悪魔が語る。レイピアを抜くのも億劫だったのか、空いてる手で顔面が殴り飛ばされ、体が後ろに跳んで、後頭部をアスファルトが擦っていく。脳が揺れているような感覚、目がくらむ。全く、情けないことだった。


 頭がグラグラして倒れたままになっていると、がしり、体を鳥の巨大な足が掴んで、そのまま宙に上がった。


 *


 フェニックスが僕を下ろしたのは、柔らかな砂の上だった。ざざん、ざざんと波の音がやけに頭に響いて聞こえる。


「ごめんなさい」


 体をどうにか起き上がらせた僕の目が、少女の姿のフェニックスを捉えた。目から零れた涙と、いまだに吹き出る血の赤いのが、灯台の明かりで時たま光っていた。


「私が、どうにか足止めするから、だから、出来るだけ逃げて」


 僕は黙って立ち上がった。レイピアは僕の右肩を貫通していた、痛くないはずがない。肩の内側に焼けた炭を入れられているような心地すらしている。

 だから、左の手で彼女の手を握りしめて、そのまま灯台に向かって走ったのだ。フェニックスの手を握りしめた瞬間、じゅわり、皮膚が焼ける感覚がした。恐らく、彼女の血が僕を焼いているのだろう。


 灯台の明かりがぐるりぐるりと回って、海面と砂浜を舐めまわして行っていた。月の見えない暗闇で、その光はあまりに眩しい。一瞬目が光に眩んで、また闇に慣れてが繰り返されて忙しかった。右手にある海に入り込まないようにだけ気を付けて進んだ。

 夜の海辺は恐ろしい程に静かだ。僕らの他に生き物の音はなく、ただただ波が打ち付ける音だけがする。


「離して……離してよぉ……」


 左後ろ、掴んだ手の先から震えた声が言う。えぐえぐと、泣き声が混じっていた。

 ところで、革靴で砂浜を走るのはやはりというかなかなか難しい作業のようである。どうにも、足元が覚束ない。柔らかな砂に、今にも足を取られそうになりながら、それでも繋いだ手を離さず走った。


「……じゃあ、離さなくていい、お願い、止まるだけでいいから……このままじゃ、死んじゃう」


 声はそう口にしながらも、僕と共に走り続けていた。理由は分かっている。自分が止まって僕の足並みを乱したら、僕がきっと転んでしまうから。自分の気持ちよりも僕の体を優先しているのだ。つくづく、彼女は優しかった。

 だから、猶更この手を離せない。ここで僕が手を離したら、彼女との繋がりも、きっと解けてしまうから。


 嗚呼、こんな真夜中だと言うのに視界が赤らみ始めて、目が痛い。先ほど殴られた時に額が切れたのだろう。そこから流れた血が、目に入ったらしかった。

 最悪だ。最悪だ。まただ。結局太陽は登っても落ちるだけで、再び上ることはないのだ。ここまでしても、結局彼女を守ってやれないことが確定しているのが、とても腹立たしかった。死んだ妻子のことが思い出されるのだ。


 地面がアスファルトに変わる。足の裏を叩き付けるようにして、走り続ける。彼女はもはやすすり泣くことしかしなかった。彼女と触れ合ってるところが、とても、とても熱い。それでも、回り続ける灯台の明かりを目指した。

 昼間より数を増やした船は、ただ静かに上下している。ゆわり、ゆわりと。


「どうして、そこまでするの」


 先に来た時より目に見えた速さで迫ってくる灯台。ベリトの姿はいまだに見えなかった。


「私がこの姿で居るから?」


 一歩一歩、地面を蹴り飛ばす度に、灯台はその胴を太くする。灯台の明かりが、視界の上から消えていく。

 一歩一歩、地面を蹴り飛ばす度に、揺れる右腕の傷みが強くなる。考え事が、頭の片隅から消えていく。


「ねぇ、私は、貴方の娘じゃないよ」


 着いた。灯台の根元、すぐ目前には静かに波打つ黒々とした海。

 ぴたり、僕の足が止まったところで背後から声がした。「ここが死に場所でいいのかい?」と。悪魔である彼女は、きっと僕より早く振り返ったに違いない。それを追う形で振り返ろうとした人間である僕は、その行動を終える前に、衝撃に押されて地面から離れていた。


 全身が燃えている。水面に体を強かに打ち付けて、沈んでいく今もたしかにそう感じていた。正確には体が溶けていっているようだった。視界が白く濁っていて、耳は衝撃の瞬間痛いと感じてから聞こえない、鼓膜が破れているのかもしれない。皮膚はどこもかしとも痛く、その痛みが内側の肉まで急激に侵していくのを感じていた。

 痛い。とにかく痛い。喉に、鼻に、塩水が入ってくる。苦しい、痛い。あらゆる神経がそれしか伝達してくれない。思考がそれだけで埋まりそうになって、ただその中でも左手の先にある感触は忘れなかった。焼かれているような感覚の中、左手が掴んだ太陽を、敢えて抱きしめた。どちらが下だ、どちらが上だ、今僕らはどちらに向かっているのか。痛い、とてつもなく痛い。溶けている皮膚を、剥き出しになった肉を物体に密着させるなんて、考えただけで鳥肌が立つ。この腕の中の太陽を今すぐ手放して、痛みに体をじたばたとさせたい、いや、そんなのダメだ。嗚呼、痛い。

 苦痛に鈍る思考の中、次第に体中から力がなくなっていくのに気付いた。抱き寄せる腕が、緩まっていく。痛い。ああ、くそ、最悪だ。どうにもならない、もはやどうしようもなかった。


 だから、最後の力で、まだ燃えている太陽を、沈み行く太陽を引き寄せると、痛みに痙攣する口元を歪めて、声にもならない一言を水の中で発したのだ。


「ありがとう」


 光。




 ぐいっ、重力を無視する勢いで体が引き上げられて、次には僕の体は空の下に出ていた。潮風が頬を撫でて、海は僕たちがあげた水飛沫にうるさく、灯台のぐるぐる明かりが目に眩しい。思考は、まったくもって正常。痛みもなく、苦しさもなく、五体満足。そして、仄かに感じるあたたかさ。濡れた髪や服はもう乾いていた。

 右に視線をやると、女性の胸から上が見えた。見た事がない顔だ。ただ、風になびくその髪は、フェニックスと同じ燃える赤を宿していた。


 港の方から、黒い玉が跳んでくる。女性が翼を用いてそれを撃ち返すと、着弾したその先、コンクリートにクレーター状の穴が空いた。抉れた後からは黒ずんだ煙があがり、表面がぼこぼこと泡立って溶けているのが見えた。

 すぅ、と空を翔けると、彼女は僕を港から伸びる防波堤のところに下ろした。そこで気付いたのだが、どうやら僕は今まで彼女にお姫様抱っこされていたらしい。


「お返しです」


 そう言って、再び飛び立つ彼女。その声はやはり聴いた覚えがないものだったが、もはやその正体は明白であった。

 回ってきた灯台の光で浮かび上がったその姿は、ハーピィと呼ばれるそれとよく似ているように見えた。上半身は人間の女性のそれだが、しかし下半身は猛禽、更に背中からは体を包み込んで余りある巨大な翼を生やしていた。フェニックスが一本、翼のところから風切り羽根を抜き取ると、同時にそれが大きく伸びて片刃の剣となる。

 砂浜が戦場に選ばれたらしい。炎と黒が乱れ飛び、当人達はその合間で鍔迫り合っていた。着弾先の船は爆発を起こし、砂浜が抉れ、海は大きく水柱をあげた。爆風が短い髪をかきあげ、エンジンが燃える臭いにむせそうになる。そんな中で縺れあう二人だが、優劣は次第に明らかになった。レイピアは相手の攻撃を受けるには向かない、しかし今やフェニックスの猛攻はベリトの回避能力を越えていたらしかった。悪魔同士の戦いで武器の性能差がどれだけ出るかは分からないが、しかし攻撃を得物で受けれず傷を身にもって受けるしかないのでは、どうしようもないように見えた。

 ベリトの動きが目に見えて鈍り、回避も雑になった頃合いを見計らったのだろう。フェニックスは右に振るように剣を構え、次にはその逆、左に勢いよく刃先を折り返した。無理な体勢である、スピードは目に見えて落ちていたが――もっとも、ほとんど目に見えない速度のそれが、ぎりぎり目で追えるかどうかまで下がった、といった感じだった――しかし、大きく左に避けたベリトはそれをかわし切れなかったようだ。

 首元に一閃。その断末魔は、かなり遠くに居る僕の耳を通り抜けて、頭を揺さぶった。落ちた首と、体が炎に包まれ、砂浜に倒れる。


 それを見届けると、フェニックスはまた僕のところまで飛んできた。見目麗しい女性の顔をして、僕に軽く礼をするのだ。


「ありがとう。貴方のお蔭で、奴に勝つことができました」

「僕のお蔭なんて、そんなとんでもない。僕はただ、君の手を引いて走って、奴の攻撃に当たっただけじゃあないか」

「……貴方は、娘さんではなく私を見ていてくれていたんですね」


 そんなことを言われたもので、僕の中で今までのことが改めて思い起こされた。命を絶つ決意をしたまさにそのタイミングで、彼女に出会った時のことを。


「そう当然なことを言ってくれるな。僕の最愛の妻子はあの二人だけ、君はそんな親馬鹿夫馬鹿な可哀想な中年に付き合わされた被害者だ。もっと胸を張って被害を訴えてくれていいんだぞ」

「悪魔は、誰かから本当に愛してもらえることで、天使になることができるのです」

「おっ、たった数日で悪魔を天使にできるくらい相手を愛しちまった、誰かさんの尻の軽さに幻滅しないのかい?」

「寧ろ惚れてしまいました」


 フェニックスはくすり笑ってみせるので、僕は堪らず苦笑いした。ああ、まったく、恥ずかしいったらありゃしない。

 空は既に明らみ始めていた。もうしばらくしたら、日の出が見えるだろう。だから、それまではこうして雑談でも洒落こもうかなと思ったのだ。


 *


「今日はいつにもまして買っていかれるねぇ」

「家に娘の友人が来ていてな。パーティをする羽目になったんだ」

「おぉ、そいつぁめでてぇこった。なら、これも持ってきな。いつもうちの商品を強請ってくれる嬢ちゃんへの土産だ」

「ありがたく頂くよ」


 港の海鮮市で用を済ませると、僕はいつも通りバスに乗り込んだ。フェニックスと出会って既に数ヶ月が過ぎ、今日は早めに仕事を上がらせてもらってこうして帰路に着いている。

 あの夜の事を世間様が知ることはなかった。日の出と共に戦闘の痕跡は全部なくなって、後にはいつもと変わらぬ風景が残されるばかりだったのである。隣で佇むフェニックスは「悪魔はいろいろ便利なんです」と悪戯っぽく笑っていた。


 窓の外で商店街が通り過ぎて行く。


 あれからも、フェニックスは僕の娘の姿を借りて生活を続けている。彼女を連れて外に出かけても「学校は?」とか言われることはやはりなく、児童相談所の世話になることはなかった。代わりに悪魔払いを名乗る人間の世話になったのだが、まぁ追い返せたとだけ語っておこう。


 なんてことを思っている内に、バスは家の最寄り駅に到着した。車掌に回数券を渡し、家に帰る。


 出所した犯人に妻子を殺されてから数年、いろいろな事があったものである。自分の誇りである警察という仕事が、一瞬にして妻子が死ぬ理由にまで転がり落ちたあの感覚。「これからは心を改めます」と言った犯人が「ざまぁみろ」と嘲笑ってきた時のあの感情。

 お陰様で人の言葉や行動を間に受けられなくなり、自分自身すら目に入れたくなくなって、ついにこの田舎街に逃げることになったのだが、今となってはそれらは完全に過去のものとなっている。

 僕の傷が癒えたあの時、彼女の力が精神の歪みまで矯正していったのかもしれないと考えたのだが、実際のところはどうなのであろうか。


 がらり、引き戸を開けると、「おかえりなさい」と声が迎えた。それから少し遅れて居間から顔を出す少女と、精悍な青年の顔。


「ただいま。マルコシアス、何か不便はなかったか?」



 まぁ、とにかく、僕は今もこうして生き続けている。また、日は登ったのだ。




『また、日は昇る』完

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