入学式って?
「…こうして皆さんの元気な顔を見れて私はとても安心しています…ここから……」
校長先生の話が長いのはどの世界でも共通なのだろうか。
今日は4月の上旬。つまり、ほぼ全ての学校では[入学式]というものが行われる日だ。
もうすっかり雪も溶け、少し日差しが暑いなか校長先生の長い話を聞くのはなかなか辛いものだ。
僕の学校では入学式と始業式が連続して行われる。つまり、在校生の挨拶代表や新入生はかなり長い時間、この暑い日差しの下にいなくてはならない。
「くそ、なんで入学式なんてやるんだよ。暑いのに」
と、悪態をついているのは昨日まで宿題を溜めていた馬鹿な友人である。
この暑さに頭をやられてたのか、[入学式]について少し考えてしまった。
[入学式]とはそれぞれの学校に新しく入ってくる者を歓迎する目的で行われる。僕の学校は始業式も兼ねている為皆登校してきて、全てその日に終わらせてしまう。だが、ほとんどの学校では[入学式]と始業式を別けて行うのだ。
…僕には意味がわからない。
[入学式]とは歓迎を主なる目的として行う。確かに、保護者に対する諸説明なども含まれているが主な理由は先程も述べたように歓迎なのだ。
ならなぜ、この二つの行程を分けてしまうのだろう。一気にやってしまえば楽ではないか。
事実、僕の別の学校にいる友達は入学式と始業式の話で、ほぼ同じことを話されたらしい。
「…この学校の校訓は友情 努りょk……」
あえてシャットアウトしたんだ、ありがたく思えよ筆者。
そんな思いを抱きつつまた、思考の闇に溺れていった。
[入学式]は歓迎の意味が大きい。もう何度も言ってきたことだ。ただそれだけなら、全ての学校はうちみたいにするほうが効率的である。
では何故そうしないのか。
そこまで考えたとき、一つ、思い浮かんだことがあった。
歓迎だけじゃない…[入学式]には拘束と自覚 の意味も籠められてるのか。
前者から考えていこう。拘束…あまり聞こえは良くない。しかしそれは監視の目の下による保護とも取ることが可能なのではないか。事実、学校にいる間、外部での問題もほぼ全て学校が関与してくる。そして同時に、その問題の発生の芽を摘むのも学校が行うことが多い。つまり、[入学式]という儀式をもって、新入生達は学校による監視という[拘束]を許可するということになる。これは、すでに一度この儀式に参加していればする必要の無いものだ。
そして後者だが、これは今の前者の話と深くリンクする。つまり、この[拘束]によって、ひいてはこの[入学式]という儀式によって自分はこの学校という世界の一人になったと[自覚]させるのだ。保護者を交えての校長先生の話には、歓迎と同時にこの[拘束]と[自覚]の意味も入っているのだ。
卒業式をもって自分は新たに成長する、という考え方を持つ人が多いだろう。だが僕は、この[入学式]こそ人を成長させるものだと思う。今までと違う世界に立ち、その世界で生きる覚悟を決めたなら、それは紛れもない[成長]なのである。
…などと考えてる間に校長先生の話が終わったようだ。
「これで入学式と始業式を終わります。」
「一同、礼」
やっと終わった…
「さーて、宿題終わってないのどうしようか」
僕には毎年[入学式]が必要なのかもしれない。