第四話
休日なのに朝7時に起きるなんて、普段ののぞみならば考えられない。だが今日だけは特別だ。
のぞみはひとり、駅のホームに立っていた。東京で暮らしている家から地下鉄やJRを乗り継いで2時間近く、ようやく辿りついた目的地。10歳の夏を過ごした町だ。
新居には祖母も同居することになっていたから、祖母の家は売りに出され、この町自体と縁がなくなった。だから訪れるのは17年ぶりということになる。子ども時代は電車ではなく車で来ていたこともあり、駅の改札の外に広がる町は、まったく知らない場所に見える。
昨日からずっと、この町での出来事を思い出そうとしていた。特に、近所に住んでいた同い年の男の子のことが引っかかった。だが思い出せたのは少しだけ。最初に挨拶したとき、男の子はろくに顔もあわせずにそそくさと行ってしまい、あれれと思ったこと。祖母は彼のおばあさんと親しかったらしいが、1年ほど前におばあさんは亡くなったこと。「だから仲良くしてあげてね」と、去っていく男の子を見つめながら祖母がのぞみの背中をなでたこと。
それ以上の記憶はあいまいで、男の子の顔も名前も薄ぼんやりしたままだった。それが記憶障害のせいなのか、単に忘れているだけなのかわからない。でも、どちらにしろこの町に来なければならないと思った。確証はないが、何かみつけられるかもしれない。のぞみが忘れていること。両親が隠していること。そしてもしかしたら、二階堂のことについても。
改札にSuicaをかざして、のぞみは一歩踏み出した。
駅から祖母の家までは、徒歩だと30分ほどかかる。スマートホンの地図をたよりに、道のりをショートブーツで歩いていく。
「ここ、憶えてる」
5分ほど歩くと、見覚えのあるパン屋が目に入った。確かカスタードクリームたっぷりのプリンパンが名物で、母親と一緒に買いに来たっけ。店内をのぞくと、入口近くでちゃんとプリンパンが売られていた。記憶が正しかったこととまだ店が続いてることに、心細かった気持ちが少しやわらぐ。せっかくだしと、のぞみはひとつ買って食べながら歩くことにした。ほおばると、やわらかめのクリームとともに懐かしい甘さが口の中に広がる。
ずんずんと歩いていくと、最初は知らんぷりをしていた町並みも、徐々に懐かしい表情を見せてくる。鹿の剥製みたいに壁から柴犬の首が浮き出ている、悪趣味な外装の動物病院の前を通りがかって、のぞみは「あ」と思った。
あの男の子と一緒に、ジャンプして柴犬の像のアゴに触る遊びをした。勝ったほうがアイス代を出すという賭けをして。
のぞみは像に手を伸ばして、そっとなでる。高さは地上170cmくらいだろうか。大人になったのぞみには容易に触ることができるが、小学生には少し高いかもしれない。
同じものを見上げていた時代もあったのだと思うと不思議な気持ちになる。どんな景色が見えていたのか、すっかり忘れてしまっているというのに。
さらに歩くと、「鈴木橋」という誰かの名字みたいな名前の橋や、小さな鳥居がある小さな神社を通り過ぎた。両方とも、男の子と一緒に遊んだ気がする。そして公園。ここで町内会のラジオ体操がおこなわれていた。
記憶をたよりに公園から800mほど歩いて坂道を横に下り、右折する。そこに古い赤茶色のマンションがあった。のぞみは唾を飲み込みながらマンションを見上げる。
ああ、ちゃんと憶えていた。男の子はここに住んでいたはずだ。たぶん1階か2階の部屋だった。家の中にはあがっていないような気がする。昼間に家族が寝ているからという理由で……そう、確か、お母さんが看護婦さんではなかったっけ。
意外と憶えていたことに感動する一方で、やっぱり男の子の顔と名前は思い出せない。念のためエントランスの集合郵便受けをチェックしたが、ピンとくる名前はなかった。
脳内に霞がかかったような心地にむずむずしながら、踵を返して祖母の家に向かう。さっきの角を右折ではなく左折してちょっと行けば、祖母の家があるはず。そこで、いろいろ思い出せるかもしれない。少し緊張しながら歩を進めたのぞみだが、辿りついたそこは更地になっていた。
「えー!!」
思わず落胆の声を漏らしてしゃがみ込んだ。番地は合っているので、間違いなく祖母の家だった場所だ。確かに人手に渡って17年も経てば、こんなこともあるだろう。だがこれでは、思い出せるものも思い出せなくなってしまう。あと一歩というところで、振り出しに吹き飛ばされたような気がした。
しばらく脱力していたが、夕方までに東京に戻ることを考えると時間はない。よろよろと立ちあがって、来た道を引き返す。しかし祖母の家がゴールのつもりだったのだ。これ以上行く場所がない。
あてもなく歩いていると、ぐうう、とお腹が鳴った。さっきパンを食べたというのに、歩きまわったせいか消化が早い。お昼時でもあり、のぞみは昼食をとることにした。大通りに出て、なんとなく目についた喫茶店に入る。昔ながらの喫茶店という趣で、ランチメニューからオムライスを頼んだ。大きな窓越しにぼんやりと外を見ながら、のぞみは変な気分になる。この町でこうしてひとりでランチを食べているなんて、先週までは想像もできなかった。それどころか、自分の人生でこんな1週間を体験することになるなんて、夢にも思わなかった。これも全部、二階堂が現れたからだ。
突然大金と引き換えに謎を突きつけてきた片腕の男。おまけに頬には傷だなんて、現実味がなさすぎて本当に白昼夢みたい。でも、とのぞみは思う。喋ったし、コーヒーを飲んだし、のぞみの話に笑った。彼はちゃんと生きている……。
二階堂のことを考えると、胸が苦くなった。食べ終わったのぞみは、ソファに背を預ける。これからどうしよう。約束が果たせる見込みはほとんどなかった。東京に戻ったら、100万円を家に取りに帰って、二階堂に返さなくては。二千万円の件は諦めよう。そしたらきっと、何事もなかったかのように元の生活が戻ってくる。
ぼんやりと外を眺めていると、大型トラックがハイスピードで通り過ぎていった。のぞみはハッとして立ち上がり、レジに向かった。
「あの、これって国道ですか」
窓の外を指さしながら、この店のマスターらしき男性に尋ねる。
「そうですよ」
「17年前、国道沿いで交通事故があったの知りませんか? 夏休みの終わりごろで、小学生の女の子が轢かれたはずなんですけど」
のぞみの父親と同世代くらいのマスターは、「17年前……」と首をかしげた。
「あ、2丁目の交差点じゃないですかね? だったら憶えてますよ。でも轢かれたの、男の子だったと思いますよ」
「その男の子の名前、わかりますか!?」
唾が飛び散らんばかりの勢いで迫ると、マスターは目を丸くしつつ答えた。
「確か、本多ですよ」
その一言に、ピントが合って視界が一気にクリアになったような気がした。
そうだ、本多だ。あの男の子の名字。
「下の名前はわかりませんか?」
そこまでは、と首を横に振られてしまったが、気を取り直してのぞみはさらに尋ねた。
「その本多くんが今どこにいるか、ご存じないですか?」
マスターの顔色がさっと変わった。
「いや、この町にはいないと思いますが……。お客さん、どういう関係で?」
「昔このへんに住んでたことがあって、友達だったんです。ずっと会ってなかったので、久しぶりに会いたくて」
「はぁ」
急に歯切れが悪くなったマスターを、のぞみは不思議に思う。
「あ、じゃあ彼のご両親はご存じないですか? 家もこの近くなんですけど。確かお母さんが看護婦さんで」
「いや、それは……」
それ以上は答えてもらえず、「すみませんね」と濁されてしまった。お礼を言って店をあとにしたのぞみは、駅に向かって早足で歩き始めた。そのうち小走りになる。
「のぞみちゃん、本多さんのお孫さんで、あなたの同級生よ。下の名前は――」
懐かしい祖母の声が脳裏に甦る。本多くん。そうだった。いつもひとりでいた、どこか内気な雰囲気の男の子。算数が得意で、宿題を教えてもらった。テトリスでは絶対勝てなかった。そんな男の子が確かにいたのだ。
私は彼と交通事故に遭っていたのだろうか? なら、何故両親はそれを隠していた? そして喫茶店のマスターは何を口ごもったのか。
のぞみは息を切らしながら、駅前にある市の建物に入る。エレベーターを使うのももどかしくて、階段を駆け上がった。17年前の夏、ここで遊んだ記憶をうっすらと思い出す。祖母の家と違い、クーラーがよく効いた市立図書館は涼むのに最適だった。
記憶なんていうあやふやなものより、客観的なデータが欲しかった。司書に尋ねて、過去の新聞が保管された部屋に辿りついた。該当する年月の地方紙のバックナンバーファイルを開き、一文字も見逃さないようにめくっていく。
《トラック 交差点で小学生二人をはねる》
見出しの下の小さなスペースには、「25日午後7時10分ごろ」「国道126号」「業務上過失致死傷容疑で現行犯逮捕」などの文字がぎゅっと詰まっていた。
――近くの市立小学校に通う4年生の男児が、車体の下に左半身を巻きこまれ重傷。一緒にいた女児はかすり傷などの軽傷。
ついに見つけた。この記事に間違いなかった。この女児は私。そして、男児は……。
心拍数が早くなって息苦しい。我知らず指先が震える。それでも続報を求めて、のぞみは翌日の紙面を広げた。
大きな見出しが目に飛び込んできた。
のぞみの呼吸が止まった。