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第三話

 大した進展もないまま、土曜日になってしまった。

 明日の夕方までに二階堂の名前をみつけなければならないというのに、カフェで話したとき以上の収穫は得られていなかった。学生時代のバイト先やサークル仲間にも改めて当たってみたが、二階堂を知る人間はいなかった。タイムリミットまで、あと30時間といったところだ。間に合わなければ、二千万円を諦めるか……もしくは彼と結婚するか。

 ぶほっという音を立てて、昼食の焼うどんを思わずむせこんでしまった。慌ててティッシュに手を伸ばし、口を拭く。部屋にひとりでいるのにたまらない気恥しさに襲われた。

 ――結婚て。結婚て。

 二階堂の条件を何度思い返しても、恥ずかしさと不可解さと「有り得ない」という気持ちがごちゃ混ぜになって、平気でいられなくなってしまう。あまりにも現実味がなさすぎるし、仮にも社長である二階堂が自分を結婚相手に選ぶメリットなど、想像もつかなかった。

 のぞみは、ベッドの上に開きっぱなしにしていた雑誌に目をやる。白黒の二階堂が無言でそこにいた。

 無表情だし顔に傷があるものの、背が高いし、見た目はけっして悪いほうではないと思う。しかも雑誌に取り上げられるほどの人物だ。大した稼ぎじゃないとは言っていたけど、同い年ののぞみに比べたら、社会的にも経済的にも高い地位にあるのは間違いない。

 そう考えると、やっぱり左腕なのだろうか。のぞみは食べ終わったゴミを捨てながら、ぼんやりと考える。ゴミを捨てるという動作ですら無意識に両手を使っているのぞみには、左腕がないことの苦労は想像もつかなかった。おそらく大変なことがたくさんあるのだろうが、二階堂の立ち振る舞いはそれを感じさせなかった。

 そう、あのとき以外は。

 よろけた自分を助けてくれようとした、のだと思う。ただの条件反射といえばそれまでだけど、悪い人ではない気がしていた。今回のことは、たぶん何か意味があって、のぞみに謎を投げかけているはずだ。

 二千万円の代わりに名前を当てること。それはつまり、彼の名前に二千万円の価値があるということだ。そんな高級な名前、聞いたこともない。

「う~、無理!」

 のぞみはスマートホンを手に取り、実家の電話番号を押した。母親が電話に出る。

「あら、どうしたの」

「なんかヒマだったから」

「まあ、土曜の午後なのに予定ないの? あんたみたいなの、干物女って言うんでしょ」

「うるさいなー」

 思っていたより元気そうな母親の声にほっとする。だが、二千万円を用意できなければ家が差し押さえられる事態に変わりはない。しばらく他愛のない会話を続けていたが、話が途切れたのを見計らったように母親が切りだした。

「お金のことだけど、何もしなくていいからね。家がなくなっても、お父さんとお母さんはどうにかなるから。あんたの実家がなくなるのは申し訳ないけど」

 のぞみは言葉に詰まった。家がなくなっていちばん辛いのは自分たちのはずなのに、と思うとせつなくなる。沈黙を振り払うように母親は笑った。

「だから、あんたもはやく結婚しなさいってことよ! いい人いないの?」

「いないよ! ないない」

 まさか二千万円の代わりに結婚する可能性があるなどと言うわけにもいかず、急いで別の話題に切り替える。

「あの、私のラッキーな経験って聞いて、お母さんだったら何を思い出す?」

 二階堂に最初に会った日、「この話は君の親には秘密にしておくこと」と言われていたが、このくらいならいいだろう。母親は「いきなり何?」と不思議そうだ。

「あんた、昔っから運だけはいいじゃない。いっぱいあって逆に思いつかないわよ」

「なんでもいいから言ってみてよ」

 住所を書き間違えて返送されてきた年賀状が2等の当たりだったこと、風邪を引いてしぶしぶ休んだ林間学校で食中毒が出たこと、第一志望の高校に急遽補欠が出て滑り込み入学できたこと……。母親が次々とエピソードをあげていくが、いまひとつインパクトに欠ける。

「これが一番! っていうとびっきりのやつ、ない?」

「そりゃあ、一番って言ったら……」

 何か言いかけたはずの母親が、急に黙った。

「お母さん?」

「元気に育ったこと自体が一番のラッキーよ。お母さんにとってはね」

母親はそう明るく笑うと、「お母さんこれから出掛ける用事あるから、じゃあね」と電話を切ってしまった。

 なんとなく釈然としないまま、のぞみはスマホを持ってベッドに寝転がる。インターネットの検索窓に「二階堂弘樹 本名」や「改名 戸籍 閲覧」などと入れてみるが、もう何度も試していたし、めぼしい情報は見つからない。気分転換にフェイスブックを開くと、相変わらず楽しそうな旅行の写真や女子会の写真などがアップされている。

 友人だけでなく、それほど仲のよくなかった同級生や仕事関係の人も見ているので気が進まなかったが、この際手段は選べない。のぞみは「近況アップデート」の欄に書きこんだ。

〈諸事情で、過去の出来事を探してます。私に関してラッキーな印象の思い出があれば、何でもいいので教えてください!〉

 我ながら意味不明だが、仕方がない。ついでに二階堂に言われたとおり、公開範囲を変更しておいた。


 ハッと目を覚ますと、西日が顔面に覆いかぶさっていた。ついでにスマホも頬にくっついていた。いじりながら眠りに落ちてしまったらしい。時刻は17時前だ。

 期限直前の貴重な土曜の午後を、寝て過ごしてしまった……。のぞみは自分のうっかり加減に脱力しながら、のそのそと起きあがった。スマホがベッドにごろんと落ちる。眠っているあいだに、フェイスブックにいくつか反応が返ってきていた。

〈中学のとき、帰り道で買い食いしてて、先生に見つかりそうになったとこを一緒に逃げきったよねー☆〉

〈のんちゃん、基本くじ運いい印象あるw てか、急にどしたん?〉

 大した情報は集まっていないようだ。あくびを噛み殺しながらスクロールしていると、小学校と中学校が一緒だった同級生の書き込みが目に入った。当時それほど交流があったわけではなく、最近フェイスブック上で再会した程度の間柄の子だ。

〈小4の夏休みに、交通事故に遭ってなかった?〉

 のぞみの指の動きが止まった。

〈でも全然ケガしてなくて、ケロッと登校してきたからびっくりした! しかも事故のこと憶えてないとか言うし(笑)〉

「あーーー!!!」

 思わず大声で叫んだ。目を見開いてもう一度読む。夏休み。交通事故。無傷。そして、「事故のことを憶えていない」。

 そうだ。そうだった。そんなことがあった。

「忘れてた……」

 10歳だった。家を建て替える3か月ちょっとのあいだ、のぞみの家族は隣の市の祖母の家に居候することになった。工事は5月末から始まり、8月中には終わる予定だった。

 だが、いよいよ新居の完成と引っ越しが近付いた夏休みの終わり、祖母の家近くの国道で、のぞみはトラックに撥ねられたらしい。「らしい」というのは、のぞみ本人はまったく実感がないからだ。その理由のひとつは、身体は奇跡的にほぼ無傷だったこと。もうひとつは、頭の打ちどころが悪かったのか、気づいたときには事故に関する記憶がまるっと失われていたこと。それどころか、直近1か月ほどの記憶もあいまいになっていた。CTを撮ったりいろんな検査に回されたが、これといった原因は見当たらず、外傷性の健忘だろうと大学病院の医者は言った。

 のぞみとしては、朝起きたらいきなり「事故に遭った」と言われたような感覚で、なんのことやらさっぱり意味がわからなかった。記憶がなくなったといっても、ちょうど夏休み中の期間だったので、特に学校生活に差し障ることもない。二学期の頭を少し休んだだけで、なにごともなかったように小学校に復帰した。記憶を失う前の自分が手をつけずにいた夏休みの自由研究の提出を免除され、ラッキーと思ったほどだ。新生活の慌ただしさもあったのか、検査が終わってからは両親も事故の話をしなかった。おかげで事故に遭ったこと自体を、すっかり忘れてしまっていた。もう、ずっとずっと長いあいだ……。

 おかしい。

 のぞみは狭い部屋の中をぐるぐると歩き回った。興奮してちっとも考えがまとまらない。額をぺちりとやって、深呼吸した。ペットボトルの水を飲み、ドキドキしていた心臓がようやくおさまっていく。

 おかしい。この17年間、のぞみは両親と事故の話をした憶えがない。いくら無傷で済んだからといって、娘が九死に一生を得た話にまったく触れない親がいるだろうか? しかも、なくした記憶は戻らずじまいだというのに。

 さっきの電話、母親が言いかけた「人生で一番のラッキー」は、本当はこの事故のことではなかったのか。ならば何故、母親は言葉を濁したのだろう。

 私は何か、大事なことを忘れてしまっている気がする。

 のぞみはベッドに腰掛け、膝に肘をついて両手を頬にあてた。ぎゅっと目をつぶって意識を集中する。脳内の細い螺旋階段をくだるように、夏の記憶を辿っていく。

 あの年、5月の末に隣の市の祖母の家で居候が始まった。小学校へは出勤する父親の車に同乗して通った。片道1時間以上かかるので朝起きる時間がはやくなってしまったけど、そのぶん車の中で寝られるから楽ちんだった。学校が終わると、父親の仕事が終わるまで友達の家に行かせてもらい、迎えに来た父親とまた一緒に車で帰宅した。だから祖母の家に住んでいたといっても、生活に大きな変化があったわけではない。夏休みになってからも、例年通り普通に過ごしていたはずだ。宿題をしたり、友達と遊んだり……。

 違う。のぞみはハッとした。学校が休みだから、近くに友達はいない。

 でも、祖母や母親がいるからといって、一日中家にいたとは思えない。子どもだから、外に出かけて遊んでいたはずだ。ひとりで? いや、誰かと一緒だった。土地勘のないのぞみを案内してくれる地元の子。そうだ、祖母の家の近所に同い年の子どもが住んでいた。引っ越しの日に道端で会って、祖母に紹介されて……。

 ――男の子だった。

 のぞみは弾かれたように立ち上がった。目をつぶるのに力を入れ過ぎていたのか、ぐらりと立ちくらみがする。11月だというのに、汗をびっしょりかいていた。

「男の子だった」

 こぼれ落ちるようにつぶやいた。


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