第二話
――片手は大変だとかよく言われますけど、慣れれば普通です。アプリのアイデアも、自分にとっては自然なこと。むしろ、片手ならではの企画が考えられないなら、それは両手がないのと同じだと思うんで。
インタビューはほとんど暗記してしまった。
のぞみは例の雑誌を買って帰宅したあと、ろくに夕食も摂らないまま二階堂弘樹という人物について調べた。ヒットしているというアプリに関する情報はたくさんあるが、本人については雑誌のインタビュー以上の情報は出てこなかった。ただし、彼が代表取締役を務めるという会社のホームページはすぐにみつかった。リリース情報とプライバシーポリシーと会社概要だけのシンプルなサイトだ。住所を見ると、二階堂の会社はのぞみの家から地下鉄で三駅しか離れていないことがわかった。
翌日の仕事中もこの一件が頭から離れず、意味がないと思いつつも、何度も二階堂の会社のサイトにアクセスしてしまった。クリックするたびに、疑問と想像が膨らんでいく。相手の情報を掴んだはずなのに、むしろ霧が深まって行くようだ。
なぜ? どうして? あなたは誰?
そして気づけば今、定時とともにダッシュで退社し、のぞみは二階堂の会社が入っているビルのそばにいる。約束の日まで、とても待てなかった。一刻も早く会って問いただしたい。
といいつつ、作戦は何もない。ビルの入り口がひとつしかないことを確かめたあとは、道路を挟んだところにあるコンビニで時間を潰しつつ、ちらちらと様子を伺っている。
ITの会社、というからセキュリティ完備の最先端の建物をイメージしていたが、5階建ての普通のビルだった。二階堂の会社はこの4階に入っているはずだ。のぞみはコンビニの雑誌売り場から、窓越しにビルを見上げる。さすがに会社に直撃する勇気はない。この時間に彼が会社にいる確証もないし、いたとしても、そこにいる人たちに頭の変な女だと思われるだろう。本当に変なのは二階堂にもかかわらず、だ。
そうこうしているうちに、30分以上が経っていた。雑誌を立ち読みするフリをしながらビルを観察するのは肩が凝るし、さすがにコンビニの店員の目線も気になる。なにより、本当に自分の頭がおかしくなったような気がしてきた。
何やってるんだか、とふと空しくなった。のぞみは雑誌を棚に戻すと、お茶のペットボトルを買って店を出た。11月の夜の冷気は、少し吹き付けてくるだけでも体温を奪いそうだ。ホットのお茶にすればよかったと思いながら顔をあげて、のぞみは立ち止まる。モッズコートのポケットに両手を突っ込んで、男がビルから出てきた。左に揺れて戻るを繰り返す長身のシルエットは、壊れたメトロノームを思わせる。
「二階堂さん」
大声で呼んだつもりが、声がかすれていた。のぞみはペットボトルを握る手に力を込める。
「二階堂さん!」
ゆっくりと振り返った片腕の男は、のぞみの姿を認めて動きを止めた。建物の灯りが顔を照らしていても、二階堂の表情は読みとりにくい。だが、わずかに開いた目は、少なからず驚きの色を映していた。
のぞみは頬を上気させて、ずかずかと歩み寄った。
「あの、名前、二階堂弘樹っていうんですよね?」
バッグから雑誌を取り出す。
「これで見ました! 片腕の社長って、あなたですよね? 名前わかったから、教えてください。いったい何が目的なんですか? 結婚てなんなんですか?」
雑誌を両手で掴んで、まっすぐ突き出す。ややあって、二階堂が口を開いた。
「その雑誌、どこで?」
「昨日、電車で前に座ってた人が、読んでて」
「たまたま?」
「ええ、たまたまです」
二階堂の眉毛がぴくりと動く。怒らせたかも、とのぞみは緊張した。二階堂は腰をゆるく折って、右手を顎に添えた。唇の右端があがる。
「本当に、君の運の良さは相変わらずだ」
くく、という息が漏れて、のぞみは二階堂が笑ったことに気づく。しかしさっと表情をして、でも、と二階堂は言った。
「残念ながら不正解」
「え、だって名前」
「確かにそれは俺だけど、二階堂弘樹は本当の名前じゃない。正しく言えば、生まれたときは別の名前で、途中で二階堂弘樹に変わったんだ。だから本来の名前を当てないと、君の勝ちにはならない」
あっさりと言い放つ二階堂に、のぞみは目を剥いた。
「ずるい、聞いてません!」
「言ってないから」
「不公平です。そんなの無理です」
泡を吹きそうになるのをこらえて、のぞみは訴えた。だが二階堂は動じることなく、「そう。二千万円、いらない?」とニヒルな表情を浮かべた。のぞみはうぐぐ、と動けなくなる。
この人、めちゃくちゃ意地悪だ!
そんなのぞみを一瞥して、二階堂は「日曜までせいぜい頑張って」と歩き始めた。だが、のぞみとて素直に引き下がるつもりはない。小走りで二階堂の前に回り込み、不審そうに眉根を寄せる相手を見据える。
「ヒントください! ここまで来たんだから、そのくらいのボーナスはもらえるはずですよね」
そして、今度はしっかりと右手を掴んだ。
――とはいったものの。
いざコーヒーショップのカウンターに一緒に並んでいると、何を喋っていいのかわからない。二階堂も当然のように無言だ。席についたらどういう順番で何を訊くかを頭の中で整理していると、のぞみの順番が来た。
「あ、ホットのカフェラテのMサイズを……」
「ブレンドのMも。会計一緒で」
同時に小銭がちゃりんとレジに出される。
「いいです。私が出します!」
慌てるのぞみを手で制して会計を済ませると、二階堂はドリンクのトレイを取ってさっさと行ってしまう。追いかけたのぞみが代金を差し出すが、二階堂は受け取らない。
「誘ったの私なので、払います」
「金に困ってる奴におごられる筋合いはない」
のぞみはむっとして言い返した。
「お茶代くらいあります。そりゃ、あなたは社長でお金持ちかもしれないけど」
二階堂はブラックのままコーヒーを一口すすった。
「社長なんて、稼ぎは大したことない」
「え? だって」
「学生のときからFXをやってる。ポンド円が爆上げしたときに乗っかって大勝ちしたけど、最近は本業が忙しくてご無沙汰」
ファイナンス用語に疎いのぞみは、はぁ、と生返事した。
「でも社長なんて、すごいですよね」
「別に。社員7人だし、ITでこのくらいの規模の会社なら、そこらへんにある」
「でもアプリ、売れてるって」
アプリの名前を言おうとして、二階堂の左手に視線が向かう。雑誌のインタビューに書いてあった。アプリのアイデアは、モッズコートの下に隠れている、彼自身の失われた左手から生まれたものだと。
二階堂は視線に気づいたのか、左肩を少しあげてみせた。
「『KATATEMA』、ね。おかげさまで」
考えを見抜かれたようでギクッとし、はずみで聞かれてもいないのに「事故に遭ったんですよね」と口走ってしまった。
「雑誌で読んだだけなんですけど……」
「左半身をぐしゃっと。腕がもげて左脚の神経も切れた」
のぞみは目を見開くが、二階堂は平然とコーヒーを飲んでいる。こんなときは、なんと答えるのが正解なのだろう。
「い、痛かったですか」
「さあ。気づいたときは腕がなかったから」
「そりゃ不幸中の幸いってやつです……かね?」
一瞬、間が空く。言ってからさすがに怒られるかと身を固くしたが、二階堂は口元をゆるめた。
「そうかもしれない」
可笑しそうなその表情が意外なほどやわらかかったので、のぞみは驚いた。二階堂はカップを持ったまま、ふと目線を落とす。
「それに、腕を失くすほうがマシなこともあるし」
意味がよくわからなかったが、深追いするのも気が引ける。のぞみは一呼吸置いて、本題を切りだした。
「あの、今回のことって、いったい何なんですか? なんで私のこと知ってるんですか?」
「たとえば、小学生のときに商店街のくじ引きで温泉旅行を当てたこととか?」
「ええ!?」
なんでそれを、と驚くのぞみを尻目に、二階堂は続ける。
「去年のイタリア旅行で、飛行機がオーバーブッキングしたせいで、ローマ成田間をファーストクラスでフライトしたこととか」
のぞみはいよいよ言葉を失った。そんなプライベートなこと、見ず知らずの人間が知っているわけがない。のぞみのこめかみに一筋、冷や汗が流れる。
「フェイスブックの公開範囲には、気をつけたほうがいいってこと」
「あ」
イタリア旅行の話をフェイスブックに書いていたことを思い出した。二階堂の言うとおり、全公開モードにしているので、見ようと思えば誰でも見られる。思わず「なんだ……」と安堵の吐息が漏れたが、数秒経って、思いなおす。
「いや、でも温泉旅行のことまで知ってるのは、やっぱりおかしいですよね!」
少なくともこれはネット上には書いていないはずだ。のぞみ自身ですら忘れていたような昔の話を、何故二階堂は知っているのだろう。
「私、二階堂さんとどこかで会ってますか?」
質問に答えるかわりに、二階堂は瞼を伏せ、限りなく独り言に近い音でつぶやいた。
「不気味?」
のぞみは口をつぐんだ。二階堂の言葉は、挑発しているようでも、脅しているようでも、自嘲しているようでもあった。
この人はいったい何を考えているんだろう。のぞみはしばらく手元のカップを見つめた。カフェラテの無数の泡に、雑音を吸い取られていくような気分になる。
「意味わかんないし、変な状況だとは思ってますけど……」
正直なところ、この状況を受け止め始めている自分がいた。まったく見知らぬ存在だったはずなのに、この数日間ずっと二階堂のことばかり考えている。だからだろうか、不思議と怖くはなかった。普通に考えたらおかしいし、警戒すべきだとも思う。だがそれ以上に、好奇心が勝っていた。二階堂の本当の名前や、今回の意図。そして、彼自身のことについて。
のぞみは顔をあげた。
「でもあなたのこと、知りたいです」
もう、ただのいたずらとは思っていなかった。やっぱり私はこの人と、どこかで会っているはずだ。
二階堂はコーヒーを飲み干すと、おもむろに告げた。
「君の人生で最大の幸運。それが、ヒント」
「どういう意味ですか」
「これ以上は自力で探して」
立ち上がると、二階堂は片手で器用にカップとトレイを片付けた。のぞみも慌ててバッグを掴み、自分のカップを返却口に戻す。小走りで追いかけるが、彼はすでに自動ドアをくぐっている。二階堂は本当に、足が悪いと思えないほど歩くのがはやい。
「二階堂さ……ぎゃっ!」
焦るあまり、足元を見ていなかった。入り口の段差に足をとられ、のぞみは大きくよろけた。振り返った二階堂が咄嗟に腕を伸ばしたが、それをすり抜けてのぞみは横の植え込みに突っ込んだ。
あいたた、とのぞみの口からうめき声が漏れる。だが幸いなことに、植え込みのおかげでそれほどの衝撃はない。立ち上がりながら、照れ隠しに「すみません。でも地面にコケなくてよかったです」と二階堂に笑いかけた。
二階堂は自分の腕を見ていた。のぞみに差し出したはずの腕は、肘の先から袖が垂れ下がっていた。
視線に気づいた二階堂は、さっとモッズコートのポケットに腕を突っ込むと、のぞみに声をかける暇もあたえず早足で立ち去った。暗いのと俊敏なので、表情は読めない。だが一瞬だけ、左頬の傷が涙の跡のように見えた。
その横顔の残像が、のぞみの目から離れなかった。