第一話
「トム・ティット・トット」
あるところに、おっちょこちょいだけど明るい娘と、その母親が住んでいました。ある日、母親が糸紡ぎしながら、「娘がパイを1日に5つも食べてしまった」と歌っているところに、王様が通りかかりました。「もう一度聴かせてくれ」と言われた母親は、つい「娘が糸を1日に5かせも紡いだ」と嘘の歌を歌います。感心した王様は、娘をお妃にすることにしました。
王妃となった娘は11か月の間楽しく暮らしていましたが、12か月目に「今日から1か月、1日5かせの糸を紡ぐように。できなかったら首をはねることになる」と言われてしまいます。当然糸など紡げない娘は困ってしまいますが、子鬼が現れて、代わりに糸を紡いでくれることになりました。ただし「おれの名前を当てられなかったら、おれのお嫁さんになってもらう」という条件で。
娘はなんとか子鬼の名前を当てようとしますが、どうしてもわかりません。いよいよ明日で1か月となった夜、王様が娘に言いました。「今日、森に狩りに行ったら面白いものを見たよ。子鬼が糸車を回しながら、『おれの名前はトム・ティット・トット』と歌っていたんだ」
翌日、最後の糸を子鬼から受け取った娘は、「あなたの名前はトム・ティット・トット」と言い当てます。子鬼は「なぜわかった!」と叫び、あっという間に消えていきました。
めでたしめでたし
「はぁ……困った」
思わず独り言が出てしまうほどに、海老名のぞみは憂鬱だった。明日が月曜日だからではない。今月中にお金を用意しなければならないのに、まったくめどが立っていないからだ。
「二千万とか、どんな無理ゲーですかって」
夕暮れどきの冷風が、トレンチコートの裾をぺらぺらと弄んだ。ポンチョ型のシルエットを気に入って奮発して買ったコートだが、質にでも入れてしまおうか……。そう考えて、首を横に振る。高かったと言っても、安月給のOLにしてはの話であって、せいぜい古着屋に数千円で買い取られるのがオチだ。のぞみはため息をついて、公園のベンチに座った。
のぞみが父親の経営する工務店の負債について聞かされたのは、つい先日のことだ。不況だなんだと知ってはいたが、まさか実家が廃業の危機にあるとは思ってもいなかった。こないだ祖母の三回忌で帰省したときは、父も母もそんなそぶりはまったく見せなかったのに。
「なんでそんな大事なこと、今まで言わないの」
「お前に心配かけるのも悪いし、言ってどうこうなる話でもないし……」
電話越しでも、人の好い父親がうなだれている姿が見えた。
「家が差し押さえられるなんて、お父さんたちはいいわけ?」
「従業員のこともあるし、仕方ないんだよ」
「そりゃそうだけど、でも」
17年前に建てた実家は、工務店社長宅ということもあり、両親のこだわりが詰まった自慢の一軒家だった。可動式の本棚がある父親の書斎に、使い勝手のいい広いキッチン。庭には母親が丹精込めて育てた花壇がある。思い出の詰まった大事な家を手放すなんて、のぞみには想像できなかった。何か手立てはないのかと尋ねたら、今月中にお金が用意できれば、家の差し押さえは免れるという。その額、二千万円。
「まだ時間あるじゃん! 私、方法探すから!!」
そう啖呵を切ったものの、そんな大金、実際のところ調達できる見込みはない。貯金をかき集め、友人知人から借りられるだけ借りたとしても、二千万円にはとても届かない。のぞみはバッグの中から消費者金融のパンフレットを取り出して、横に置いた。どの会社も、不自然なほど爽やかでカラフルなデザインだ。そのなかの一枚を広げるが、「もっと!サービス向上委員会」というキャッチコピーを目にした途端、読む気が失せてしまった。
これはもう、ウシジマくんを召喚するしかないのでは……。
「あっ」
風が吹いて、パンフレットがベンチから飛ばされた。誰かに見られる前に回収しなくてはと、のぞみは慌ててしゃがみ込んだ。
そのときビュンと空気を切る音がして、ベンチに何かが飛び込んできた。四つん這いの姿勢のまま振り返ると、野球の硬式ボールが背もたれと座面のあいだに挟まっていた。ベンチが衝撃でぶるぶると小さく震えている。
「すみません!」
中学生くらいの男の子たちが駆け寄ってきて、ボールを回収する。「だからあぶねーって言ったじゃん」「当たらなくてよかったな」などと言いながら去って行った。
確かに、危ないところだった。反射神経の鈍さには定評があるので、あのままベンチに座っていたら脳天に直撃していたかもしれない。
「ラッキー」
なんとなく得をしたような気分になって口元がにやけたが、はっと我に返る。こんなことをしている場合ではない。前を向いたのぞみの視界に、ひょこひょこと規則的に動く黒い何かが映った。右脚が左脚を引きずって歩いているのだと気づいたとき、その影はのぞみの目の前で立ち止まった。そして、腕を伸ばしてパンフレットを拾った。
「相変わらず運がいいね」
自分に投げかけられた言葉だと思わず、反応が遅れたのぞみの顔面にパンフレットが突きつけられる。
「立ったら?」
「あ、はい」
のぞみは弾かれたように立ちあがり、タイツの膝頭についた土を振り払った。「すみません」とパンフレットを受け取り、ようやく相手の顔をまともに見た。
左頬を縦断するような大きな線状の傷跡に、まず視線が吸い寄せられた。まるで死神やドラキュラをデフォルメして描くときのような見事な線だった。その傷跡をたどるように、のぞみはゆっくり視線を上に動かす。180cmはあるだろうか、背の高い男の人だった。ウェーブのかかった長めの前髪が、表情を見えにくくさせている。おそらく、年齢は同じくらい。
――誰?
こんな印象的な容姿は、一度会ったら忘れないはずだ。しかし、のぞみに見覚えはなかった。男は無言のまま、のぞみを見つめ返している。相手を凝視していたことに気づき、のぞみは頭を下げ、そそくさとこの場を去ろうとした。
「海老名のぞみさん」
男の低い声に、のぞみの動きが止まる。
「二千万円、肩代わりしてもいい」
のぞみは振り返った。男は両手をモッズコートのポケットに入れて立っている。背が高いせいか、夕焼けが顔に影を落としているせいか、その頬の傷のせいか、なんともいえない迫力があった。
この人はいったい何なのか。そもそも、なんで私のことを知っているのだろう?
「あの、いや、お借りしても返せないんで」
異様な状況に戸惑いつつ、のぞみは一応まっとうな社会人らしく返答した。
「返済の必要はない」
「はぁ」
「ただし条件がある」
男は告げた。
「1週間後までに、俺の名前を当てること」
聞き間違いかと思い、のぞみは髪の毛を耳にかけ直す。
「ちょっと、よく意味が」
「できなかったら、結婚してもらう」
のぞみの口がぽかんと開いた。
「……結婚って、誰と誰が?」
「俺と、君」
しばらく沈黙が流れたのち、のぞみは「あの」と手を挙げる。
「二千万円と、あなたのお名前を当てることと、結婚することが、どう関係しているのかよくわからないんですけど……。ていうか、いったい何なんですか?」
「条件はもうひとつ。この話は、君の親には秘密にしておくこと」
男は右ポケットから封筒を取り出してのぞみに渡した。
「1週間後の同じ時間に、ここで。ひとまず100万円」
封を開けると、大勢の福沢諭吉と目が合ってぎょっとする。男はすでに、左脚を引きずりながら歩き始めていた。のぞみは慌てて追いかけた。
「待って、待って!」
左腕の肘のあたりを掴んだはずだった。だが、のぞみの手の中でモッズコートの袖がくしゃっと潰れた。驚くのぞみに、男は腕をあげ、ぷらぷらと振ってみせる。
「肘から下はない」
笑っているのかそうでないのかわからない程度に、男の唇の右端がほんの少しあがった。
「じゃあ、頑張って」
そう言い残すと、長身のシルエットは夕闇に紛れていった。
やっぱり、意味がわからない。
地下鉄の吊革を握りながら、のぞみは物思いにふけっていた。
公園での出来事から3日経っていたが、なんの手がかりも掴めないままだった。友達や同僚に男の特徴を伝えたり、大学の卒業アルバムをめくってみたりしたが、それらしい人はみつからない。100万円はドレッサーの二段目の引き出しの奥に収めてある。これを元手に株で二千万円に増やせないかとか、いっそ宝くじに費やすかなどとも考えたが、現実的ではない。
のぞみは笑った。この状況がそもそも現実的じゃないか。二千万円の代わりに、名前を当てるか結婚だなんて。
現在27歳、もう2年以上彼氏はいない。気になる人も特におらず、毎週のようにフェイスブックで同級生の結婚式写真に「いいね!」ボタンを押すばかりの日々だ。最近はそれに子どもの写真も加わってきた。もはや無意識で反応しているため、このあいだは「ベビ子が発熱! 旦那さんが早めに帰ってきてくれることになったけど、不安です><」という友人の投稿にも間違えて「いいね!」を押してしまった。
結婚願望がないわけではない。人並みに家庭を持ちたいし子どもも欲しいが、生来の性格なのか、どうものんびり構えてしまう。もし結婚相手がみつかったとしても、互いの実家への挨拶や結婚式や引っ越しなど、そんな大変なことが果たして自分にできるのかと思ってしまう。
のぞみにとって、結婚とはそんな漠然としたものだ。なのにまさか、こんな形で突きつけられることになるなんて。
改めて、左頬に傷のある男のことを考える。本当に、いったい何者なんだろう。彼がいきなり結婚を持ち出した理由は?
一目惚れ、という可能性は限りなく低いだろう。のぞみは十人並みの容姿だし、のぞみのことを前から知っているふうだった。戸籍が必要というパターンはどうだろうか。外国人が、日本に滞在するために戸籍目的で結婚する、というのはたまに聞く話だ。しかしそれなら二千万円も出さなくても済むだろうし、わざわざ名前を当てさせる意味もない。
介護は? と思いついたものの、のぞみはその考えを打ち消した。確かに左手はなかったが、動きは普通の人とほとんど変わらなかった。指がないといえばヤクザだけど、腕がないのは何が原因なのだろう。左脚と頬の傷を見るに、生まれつきではなく、事故か何かの後遺症だろうか。お金持ちなのはその事故の慰謝料とか? それとも……。
どう考えても、わからないことが多すぎる。やはり、いたずらと思うのが一番合理的な気がした。そうでなければ、あまりにも変だ。
ああ、二千万円どうしよう。だらだら悩んでいるあいだにも、時間は過ぎていくばかりだ。のぞみはがくりとうなだれた。すると、目の前に座っているサラリーマンが読んでいる雑誌の見出しが目に入った。
《新鋭ベンチャー社長に聞く⑧ 片腕から生まれた大ヒットアプリ》
1ページのインタビュー記事。そこに紹介されているのは、あの男ではないか。白黒ページだが、写真に写った左頬の傷は間違いない。しばし固まったまま、のぞみはさかさまの記事の文面を目で追う。
――大学在学中に同社を起業した二階堂弘樹社長は、27歳。携帯ゲームやアプリの開発を行ってきたが、今年リリースされたスマートホン専用アプリ「KATATEMA」が話題を呼び、現在までに30万ダウンロードを記録している。ヒットの要因は「片手ですべての操作を行える簡潔さ」。アイデアのきっかけは、二階堂氏自身が過去の事故で左腕を失い、片手で生活していることだった。
「すみません、ちょっと!」
のぞみは思わず、ページをめくろうとしたサラリーマンの手を押さえた。
地下鉄が駅に着くとすぐ地元の書店に駆け込み、教えてもらった雑誌名を探した。普段なら絶対に手にしないようなビジネス雑誌だ。息せき切って112ページを開く。“彼”はそこにいた。
二階堂弘樹。
にかいどうひろき。ニカイドウヒロキ。
声に出さずに何度もつぶやいてみる。舌の裏が汗をかくような感覚をおぼえた。
興奮しているのは、予想外にはやく答えに辿りついたからか、まさか雑誌に出るようなすごい人だったからか。そもそも、本当に実在する人だったことに驚いているのかもしれない。心臓がドクドクと脈打って、何度記事を読んでもちゃんと頭に入ってこない。
のぞみはじっと写真を見つめる。白黒写真だと、左頬の傷もさほど奇異に感じられず、むしろ最初からそこにあるべき線のように見えた。カメラから目線を外した、どこか憂いを帯びたような横顔を見つめたまま、のぞみはしばらく立ちつくしていた。