第二八話 荒れ狂う深緑 (前編)
「アナえもーん。そろそろマグス・ハート獲りに行こうぜ」
「誰が次元蝕にしか価値がないですってぇ?」
「……いやいや、そんなことはねぇよ」
「間! 間が空きましたよぅ!」
「冗談ですよ、ええ、ほんとうに」
ぷんすかと頬を膨らませながら、アナスタシアは怒ったそぶりを見せている。
腹立たしいというよりは、獅子や虎が見せるじゃれ合いの噛みつきに近い。すこし血が出る程度の。
しかし、俺から自発的にマグス・ハートを獲得しよう、という姿勢を見せたのは好感触らしい。
「んー、納得イカネェ。しかし、ようやく快三さんも実験体としての自覚で出てきたようですねぇ」
「モルモット扱いはされたくねぇよ。だが、そうも言ってられねぇと気づいただけだ」
「それは非常にイイコトなんですがねぇ……うーん」
どうも、色よい返事は期待できそうもなかった。
いきなり水竜と対決させた悪魔とは思えない悩みっぷりだ。
「持ってる奴の居場所がわからないとか?」
「いえ、居場所は特定できてるんですけどぉ……」
「けどぉ?」
「ぶっちゃけ、いま戦ったら九割がた死ぬ計算なんですよねぇ」
「マジで?」
「マジです」アナスタシアの顔におちゃらけたところはなかった。
「……えーと、俺、けっこう成長したと思うんだけど、そんなに差があるわけ?」
俺は腕を組んで、すこし落ち込んだ。
自分ではそれなりにやっているつもりでも、他人から見れば牛歩のごとき鈍足だった、ということはままある。
水魔法でブーストかけたつもりでも、それでようやく半人前ということもあり得る。
「こればっかりはどうしてもですねぇ。強さの質が違いすぎますからぁ」
「っていうと?」
「快三さんは、どちらかといえば対人魔法ばかり作ってますよねぇ?」
「そうだな。大勢に向かって使うものは、ほとんどない」
基本的に俺の魔法は、対アナスタシア用と言っていい。
それは、いずれ決着をつけなければならないという予感があるからだ。
それに大規模に影響を及ぼす魔法というのは、使うにしても怖すぎる。
だから、ちからを込めてはいなかった。
「ですが、あいては群体なのです。いくら快三さんが一騎当千の英雄だとしても、軍勢には勝てないでしょう」
「たしかに。当千どころか、お前たち四人にすらボッコボコにされたしな」
「そういうことです。一兵のちからが強くとも、それで戦争がひっくり返るわけじゃありません。大海と蛙、どちらが勝つかは、火を見るよりあきらかでしょう」
「なるほど。そりゃ九割方死ぬわ」
「はい。ってわけでぇ、いま獲りに行くのはオススメしなかったんですけどぉ」
「おう、止めた。ぜったい無理だわ」おとなしくアナスタシアの忠告にしたがった。
「おもしろそうなので、いきましょうかぁ」
アナスタシアは瞳がきらりと光った。なにか、ワルイコトを思いついたときの表情だ。
カラスが光り物を見つけたときのように、肉食動物が草食動物の群れを見つけたときのように、あたまが鋭く回転しているようだ。
「え、バカなの。おまえ、自分で否定したばっかじゃねぇか!」
「まあまあ。わたしも考え直しましてぇ。百聞は一見にしかず、どれだけの練習よりも、一回の実践というじゃないですかぁ」
「オイオイオイ、その一回で死ぬっっていう話をいましてたんでしょうが。待つよ、勝てるぐらい成長するまで待つっての!」
「そう言わずにぃ」
炉が赤々と燃える石炭でいっぱいの機関車よろしく、アナスタシアは止まろうとしない。
このままじゃ無残に殺される。そう確信した俺は、どうにかこの窮地を脱することはできないかと考えはじめる。
殊勝にも、マグス・ハートを獲りに行こうなどというのではなかった。
おとなしく、いつまでもぬるま湯に浸かってだらだら犬や猫たちと遊び、うさぎの手伝いをしていればよかった。
俺の灰色の脳細胞がピンク色に染まるほど鋭く熱く燃えたぎり、最適な解決法を導き出す。
すなわち、パワーだ。
「ボディ!」
「んぐぅっ!?」
いつかの借りを返すように、鋭いフックを放った。
まだ未成熟なふくらみが残る腹部へ、俺の右拳が埋めこまれる。
途中、アナスタシアは俺の行動を読み、魔法陣で防御を固めていた。
しかし――
「……ま、さか」
「やっててよかった〔魔女ころし〕」
その一、被覆弾の応用である。
魔法防御をすり抜ける支配を、右拳全体にかけたのだ。
アナスタシアの抵抗をゼロにする〔透徹打〕とは異なる防御無視攻撃である。
「お……ぼえて、お――」
「羊がいっぴき!」
〔睡眠〕の魔法を込めたデコピンを喰らわせると、ピンク色のアクマは膝から崩れ落ちた。
固い床板の上で、すやすやと安らかな寝息をたてている。そのままではなんなので、ソファに寝かせてやる。
一発キメたら数時間は眠らせつづける睡眠誘導剤のような魔法だ。生活魔法でも、こういう使いかたはある。
このあいだに逃げる用意をするべきだ。
まず、賞金稼ぎで稼いだ金を持った。人間形態でも邪魔にならない程度に抑えたが、それでも一年ぐらい遊んで暮らせるほどはある。
そして数日分の着替えをまとめてバッグに突っ込み、高飛びをする強盗犯のようにこそこそと一階へ降りた。
「でかけるにゃー?」猫は眠たそうな目でこちらを見上げていた。
「お、おう。ちょいと、ぶらり自分さがしの旅でもしてくらぁ」
「んー。いってらにゃーい」
そそくさとその場をあとにし、家を出た。昼になりきらぬ日の光がまぶしい。
澄んだ空気をたっぷりと吸った。決意は変わらず、アナスタシアに謝ろうという気持ちは起こらない。
庭先でうさぎと犬が会話していた。ふたりが振り向いた。
「おでかけですぴょん?」
「重装備だわん」
「ん、ああ。ちょっと、片眉をそり落として山にでも籠もろうと思って」
「おー、空手バカだわん」
「今夜はもどられないんですぴょん?」
「そうね。一週間はもどらないから、ご飯の準備はいいや」
「わかりました。いってらっしゃいぴょん」
「クマを倒したら、お土産によろしくわん」
「ああ。ついでにイノシシもつけるよ」
ふたりに手を振って別れた。誤魔化すのも、なかなか大変だ。
行き先はとくに決めていなかった。この街にきてから数週間は経っているからか、離れるのはすこし寂しくもあった。
昼の弁当も持たずに出たせいもあり、俺は弁当を買ってから行くことにした。
屋台が出ている広場までいくと、まだ昼にもなっていないが、いくらかは屋台も出てきていた。
ここで朝食を買っていく、食べていくという人も少なくないのだろう。そのなかから、弁当としてなにがいいかをえらんだ。
やっぱり、サンドウィッチのようなものがいいだろう。エーダと出会った思い出のあるサンドウィッチ屋台に近づいた。
「いらっしゃい。お、兄ちゃん、ひさしぶりだね」
「ちょいと遠出するんだけど、弁当になりそうなのある?」
「そうだねぇ、ホット・サンドなんてどうだろう」
「いいね。二人前ほど頼むよ」
「あい、まいどぉ」
屋台のオヤジがバターを塗った焼き型にパンを放り込み、具材を入れていく。
ふわりと溶けたバターの香りが漂い、朝飯を食べたはずの胃が刺激された。
屋台なんかやっていたら、ずっとこの匂いを嗅ぐことになるのだ。辛くはないだろうか。
もしかしたら、嗅ぎすぎてイヤになってしまう、ということもあるのかもしれない。
「いい匂いがする」
「うわっ……おまえか」
いきなり、背後からエーダがあらわれた。きっと香りにやられてきたのだろう。
くんくん、と鼻をぴくぴくさせて、この場までやってきたに違いない。エルフがそうなのか、エーダがそうなのかはわからないが、動物的習性が色濃く残っているようだ。
「あ、快三。ねえ、なにアレ」
「ホット・サンド。焼いたサンドウィッチだよ」
「食べたことない。はじめて見た!」
「そいつは気の毒に。できたては、糸を引くとろけたチーズ、弾力のあるハムの食感、バターとパンの香ばしさなんかがあって、それはもう、うまい」
俺の話を聞いて、エーダはつばを飲みこんだらしい。喉が大きく鳴った。
なぜこの街までやってきたかはわからないが、その優先事項が変動しようとしているのはわかる。
いま、彼女のあたまのなかはホット・サンド以外のことが押しのけられていると、表情でありありとわかった。
ポーカーなんかのカード・ゲームはしちゃいけないタイプだ。
「お、おじさん。こっちもホット・サンドちょうだいっ、いまつくってるのとおなじの!」
「あいよ」
「それ、先にそいつにやってくれ。俺はあとからつくったのでいいから」
「いいの?」
「ああ。急いでるわけじゃないからな」
「ありがと」
にこりと笑って、エーダはできたてのホット・サンドが入った包みを受け取った。湯気が立ちのぼるそれをふうふう言いながらかじりつき、声にもならぬ声を上げながら、夢中になって頬張っている。
それが小さな子どもを見ているようで、こころにあたたかいものがわき上がった。どうにも目を離せない、かわいいさかりの娘らしい。
そうしているうちに、あたまにピンときた。そう、エルフである。
「そういやエーダ、いまからそっちの森に行きたいんだけど、都合わるいかな?」
「はふはふ……ううん、あそびにきてくれるの?」
「遊びっていうか……まあ、ちょいと泊まりがけでな」
「あ、わかった。アナスタシアとケンカしたんだ」
「そんなとこだ」
「しょうがないな。ほとぼりが冷めたら、きちんと快三から謝らなきゃダメだよ」
「わかったよ。ありがとう、エーダ」
期せずして出会ったエーダ、これもなにかに招かれてのことかと思い、俺は森へ行くことにした。
考えてみれば、アナスタシアはエルフを嫌っている。実にちょうどよい。
俺にもなかなか機運があるのではないか。そう思った。
「じゃ、いこうか」
「ああ。なんか、土産でも買っていくか?」
「……ホット・サンドをもうちょっと」
「スープもつけるよ」
森へ出向くのは、もうちょっとしてからのことになった。