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キャラメル  作者: トウコ
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 その気にさえなれば、働き口はごくあっさりと決定した。

 家から徒歩十分のところにあるコンビニで、ちょうどバイトの募集をかけていたのだ。

 久しぶりに居酒屋ででも働くか、と思っていたのだが、時給と通勤距離とを秤にかけて、距離の方を選択した。出かけるのは夜、帰るのは朝、それなら行き帰りが楽な方がいい。そういうわけで、早速履歴書を作って面接に赴いたのだった。

 コンビニでは学生の頃ずっとバイトしていたからなじみが深い。出勤は今日からで、シフトは深夜である。

 まだ十月に入ったばかりだとは言え、夜ともなるとさすがに寒い。街灯の少ない道を歩き、左側にちらりと目をやると、昼爽やかな公園は今は不気味にそこにある。つい二ヶ月ほど前まで花火をする家族連れでにぎわっていたのが嘘のよう。

 ひゅうと吹く風が木の枝を揺らしてゆく。音だけで寒さが増すような気がして、胡桃沢はジャケットの前をかきあわせた。そのまま風をよけるようにうつむいて歩いていたが、前から誰か歩いてくる足音が聞こえてふと顔を上げた。

「胡桃沢さん」

 人影が、自分を呼んだ。道が暗いため、はっきり顔は見えないが、背格好と声で月臣だということがわかった。少し離れたところにいた彼は、足を速めてこちらへ近づいてきた。薄闇を抜け、しだいにその顔が明らかになる。

「こんな時間にどこ行くの?」

 問うた彼は、まるで年長者のような口ぶりである。だけど、それはこっちの方が聞きたい。もう十時近いと言うのに、中学生が一体どこで何をしていたのだろう。

「お前こそなにしてんだこんな時間まで」

 年上らしく訊ねると、月臣は何を言っているんだという感じの表情を浮かべた。

「塾だよ。受験生だもん」

 そうか、三年だったのか、と胡桃沢は思った。そして、ああ、と短くつぶやく。

 それにしても、最近の子どもはこんな時間まで塾で勉強するのか。おれの頃は…と考えさし、自分もたいして変わらなかったなとすぐに思い直した。昔のことだから忘れてしまっていただけだ。九時十時まで塾にいるのは、あの頃も当たり前だった。

「そっか。おつかれ」

 塾、勉強、受験。なつかしい響き。

 あの頃は、まだ自分の生き方になんの責任も感じていなかった。学生でいる間はそれが一生続くかのように錯覚しているけれど、しかし振り返ってみたらそれは人生のほんの一部にすぎないのだ。窮屈で不自由なようでいて実はひどく気楽だったのだと、社会に出たときに気がつく。そして、気づいたときには戻れなくなっている。

「胡桃沢さんは? どこ行くの?」

 月臣はひどく心配そうな顔をしている。小さい子どもが夜道をひとりで歩いているわけでもあるまいし、何をそんなに心配しているのだろう。

 わからないながらも、胡桃沢は自分がバイトに向かっている途中だったことを思い出し、さっと右手にはめている腕時計を見た。もうギリギリの時間である。

「バイトだよ」

 それを告げると、月臣は形のいい眉をふっと寄せた。何かをいぶかしく思っているような表情だけれど、どうしたのかと訊ねている暇はない。

「遅れるから行くわ。お前、気ィつけて帰れよ」

 早口に告げて、胡桃沢は駆け出した。初日から遅刻はしたくない。

 時計を気にしていたせいで、月臣の顔ははっきり見なかった。何か言いかけて口を開こうとしていたように見えたけれど、曖昧だ。どちらにせよ聞いているような時間はなかった。

 小走りに大通りに出てバス停の脇を通ったとき、ちょうどバスはそこに来ていて、客を降ろしているところだった。

 バス停を通り過ぎて五分も歩けばコンビニがある。

 さっさと通り抜けたいのだが、歩道が狭いためバスが行くのを待たないと通れない。降りた客が散るのをじりじりと待っていると、最後に子どもを負ぶった母親が不自由そうに降りてきた。子どもが熟睡しているために大変そうだ。しかも、もうひとりそれより少し大きい子の手を引いている。

(熟睡してる子どもって重たいんだよな)

 細身の母親に同情し、ふっと昔のことを思い出した。

 胡桃沢も、子どもを負ぶってこのバスを降りたことがある。約六年前、あれは確か大学に入って最初の夏休みのことだった。

 大家の家の兄妹は、あの頃ひどくひとなつっこく、会うたびに「くるみざわさん、くるみざわさん」と鬱陶しいくらいにまとわりついてきた。精神年齢が近そうだということもあったかもしれないが、もっと単純に、あのアパートに住む住人のうちで胡桃沢が一番若かったからというのが大きかったのだろう。

 上に兄と姉がひとりずついるだけの末っ子としては、年下の者に慕われると悪い気もせず、実家からの救援物資の中に菓子が入ってきたときなんかは、子どもらを部屋に呼んで一緒に食べたりしていた。思い返してみると、何が楽しかったのか、当時彼らは本当にしょっちゅう部屋にきていた。傍からは三人兄弟のように見えたことだろう。実際、大家である月臣らの母親にそんなふうに言われたことがある。

 その夏休み、大量のそうめんと共にチューペットが送られてきたため、胡桃沢はいつものように月臣と陽菜を家に呼んで凍らせたそれを分け与えた。

 兄妹は扇風機の近くに座り、同じ橙色のチューペットをがじがじと齧っていた。月臣は普段と変わらなかったが、陽菜の方はひどく退屈そうで、暑さのせいばかりでなく元気がないように見えた。六年前だから、月臣は九才で陽菜は八才だったのだろうか。小学校の四年とか三年とか、たぶんそんなところだろう。

 しょぼくれている陽菜にどうしたのかと聞いてみると、彼女は心底苛立ったようにつぶやいた。

「みんな遊びに行ってるのに、わたしたちまだどこにも行ってないんだもん」

 ごくありがちな理由だった。胡桃沢にも経験がある。子どもは一ヶ月もの長い休みをもらっても、大人はせいぜい一週間休める程度なのだ。職種によっては夏休みというものがない場合もある。どんなに長い休みがあっても、大人の都合によっては子どもは特に代わり映えのしない毎日を過ごさざるをえない。

 くわしくは知らないが、アパートを経営しているのは彼女らの母親の方で、父親は普通の会社員なのだそうだ。両親ともが忙しくしていて、それで遊びに行けなかったのだろう。母親がずっと家にいる家庭でも、家族で外に遊びに行くのはなかなかままならないものである。

「仕方ないだろ」

 かじりかけの橙色のチューペットを手に持ったまま、月臣は妹をたしなめた。思えば彼は、あの頃からもののわかった子どもだったのだ。

 ふくれている妹とあきらめている兄とを見ていると、なんとも言えずかわいそうな気持ちになった。ふてくされる陽菜の気持ちはよくわかるし、我慢している月臣はけなげに思えた。彼らを元気づけたくて、胡桃沢は「よし」と声を上げた。

「よし、それならおれがどっかにつれていってやろう」

 その場の勢いだ。深く考えもせず思いつきで言ったことだった。しかし、ふたりはパッと明るい顔になった。

「じゃあ水族館!」

 陽菜は即座にそう言った。春に生まれたイルカの子が見たかったのだそうだ。

 そういうわけで、彼女らの両親に了解を取り、胡桃沢のバイトがない日を選んで、三人揃って水族館に行った。思えば、あれが彼らとの最初で最後のおでかけだった。

 子どもをどこかへ連れて行くなんてもちろん初めてのことだったが、バスに乗っても電車に乗ってもふたりは比較的大人しくしていたから、さほど困った覚えはない。

 当時、今よりももっとよく似ていた兄妹は、色違いのスニーカーを履いていた。

 普段から彼らはおそろいのものを身につけていることが多く、親がそうさせるのだろうかと胡桃沢はずっと思っていたが、どうもそうではなかったらしい。

 自然と同じようなものを選んでしまうのだと、いつだったかどちらかが言っていた。考えてみれば、兄弟なんてそんなものなのかもしれない。自分にも、兄と同じものを欲しがった時期があった。

 水族館に入ると、ふたりは揃って弾かれたように駆け出した。走るな、とふたりに向けて胡桃沢が言ったのはそのときだけだった。

 入ってすぐのところにある大きな水槽の前に、ふたりは並んで立ち、さまざまな魚が行き交うのをじっと見ていた。兄妹は一対の生き物のようにいつも一緒にくっついていたから、はぐれる心配がなくて楽だった。胡桃沢も、ぶあついガラスごしに魚をぼんやりと眺めた。

 館内は涼しく、水の中は外側の喧騒が嘘のように穏やかだった。魚が身を翻すたびに、そのうろこが上からの光を受けてきらりとうつくしく光っていた。

「イルカを見に行こう!」

 兄と妹はそう言って胡桃沢の腕を両側から引っぱった。

 親だったら「順番に見て回ろう」と答えたかもしれないが、胡桃沢は子どものしたいようにさせた。別に彼らを尊重したわけではなく、単にそういう性格なのだ。細かいことをあまり気にしない。子どもに対して大人ぶった口をきくようなたちでもない。

 数々の水槽の前を素通りして入ったイルカ館のプールの前で、兄妹は楽しげにイルカを眺めていた。そのあと、彼らは同じ味のアイスを欲しがり、同じキーホルダーを土産に買っていた。笑う顔が本当に似ている、と胡桃沢は思った。

 めちゃくちゃな順路で水族館を回り、隣接している小さな遊園地でも遊び、家路についたのは夕方だった。帰りのバスの中で陽菜が眠ってしまったため、胡桃沢はバス停から家まで彼女を負ぶって帰ったのだった。

 すっかり眠り込んでいる陽菜の体は、見た目よりもずっと重たく感じられた。それをどしりと背負い、薄暗くなりつつある道を月臣と並んで歩いた。

「お前ら、仲いいなあ」

 その日のことを振り返って、胡桃沢は言った。

 そうしたら、月臣は笑った。女の子のようにも見えるきれいな顔で。

「おれには陽菜の考えてることがわかるし、陽菜にはおれ考えてることがよくわかるんだ。すごく不思議なんだけど」

 それを聞いて、そんなもんか、と胡桃沢はつぶやいた。

 めずらしい兄妹だ。こんなに仲のいいきょうだいを、胡桃沢は他に知らない。少なくとも自分の家はそんなふうではない。

 年が近いし、まだ小さいからだろう。

 そう考えた。実際、今の彼らは年頃になったせいか昔ほど仲がよさそうではない。同性のきょうだいならまだしも、男と女ならそっちの方が普通だろう。

 すぐに落ちそうになる陽菜の体をずりあげながらちらりと月臣に目をやると、視線に気づいたのか彼もふと上を向いた。今思えば、その顔はずいぶん低い位置にあった。目があうと、彼はにこっと子どもらしい笑い方で笑った。あどけない顔だ、と胡桃沢は思った。

 あれから六年経ち、月臣は大きくなったというのに、彼に対して抱く印象があの頃と少しも変わらない。

 子どもを見る大人の目というのは、往々にしてそんなものなのかもしれない。

 無邪気なままいてほしいと、無意識に願っているのだ。時間は誰の上にも平等に流れているというのに。


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