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遠く故郷の宮城から、進学のために東京に出てきたのが六年前。
学生というお気楽な立場にいたことがもうずいぶん前の話であるように思える。
大学を出てからの日々は、まるで手のひらからこぼれた砂のよう。
卒業後、一応は就職したものの、会社づとめがあまりにも性に合わなかったため、さっさと見切りをつけて半年も経たないうちに辞めてしまった。転職を繰り返しているうちに四年つきあった彼女に振られ、仕事は今もってさっぱり身につかない。
会社員とフリーターと無職の間を行き来して、今はふらふらとパチンコの日々。しかし、彼女に逃げられるような男に幸運の女神が微笑みかけてくれるわけもなく、ギャンブルすらも負け三昧。たった今有り金をすっかりスッてしまったところだ。情けない。明日からの生活どうしよう。まっすぐ生きねばならんと考えてはいるものの、月日はうつろに過ぎてゆく。
懐が寒い。しかし、家賃を払った後だったのはまだしも幸いだった。十月に入って、これからどんどん寒くなるのだ。こんな季節に寝る場所がないという状態だけはどうあっても避けたい。
学生時代からずっと住んでいるアパートは、築十年のワンルーム。
駅からは遠いが、バス停と商店街、あとはコンビニが近いため、さほど不便だと感じることはない。すぐ側には、小さいとはいえ緑あふれる公園まである。昼間なんかは爽やかで気持ちがいい。
その公園のベンチにふんぞり返り、胡桃沢貴澄は首をそらせて遠く赤い空を見上げている。時間のせいか、救いがたい現状のせいか、今の気持ちは爽やかさからは程遠い。
夕方の公園ほど物悲しいものはない。どこかからカラスの鳴く声なんか聞こえてきて、胸にじわりとさみしさをにじませる。
日が落ちて気温が下がり、夕餉の時間が迫ってきている。しかし狭い公園を駆け回る子どもたちはまだまだ元気いっぱいだ。彼らがはしゃいで飛びつく遊具にまで、夜の手前の橙色が侵食しているというのに。
ゴーグルみたいなサングラス越しの目には、ここにある何もかもが陰鬱なものに映る。いや、陰鬱なのはサングラスのせいではなく、自分の心のせいだろうか。
木でできたベンチの背は首にやさしくない。
「無職の上にパチンコ三昧って、ひととして終わってるよね」
すぐ隣から聞こえるのは、若い女の子の冷淡な声。言葉は辛らつ。そしてそれと共にぽりぽりと響くのは菓子を齧る軽やかな音。
横を向くまでもない。誰なのかはわかっている。さっき、無言の内に彼女がとなりに腰掛けたとき、セーラー服の裾が目の端にちらっと映った。
村瀬陽菜、アパートの側の一軒家に住む、大家の娘である。大家の家には年子の兄妹がいて、胡桃沢はここに越してきたときからなぜだかその二人によくまとわりつかれていたのだった。子どもなりに、この男は自分たちと精神的な年齢がそう変わらない、と判断したのかもしれない。
自分が学生でなくなったとたん、よその子どもの学年もいちいち数えなくなってしまったけれど、とりあえずまだ中学生の小娘だ。兄の方もまだ中学生だから、彼女は二年か一年だろう。小学生の頃はよくなついていたし、自分の妹のように思ってかわいがっていたのに、今は語彙が増えたためかずいぶんと生意気になって扱いづらい。
最近の彼女は、胡桃沢がここでぼんやりしているとどこからともなく現れ、辛らつな言葉を残して去ってゆく。ひとの不幸や虚無をかぎつける古の妖怪のように。
「この世にはなあ、パチンコで立派に食ってるひとだっているんだぞ」
「立派って言わないわよ。あんなのズルでしょ。商売なんだから、最終的にはパチンコ屋が儲かるようにできてるに決まってるじゃない。馬鹿みたい」
きついことを言われるとわかっていたのに、それでもへこむ。ちらりと横目で見やった少女の目は澄んでいる。それゆえより言葉が胸に突き刺さるのか。
自分が馬鹿でどうしようもない男なのだということは、小娘に言われるまでもなく承知している。一言も言い返せないのが辛いところだ。
ああもうやんなっちゃったな。
胡桃沢がほろりとサングラスの奥の目を濡らしかけたとき、目の前にぬっと濃い影が落ちた。
反らしていた首を戻して見ると、いつの間に現れたのかすぐ前にひょろりと背の高い少年が立っている。細く長い手足、白い頬に整った目鼻立ち。黒い学ランに身を包んでいる彼は、隣で菓子を齧っている陽菜の兄、月臣である。
この兄妹は、双子でもないのにそうじゃないかと錯覚するくらい顔がよく似ている。はっきりと違うのは髪質くらいだ。妹が真っ直ぐ硬そうな黒髪であるのに対し、兄の方は同じ黒でもやわらかそうな猫っ毛。妹が兄のその髪の毛をひそかに羨ましがっているのを、胡桃沢は知っている。
「陽菜、あんまり胡桃沢さんをいたぶるなよ。かわいそうだろ」
月臣はきれいな顔でやさしげに微笑んでいるが、その言葉はやさしいのだかなんだか微妙なところだ。中学生にいたぶられていたのかと思ったら、やたらと虚しい気分になった。
「本当のこと言ってるだけよ」
陽菜はあっさりと言い、兄と目を合わさずに黒い革の鞄を持って立ち上がった。紺色のスカートがひらりと揺れる。そして彼女は、後ろも振り返らずにさっさと家の方へ歩いていった。しゃんと伸びたその背を見送りながら、胡桃沢は深いため息をもらした。
「あの妹をどうにかしてくれ」
再びだらんと椅子の背に首を預け、空を仰ぐ。目を瞑る気力もない。
「胡桃沢さん、パチンコで負けたの?」
いなくなった妹の代わりにとなりに腰掛け、月臣は少し首を傾げながら問うた。
「あれもなかなかうまくいかないもんでな……」
胡桃沢はもそもそと口の中でつぶやき、ジーンズのポケットにねじ込んでいるタバコに手を伸ばした。角の潰れている箱の中にはもう数本しか残っていない。その中から一本取り出し、口にくわえる。
煙草に火をつけ、煙をフッと吐き出してから傍らの月臣に目を向けた。
夕方の公園のベンチに腰掛け、こちらを見ている月臣の目もまた妹と同じく澄んでいる。悪いことなんてひとつも知りませんと言っているかのよう。汚れきっている身としては、見つめられると居心地が悪い。
「大丈夫なの?」
彼の白い頬に、橙色の光が落ちている。さあっと少し冷たい風が吹いて、煙草の煙が横に流れる。そしてその風は月臣の髪も揺らしてゆく。
「大丈夫ではねえなあ」
胡桃沢はけだるく答えた。これからのことを考えると改めて気が重い。
とりあえず電気が止められる前に職を探さなければならない。次は何をしよう。
できれば割のいいバイトがいい。時間帯なら昼よりは夜。だけど外での肉体労働はご免こうむりたい。警備はパス。飲食業の方が望ましい。まかないが自動的についてくる。好みで言えば、ファーストフードよりファミレス。ファミレスより居酒屋。あれはあれで大変だなのだが、寒い中外に立つ事よりは自分に向いている。
大学時代もバイトに明け暮れ、おまけに二年近くふらふらしているだけあって、胡桃沢には様々なバイトの経験がある。しかし、いまだに楽をして稼ぐ方法というものは見当たらない。ひとつだけあるのを知っているが、それにはまだ手を出していない。
一番楽で割がいいのは、なんといっても自分を売ることである。時間を割かれず一度で多額の収入が得られる。女子高生がオッサンとちょっと遊んでやるだけで、びっくりするような額の小遣いがもらえるという世の中だ。そしてそれは男の場合でもそう変わりないらしい。
一度、知り合いからそういった話を持ちかけられたことがあるにはある。が、そのときはとりあえず断った。どこがよくて声をかけてきたのか、お前なら大丈夫だとしつこく誘われて少々揺らぎ、その破格のバイト料に目がくらんだ覚えがある。何が大丈夫なのかは、今もってよくわからないのだけれど。
おいしいとは思ったが、やれと言われてできるものでもないし、さすがにそれは最終手段だろう。ずいぶんとうも立ったから、もう「大丈夫」ではないかもしれないし。やっぱりまずは堅実なバイトを探した方が確実だ。
「バイト探すの?」
「そうだな、身売りするわけにもいかねーし」
「身売りって?」
月臣は不思議そうに問い返し、小首を傾げた。きょとんとした表情が浮かんでいる。どうも、子ども相手に余計なことを言ってしまったようだ。胡桃沢は首を起こし、顔の前でぱたぱたと手を振った。
「なんでもナイナイ」
子どもには関係のないことだ、とつけ足したら彼は小さくため息をついた。機嫌を損ねたというふうではなく。どちらかと言うと、何か困ったひとでも見るような顔をしている。どこか子どもらしくない表情。よくわからない反応である。
月臣は、近頃よくそういう表情を浮かべる。子どものときはわかりやすかったのに、今は考えが読み取れないことの方が多い。
彼にしろ彼の妹にしろ、思春期を迎えるとそういうふうになるものなのだろうか。ついこの間ランドセルを背負ったままくっついてきていたと思っていたのに、気がつけば背丈もずいぶん伸びている。最近の子どもは発育がいい。
雨の日にはまとまらないのだという月臣のくせの強い髪が、ふわふわとやわらかそうになびいている。彼の向こうにある景色は薄暗く、遊んでいた子どもたちはいつの間にかひとりも残っていない。
胡桃沢はいつの間にかずいぶんと短くなっていた煙草を強く吸い、煙を吐き出してから傍らの灰皿に押しつけた。
「そっちはどうなんだ? 彼女できたか?」
わざと明るく訊ねると、月臣は目をぱちぱちしばたたかせ、それからにっこりと微笑んだ。はにかんだというわけではなく、ただ穏やかに。
「胡桃沢さんには教えない」
彼の答えは短く、笑い方は妙に意味深に見える。
「なんだよ、教えろよ」
なんだ色気づいてきやがったか、と胡桃沢は椅子から背を離して月臣の顔を覗き込んだ。しかし彼は恥ずかしそうにするでもなく、ごく普通の態度である。
やはり読み取れないのだが、何もないということはないのだな、ということだけはわかった。なんだかそら恐ろしい反応だ。
「陽菜には同じこと訊かない方がいいよ。きっと嫌な顔するから」
問いかけには答えず、月臣は妹の名前を出した。話をそらすつもりでいるのだろう。
陽菜に同じことを問うたらどうなるか、簡単に思い浮かべることができたから、胡桃沢は乾いた笑いを漏らした。
そんなことを訊ねたが最後、おそらく彼女は汚物でも見るような眼差しをこちらに向けるのに違いない。あの年頃の女の子がみんなそうなのか、それともあの子が特別なのか知らないけれど、彼女はとても潔癖だ。
「お金、貸してあげようか?」
不意に降ってきたのは心配そうな声。
思いも寄らない言葉に、ずるっと椅子から滑り落ちそうになってしまった。中学生からまさかそんなことを言われるとは思わなかった。
「あほ、中学生の小遣いをせびり取るほど落ちぶれてねえよ」
ふにゃふにゃと体から力が抜け、サングラスの下の目が半目になってしまっている。
子どもから心配されることで、自分の駄目さ加減が身に染みた。さっき陽菜から言われたことよりも効いたかもしれない。
「気にしなくていいよ。元は小遣いだけど、自分で増やしたお金だから」
胡桃沢はぱっと目を戻してずり落ちた体を元に戻した。
「増やした?」
「うん、株で」
「株!?」
ネットでちょっとね、と月臣が言ったのに、胡桃沢はぽかんと口を開けた。
最近の中学生はどうなっているんだ。こいつおれより金持ってんじゃねえのか。
色んなことが次々と頭に浮かぶ。驚いて、呆れて、最後にはやはり自分が食いつぶす一方の駄目人間であることを強く感じた。
一瞬だけ、借りようかなというろくでもない考えがよぎったことはよぎったが、理性でどうにか踏みとどまった。それをやったらもうおしまいだ。中学生に金を融通してもらうくらいなら、体で稼ぐほうがまだ潔いと言えるだろう。働けない事情があるというわけでもあるまいし。
「気持ちはありがたいけど、遠慮しとくわ」
そう言ったら、月臣は「そう?」と小首を傾げた。
「ほんとにピンチになったときはよろしく」
胡桃沢は眉を下げて笑った。月臣の顔にはやわらかな表情が浮かんでいる。
最初に彼と出会ったとき、自分はまだ十九になっておらず、彼はたぶん十才になっていなかったのではないだろうか。背が低くて華奢で、女の子のように見えた。
妹と一緒に母親の体の影ではにかんでいた子が、株をやるほど大きくなったのか。そう考えると感慨深い。
自分はもうこれから老いるばかりだが、彼はまだまだ育つのだ。少し不思議で、なにかさみしい。年を取るってこういうことか。
「胡桃沢さん、それ」
声にハッとして振り向くと、月臣はサングラスを指差していた。
「ない方がいいと思うよ」
そう言われて、胡桃沢は首を傾げた。
「そうか?」
割と評判いいんだけど、とひとりごちながら外したら、月臣はにこっと笑った。
「うん、やっぱりそっちの方がかわいい」
どうもからかっているらしい。胡桃沢はいかにもすべらかそうな彼の額を手のひらでぐいっと押した。
「バカ。お前、年上の男相手に何言ってんだ」
やわらかい髪をそのままぐしゃぐしゃと掻き乱す。そうされておかしそうに笑っていた月臣だったが、ふっと真顔に戻って上目遣いにこちらを見た。胡桃沢がぴたりと手を止めると、彼は目元をやさしげにゆるめた。
「胡桃沢さんがどんなにへっぽこでも、おれは一緒にいてあげるからね」
思いもよらなかったその言葉に、胡桃沢は目を見開いた。びっくりしすぎて瞬きも忘れている。
しばらく何もできずにただ月臣を見つめていたけれど、やがて胡桃沢の頬はふっとゆるんだ。少し笑い、それからまた彼の髪をくしゃくしゃと荒っぽく掻き回す。
生意気な、と思う。だけど同時にかわいいとも思った。
体は大きくなったけれど、中身の、根っこのところは変わっていないらしい。ランドセルを背負っていた頃とおんなじだ。
するりと髪から手を離し、やっぱ真面目に働こう、と改めて決意を固める。彼の言葉のおかげで、ひどくまっとうな気持ちになった。
気がつけば、周囲はかなり暗くなっている。近頃はずいぶんと夕方の時間が短くなった。
「そろそろ帰るか、母さん心配するぞ」
のそ、と立ち上がり、胡桃沢はぐっと大きく腕を伸ばす。同じく月臣も立ち上がり、彼の背が前に会ったときよりも自分に近づきつつあることを知った。まるで竹の子だ。
驚きを隠しきれず、成長期というのはおそろしいものだと胡桃沢は胸のうちでつぶやいた。