ある魔女の生活 The Phenomenon of the Witch
剣 の切っ先には雪が積もり鈍く輝いていた。峨峨たる稜線は白波の立つ深い空に突き立てられるようだ。
つい昨日まで一面にシラスズリの薄紫の花が咲いていたはずだが、今はどうだ。どの草も枯れ果て土や岩が剥き出しになっている。
たった一晩のうちに季節が二三過ぎているなんてことがあるだろうか。仮に一晩の出来事でないのなら、自分の性質を鑑みるに決してない。とは、言い切れない。
近頃は最終局面に突入した実験のため、連日徹夜とうたたねの日々。昼夜の判別さえつかない有様だった。そんな状態が一体どれだけ続いていたのかさえ分からないのだ。数か月も経っていたなんて思いもしなかった。
山から突風が吹き下りて私のフードを持ち上げた。かじかむ手で押さえ、濃紺のローブの首元をぎゅっと掴む。他人の物のようにそ知らぬふりをする足を強引に持ち上げ、先を急ぐ。
枯草に交じる灌木は棘のあるギザギザの葉を茂らせていた。ナントの実は赤々と密集してなっている。小指の先程の小さな実をむしり、袋に入れた。毎年トルムの実と間違えて食べてしまうおっちょこちょいが現れる。死ぬことはないが、数時間舌が痺れ味覚が無くなる。食用としては全くの役立たずだが、熱してすり潰すことで痛み止めの軟膏になる。
二時間ほどのフィールドワークで鞄の中は草やら石やら虫やらで一杯になった。
家に戻ったのは太陽がちょうどてっぺんに差し掛かった頃だった。扉の前に人がいた。私の存在に気がつき、フードを下ろす。琥珀色の美しい髪が冷えた風になびく。見知らぬ女だった。
「おかえりなさい、魔女様」
女は濃い茶色のローブの裾を軽く持ち上げ頭を下げた。
「待ったか? 外は寒い。とりあえず入るといい」
ドアを肩で押し開け中へと入った。
鞄を机の横へ落っことし、暖炉へ火を入れる。小さな種火は瞬く間に藁を燃やし、ゆっくりと小枝の肌を赤熱させる。やがて薪へと燃え移った。炎が安定したところで湯釜を乗せた。女は机に頬杖をつき、ただ私を見ていた。
自前の茶葉をひとつまみ無骨な無地の茶碗に入れ、湯を注ぐ。湯気の立つ二つの茶碗を机に置くと、木の丸椅子に腰を下ろした。
「さて、何用でこんなところまで?」
「祖父母の腰の薬を貰いに来ました」
何が楽しいのか女は相も変わらず私をじっと見たまま言った。
「君の村はあれだな、もっと体をいたわるべきだ」
「腰を使わず田畑をやれるならそうします」
女は不服そうに頬を膨らませた。見た目よりずっと子供なのかもしれなかった。
湯気の向こうの女の顔にはそばかすがあった。そばかすは女を醜くするどころか、かえってその吊り上がった勝気な目や小ぶりで筋の通った鼻を際立たせた。髪と同じ琥珀の瞳をのぞく。
「君の村に君によく似たチビがいるだろ。あれは元気にしているか? そろそろお菓子のついでに薬をねだりに来る頃だと思うが」
霜が降りた朝のような微笑を浮かべながら、
「いますよ。相変わらず元気にやってます。あなたにもらった鮮やかな赤いリボンをみんなに見せびらかして困ります」
「あれはそんなたいそうな物ではないんだが」
「彼女にとっては宝物ですから」女は小さく言う。
机の上には見慣れぬ小袋が置かれていた。その視線に女が、
「そうでした。先日頼まれていた物が見つかったから持って来たんでした」
私には覚えが無かった。袋の端を摘まみ中を見た。黄土色の丸い塊が入っていた。今朝手持ちが無い事に気が付いた牛の胆石だった。
「助かる。最後にこれが必要だったんだ」
「また籠るつもりですか?」
「いや、今度はすぐだ」
「分かりました」
言うなり女は立ち上がった。
「魔女様。髪を梳かしましょう」
私の後ろに回り込むと、有無も待たずにポケットから取り出した櫛でもって髪をすく。
「もっとちゃんとしないと勿体ないですよ。こんなに綺麗なのに」
「研究の邪魔だからちょうど短くしてしまおうかと思っていたんだ」
「だめです!」
急に大声を出した女は言葉を継いだ。
「面倒ならこうしてたまに梳かしに来ますから」
「私は今すこぶる機嫌が良い。もうしばらくはこの髪も生かしておいてやるか」
「不老不死の妙薬が完成したんですか?」
飛び跳ねるように振り向いた。女はにかっと笑った。
「チビか! あのおしゃべりめっ!」
「安心してください。聞いたのは一人だけですから」
私は座りなおした。茶を口に運ぶ。口の中が騒がしかった。
「広めないで欲しいものだね。どんな厄介事が舞い込むとも知れない」
「分かっています」と、女は笑った。
櫛を動かす手が止まった。風が立て付けの悪い扉をカタカタ揺らした。
「結婚することにしたんです」
そう言って女は再び髪を触った。
「めでたいじゃないか。何か贈れる物があればいいんだが、生憎ここにはそんな気の利いたものは無い」
「では少しだけいいですか」
女はやはり許可を待たず私の体に腕を回し抱きしめた。
両腕がわずかに震えていた。まだ望まぬ婚姻をする者は多い。女もそうなのだろうか。私は茶をすすった。
「失礼しました。もう帰ります」
勢いよく飛び退いた女が言う。
「今日は月の無い夜。きっと魔女様の髪のような夜空になりますよ」
ローブを掴むとそのまま走っていった。薬も持たずに。せっかちというか考え無しというか。必要になればまた来るだろう。茶の残りを一気に飲み干した。
屹立する三本の剣を見上げた。頂が蜃気楼の如く揺らぐ。淡色の空がどこまでも伸びていた。
つい昨日まではエスロープが春の渡りに向け、新雪に溶ける銀の長い尾をひるがえし群れをなして飛んでいたはずだが、今はどうだ。
のしかかるような低い空には鳥の一羽も飛んでいない。見渡せばぽつりぽつり生えている木の陰で呑気に涼んでいる。地面の青草が伸び放題で、歩くたびに私の足をくすぐった。
日光は野放図に辺りを照らす。首元に刺繍の入った白いリネンの服は汗で体に張り付いた。腸に詰められる挽肉の気持ちになった。
両手を額の上で組み、ひさしを作る。視線の先で何かが光った。目を凝らす。陽炎が草をかき分けて動いていた。鞄からハンカチを取り出し鼻と口を覆うように縛り付けた。腰を落としゆっくりと陽炎の後ろへ回る。
一気に飛びつく。暴れる陽炎。古い油の臭いが鼻を突く。転瞬、大きなうねりは消え失せた。陽炎はあっという間に青草へと消えた。抱きかかえた尾は今もまだ野を駆ける。
指の先から肘まであるタイダモドキの尾。鱗の一枚一枚が鏡のように周囲の景色を写し取る。無数の私が私を覗き込んだ。
擬態のせいで見つかるとは間抜けな奴だ。
臭いはひどいが使い道には富んでいた。加工してアクセサリーに使うことも、すり潰した粉末は強壮薬の材料にもなる。なにより尾の肉は旨い。それだけで土に塗れた価値があった。
いつもより少し早いが尾を持ったままでは採取を続けることは出来ない。踵を返した。
家に戻ったのはまだ影が長い時間だった。扉の前に人がいた。私の存在に気がつき、麦わら帽子を取った。白髪の混じった琥珀色の髪は結われ、まとめられていた。見知らぬ老女だった。
「おかえりなさい、魔女様」
老女は深い緑のワンピースの裾を軽く持ち上げ頭を下げた。
「待ったか? 外は暑い。とりあえず入るといい」
ドアを肩で押し開け中へと入った。
「すまないが少し待っていてくれ。こいつをどうにかしないことには落ちつけもしない」
洗濯用の大きな桶に水を張る。小さな陶器の壺をひっくり返し塩を全て入れた。手でかき回すと先程の捕り物でついた切り傷がしみた。水の底に溶け切らなかった白い粒が残る。ちょうどいい具合だ。タイダモドキの尾を沈め、服を脱ぎ、それも一緒に沈めた。
老女は机に頬杖を突き、「あらあら」と、笑みを浮かべた。
裸のまま奥の寝所へ行き、落ちていた紺色のワンピースを被った。
水瓶に木のコップを二つ潜らせ机に置いた。一口飲んでようやく一息つけた。
暖炉のレンガ。逆さに吊るされたシラスズリ。寝所の鉄輪は黒褐色。机の上にはパンとコイン。老女の瞳は琥珀色。
「君の村に君によく似たチビがいるだろ。あれは元気にしているか? そろそろお菓子のついでに薬をねだりに来る頃だと思うが」
丸く切り抜かれた窓から差し込む光に老女は目を細めた。
「ええ。彼女は幸せそうにやっていますよ。また来ることもあるでしょう。その時は良くしてやってください」
「覚えておくよ。それで君はこんな暑い日にわざわざこんな所まで何用だ?」
「腰の薬を頂きに来たのです」
慣れた口つきで一言一句はっきりとその言葉を告げた。余程腰が痛むのだろう。
「それにしてもあれだな。君の村はもっと体をいたわるべきだ」
「皆あなたに構ってもらうために酷使していますからね」
老女は幼い顔をして笑った。
「面倒を見る私の事を考えて欲しいものだね。私が死んだらどうするつもりなのか」
腕を組み二つの眉を近づけた。
「あなたなら問題ないでしょう?」
口元で微笑みながら、瞳は真っすぐ私をとらえた。琥珀の中に私がいた。
私は視線をそらした。年寄りの相手は苦手だ。こちらを見透かしたような穏やかさで話す。そのくせ目には子供の無邪気さがある。
「君はずいぶんと元気そうじゃないか。薬なんていらないのでは」
老女はほんの少し思案して、
「今日は……。そうね。すこぶる調子がいいの。ざっと一二年振りのことよ?」
祈るみたいに体の前で両手を握った。
「大げさな事を言う。ここ数年ずっと不調だったとでもいうのか」
左手を机に突き立て、手のひらに頬を乗せた。目を細め、片笑む。
「年を取るとね、毎日どこかしらが悪いものなのです。そうして時々思い出したように調子のいい日がくるの」
「私もいずれは君のようになるかな?」
束の間目を見開き、そのままカラカラと笑う老女。私は水を一口含んだ。
「ごめんなさいね。馬鹿にしたわけではないのよ? そうだ。髪を梳かしてあげましょう」
制止も聞かず老女は立ち上がった。どこから取り出したのか手には櫛が握られていた。木で出来たそれは両歯の質素な物だった。
どこにそんな力を隠していたのか老女は私の肩を押さえながら、膝を背中に当てると両手を引いた。胸が開かれ背骨が伸びる。
「背を丸めたままでいると本当に体を痛めてしまいますよ」
「安心したまえ。抵抗はする予定だよ、私は」
雪の上をソリが滑る音がした。炎熱のことなど忘れてしまいそうになる。静かで清らかな空気に微かな汗と古書の香りが混じる。まなうらに銀世界。
「静かな冬の夜ね」
考えを読まれたのかと思い体が跳ねた。
「いつ見ても美しいです」
「そうかい? 鬱陶しくて仕方ないよ」
ふふっと老女の声が聞こえる。
初めは小石につまずいていたソリだが、何度も何度も滑っているうちにすっかり上達したようで軽快な音をさせていた。
櫛を動かす手が止まった。
木の枝に皮を張り付けただけの細く固い指が頬を撫でた。
「あなたは本当に美しい。昔からずっと」
指はあごを伝い、首を通る。木が根を張るように老女の腕が私を包んだ。
年寄りは苦手だ。所作の一つ一つから死の香りがする。
夜空を星が流れた。何度も何度も何度も何度も星は流れる。
ただの暗闇があんなに美しく見えるのは星々が彩るからなのだと知った。
老女は戸口に立つ。外はやはり暑かった。
「これは魔女様が使ってください」
麦わら帽子が私の頭に乗った。
「君が帰るのだから君が使わなければ意味がないだろ」
「いいえ。もう差し上げましたから」
私は帽子の位置をなおす。
「そうかい」
扉にもたれかかりながら、老女が見えなくなるまで立っていた。
背筋の伸びた美しい歩様だった。本当に腰が痛いのか、と思った。部屋へ入ると机の上に小瓶が置いてある。薬である。全くそそっかしい奴だ。
そびえる山の頂にはまだ雪が残っていた。エスロープは群れを作り、銀光放ちながら清澄な空を舞う。
シラスズリの柔らかな紫が青白い山景を背に咲き誇っている。
私はこの季節が好きだ。
シラスズリを数本摘み、鞄へ入れた。乾燥させたシラスズリはより鮮やかな紫になる。水分の抜けた花葉は袋に詰めておくことで害虫除けとして使える。
大きく息を吸い込んだ。肺を冷気が満たす。視界がはっきりし、頭の中が透明になった。
山風が麦わら帽子を持ち上げた。黄金色の帽子が景色の中を泳ぐ。不思議と笑みがこぼれた。
二時間程のフィールドワークで鞄の中は草やら石やら虫やらで一杯になった。
家に戻ると扉の前に人がいた。小さな影だった。私の存在に気がつき、頭をこてんと下げた。琥珀色のしなやかな髪が垂れた。
「久しいじゃないか」
少女は体をくねらせた。髪をまとめるリボンが褪せて桃色になっていた。
どれだけ雑に扱えばそうすぐボロに出来るのかと考えた。
「薬だろ。菓子でも食べて待っていな」
少女は笑顔で家へ飛び込んだ。




