その「円満な婚約解消」に、私は出席しておりません
その夜、王宮の白薔薇の間には、春の慈善晩餐会にふさわしい花が飾られていた。
淡い桃色の薔薇と純白の百合。金糸のリボンで束ねられた花々は、壇上に立つ若い男女を祝福するために用意されたもののようにも見える。
中央にいるのは、カシアン王太子。
その隣に立っているのは、長年の婚約者であるアウレリア・ファルケン侯爵令嬢ではない。
白いドレスをまとったネリネ・オルセー男爵令嬢だった。
国王夫妻は外交使節を迎えるため別宮に滞在している。今夜の晩餐会を任されていたカシアンは、集まった貴族や王宮関係者を見渡し、穏やかに口を開いた。
「皆に報告したいことがある」
ざわめきが収まる。
「私、カシアン・レーヴェンと、ファルケン侯爵令嬢アウレリアは、互いの将来について考えた結果、婚約を解消することとなった」
驚きが広間を走った。
アウレリアは十一歳で王太子の婚約者となり、八年にわたって王太子妃教育を受けてきた。王妃の代理として公務へ出ることもあり、彼女がいずれカシアンの妃になることを疑う者はほとんどいなかった。
その婚約が終わる。
しかも、カシアンの隣には別の令嬢がいる。
招待客たちが顔を見合わせる中、カシアンはあらかじめ用意していたように微笑んだ。
「不和や争いによるものではない。アウレリアも私も、それぞれにふさわしい道を選ぶことが最善であると考えた。両家も、私たちの意思を尊重してくれている」
壇上の脇に控えていた王太子付きの侍従長が、一枚の声明書を開く。
「アウレリア・ファルケン侯爵令嬢から、お言葉をお預かりしております」
人々の視線が、最前列に設けられた席へ向かった。
しかし、アウレリアの姿はない。
空席には薄い布がかけられ、その上に桃色の薔薇が一輪置かれていた。
「アウレリア嬢はお気持ちが優れず、隣室にてお休みになっております」
侍従長が説明すると、招待客たちは気遣わしげに目を伏せた。
八年間の婚約を終わらせるのだ。たとえ円満であっても、人前に立つのはつらいのだろう。
侍従長が声明を読み上げる。
「『カシアン殿下が真に心を通わせられる方と巡り会われたことを、心より喜ばしく思っております。殿下とネリネ様の未来が、祝福に満ちたものとなりますようお祈り申し上げます』」
ネリネが口元を押さえた。
大きな瞳に涙が浮かぶ。
「アウレリア様……」
「なお、アウレリア嬢は、婚約解消に伴う補償を求めず、今後も王家とお二人を支えていくと申し出ておられます」
今度は、感嘆の吐息が漏れた。
「なんとご立派な……」
「さすがはファルケン侯爵令嬢だ」
「ご自分よりも、殿下の幸福を優先されたのね」
空席へ向けて、惜しみない称賛が送られる。
カシアンはネリネの手を取った。
「アウレリアの寛大な心に感謝している。私たちもまた、彼女の幸福を心から願っている」
拍手が起こった。
春の夜を飾る、美しい別れ。
翌朝には、そのような見出しとともに、晩餐会の記事が王都中へ配られることになる。
けれど、その拍手をアウレリアは聞いていなかった。
その夜、彼女は王都から馬車で二日かかるファルケン侯爵領にいた。
熱に浮かされた祖母の手を、療養院で夜通し握っていたのである。
◇
「王都の旦那様から、至急のお便りでございます」
晩餐会から二日後の朝。
祖母の熱がようやく下がり、アウレリアが療養院の控室で休んでいると、侯爵家の侍女が封書を運んできた。
父は領地税制に関する会議のため、王都に残っている。
封蝋は確かに父のものだったが、書面には普段の落ち着いた筆跡がなかった。急いで書いたのか、ところどころインクが濃くにじんでいる。
アウレリアは最初の数行を読み、手を止めた。
――昨夜、王太子殿下が春の慈善晩餐会において、そなたとの婚約解消を発表した。
――さらに、そなたが会場に出席し、婚約解消と補償辞退に同意したと発表された。
同封されていた王都新聞を開く。
そこには、壇上で手を取り合うカシアンとネリネの挿絵が大きく掲載されていた。
見出しは、こうである。
――王太子殿下、円満な婚約解消を発表。
記事の中ほどには、アウレリアの言葉とされる声明まで載っていた。
『殿下の真実の愛を、心より祝福いたします』
『ネリネ様であれば、殿下をお幸せにしてくださると信じております』
『王家からの補償は、すべて辞退いたします』
「何ですか、これは……」
そばにいた侍女が、かすれた声を漏らす。
アウレリアは答えなかった。
新聞を持つ指先に、少しずつ力が入っていく。
カシアンがネリネに心を寄せていることは知っていた。
王宮の庭園で二人きりになっているという噂も、一度や二度ではない。カシアンから婚約解消を求められれば、必要な協議を行ったうえで受け入れるつもりだった。
無理に婚約を続けても、誰も幸福にはならない。
だが、話し合いなど一度も行われていない。
婚約を解消したいかと尋ねられたこともない。補償を辞退するとも、二人を祝福するとも言っていない。
「私は、その日に王都へいたことになっているのね」
ようやく口にした声は、自分でも驚くほど静かだった。
「けれど、お嬢様は大奥様のおそばに――」
「ええ。ここにいたわ」
朝は医師から祖母の病状を聞き、昼には薬を飲ませた。夕方には領内の神官が祈祷に訪れ、夜半まで祖母の寝台を離れていない。
父の手紙は続いていた。
――私から王太子宮へ口頭で抗議を入れたが、先方は「本人の意思は確認済み」と回答している。
――ただし、私はそなたに代わって婚約解消への異議を申し立てるつもりはない。そなた自身の意思を聞かぬまま、父親である私が答えを決めれば、王太子宮のしたことと変わらない。
――祖母上の容体が許し次第、王都へ戻ってほしい。
アウレリアは、その部分を二度読んだ。
怒りの中に、わずかな安堵が混じる。
父は、娘の名誉を守ると言って婚約継続を求めることも、侯爵家の面目を理由に勝手な和解をすることもなかった。
最後に、短い追伸があった。
――国王府のグランツ伯爵へ、問題となる記録の保全を依頼した。調査ではなく、あくまで現状のまま残しておくための措置だ。帰還後に紹介する。
「王都へ戻ります」
「すぐに馬車の用意をいたします」
「いいえ。祖母の診察が終わってからよ。今、私が慌てて発てば、本当に逃げ帰ったように見える」
アウレリアは新聞を丁寧に折り畳んだ。
書かれた内容はすべて不快だった。それでも、感情に任せて破り捨てるわけにはいかない。
「殿下は、婚約を解消なさりたかっただけではありません」
婚約解消の原因が自分の心変わりにあると認めれば、カシアンは王太子としての信用を損なう。
アウレリアが喜んで身を引いたことにすれば、誰も彼を責めない。
補償を辞退したことにすれば、王家は八年間にわたって侯爵家が負担してきた王太子妃教育や公務について、責任を問われずに済む。
一度祝福したと発表されたアウレリアが異議を唱えれば、嫉妬に駆られて前言を翻した女になる。
「殿下に都合のよい私を、私のいないところで作られたのです」
◇
アウレリアが王都の侯爵邸へ戻ったのは、その二日後だった。
門前には貴族家の使者や新聞社の記者が集まっている。
寛大な決断に感動したという手紙。
新たな縁談を持ちかける書状。
王太子とネリネを祝福する夜会への招待状。
どれも、アウレリアが進んで身を引いたことを前提にしていた。
玄関では、父であるファルケン侯爵が待っていた。
「母上は?」
「熱は下がりました。医師からも、峠は越えたと」
「そうか」
父の表情が、ほんの少し緩む。
しかし、すぐに厳しいものへ戻った。
「休ませてやりたいところだが、会ってもらいたい人物がいる」
父に案内された書斎には、一人の青年が待っていた。
濃紺の上着をまとい、机の前で背筋を伸ばしている。
「国王府文書監理室次席官、ユベール・グランツ伯爵だ」
アウレリアも、王宮行事で何度か見かけたことがあった。
目立つ人物ではない。だが、会議の決定事項や発言者を正確に記録し、王族から修正を求められても根拠なく書き換えない実務官として知られている。
「父上から事情を伺いました」
ユベールは礼を取った。
「ただし、最初に私の立場を明確にさせてください。現在、私が侯爵閣下から依頼されているのは、関係記録の保全のみです。王太子宮への調査権限も、関係者への聴取権限もありません」
「承知しました」
「したがって、現時点でお話しできるのは、国王府がすでに保管している記録に不整合がある、ということだけです」
ユベールは一冊の薄い記録簿を机へ置いた。
原本ではなく、閲覧を許された者が持ち出せる抄本だった。
「晩餐会の公式記録には、アウレリア様が出席したとあります。しかし、王宮正門と貴族用通用門の入館記録に、アウレリア様のお名前はありません」
「侯爵家の馬車については?」
「そちらもありません。ただし、裏門や内廷専用通路まで確認する権限は、今の私にはございません」
父が口を挟む。
「私がグランツ伯爵へ依頼したのは、これ以上、記録を増やされたり差し替えられたりしないようにするためだ」
「王太子宮が記録を改める可能性があると?」
「可能性の話だ。だからこそ、今ある状態を残した」
父は娘を見た。
「正式な異議を申し立てるかどうかは、お前が決めなさい。申し立てれば、王家との争いになる。婚約解消だけでなく、王太子が虚偽の発表を行ったか否かまで問うことになるだろう」
「婚約解消に反対するつもりはありません」
アウレリアは答えた。
「ですが、私が出席したという記録と、私のものではない声明は訂正を求めます。補償についても、辞退した事実はありません」
「それが、お前の意思だな」
「はい」
父は一度だけうなずいた。
「では、侯爵家として動く」
ユベールがアウレリアへ向き直る。
「正式な異議申し立てを行うのであれば、アウレリア様が当日、領地にいたことを示すものが必要です」
「療養院の滞在記録と、祖母を診察した医師の証言を用意できます。薬師と神官も、私がいたことを知っています」
「すべて集めてください。ただし、侯爵家の者だけで証言書を作らせないほうがよいでしょう。後日、身内で口裏を合わせたと言われるおそれがあります」
アウレリアは、その言葉にユベールを見直した。
味方だからといって、何でも信じる人物ではない。
むしろ、自分たちに有利な証拠ほど厳しく扱おうとしている。
「療養院の原本は現地に残し、領地を管轄する神殿と代官所にそれぞれ写しの確認を依頼します」
「それがよろしいかと」
「グランツ伯爵」
「はい」
「私が婚約解消に反対していないと知れば、この件は些細な手続き違反だと思われますか?」
ユベールはすぐには答えなかった。
「婚約を解消する意思と、存在しない場所で発言したことにされる問題は別です」
やがて、慎重に言葉を選ぶ。
「ただし、今の私は国王府の官吏として、それ以上を申し上げる立場にありません」
アウレリアは小さくうなずいた。
その距離の取り方を、冷たいとは思わなかった。
越えてはならない境界を守れる人だからこそ、父も彼を選んだのだろう。
◇
翌日、王太子宮から非公式の面会要請が届いた。
場所は王宮東棟の小応接室。
公式の会談ではないため、書記も立会人も置かれない。
父は断ることを勧めたが、アウレリアは応じることにした。
一度はカシアン本人の説明を聞いておきたかった。
小応接室へ入ると、カシアンは窓辺に立っていた。
「久しぶりだな、アウレリア」
「三週間ぶりでございます、殿下」
「祖母上の具合はどうだ?」
「おかげさまで、快方へ向かっております」
「そうか。それはよかった」
心から安堵しているように見えた。
カシアンは冷酷な人間ではない。
困窮する領民の話に胸を痛め、病気の子どもを見舞えば、回復を願うこともできる。
ただ、自分が誰かを傷つけたときだけは、その痛みを正面から見ようとしない。
「今回の件だが、君を驚かせたことについては謝る」
カシアンはアウレリアへ椅子を勧め、自分も向かいへ座った。
「しかし、あれが最も穏便な方法だった」
「私が出席したと発表することが、ですか?」
「君の名誉を守るためだ」
カシアンは、なぜわからないのかと言いたげに眉を寄せた。
「婚約解消の場へ君が姿を見せなければ、世間はどう考える? 捨てられたことに耐えられず、領地へ逃げたと思う者も出るだろう」
「私は祖母の看病のため、発表より前から領地におりました」
「外から見れば同じことだ」
「同じではございません」
「世間は細かな事情まで見ない。だから、君は王宮の控室にいたことにした。人前に出られないほど傷ついているとは言わせず、私たちを祝福する立派な令嬢として扱ったんだ」
「つまり、私が傷ついて領地へ逃げたように見えることを避けたかった、と?」
「ああ。君のためだ」
アウレリアは持参した書類を机へ置いた。
療養院の滞在記録の写し。
医師の診察記録。
祖母の薬を受け取った際に、アウレリア自身が確認者として署名した記録である。
「私は発表の前日から翌朝まで、療養院にいました。領地代官所と神殿も、すでに記録の内容を確認しています」
カシアンの視線が、机の上へ落ちる。
その表情に、初めて動揺が走った。
「これを、どうするつもりだ」
「私が王宮にいなかったことを示すために使います」
「侯爵領の記録だろう」
カシアンは書類を手に取らなかった。
「領主家の意向で、いくらでも整えられる」
「神殿の確認もあります」
「地方神殿が侯爵家へ逆らえるのか?」
「では、殿下はこれらを虚偽だと主張なさるのですか?」
カシアンは答えず、椅子へ深く座り直した。
「アウレリア。すでに発表は終わっている」
「だから、訂正を求めます」
「今さら訂正すれば、王家も君も笑いものになる。王太子が婚約者に無断で声明を作り、侯爵家が地方の記録を持ち出して争ったと、面白おかしく書かれるだけだ」
「事実ではございませんか?」
「事実をすべて公にすればよいというものではない」
カシアンの声が低くなる。
「王太子宮の公式発表と、侯爵領で作られた記録。世間がどちらを信じると思う?」
アウレリアはカシアンを見つめた。
この人は、証拠を見せれば誤りを認めるかもしれない。
ほんのわずかに残っていたその期待が、消えていく。
「殿下は、王太子の立場を使って私の証言を退けると?」
「そんな言い方をするな。君に現実を教えているんだ」
「現実とは、何でしょう」
「君一人が違うと言い張ったところで、すでに皆は美しい別れを信じている。あの晩餐会にいた百人が、私たちの発表を聞いた。新聞も配られた。今さら君が祝福していないと訴えて、誰が得をする?」
「殿下が困る、ということですね」
「君も困ると言っている」
「だから、黙れと?」
「代わりに、王家が君の新しい縁談を用意する。公爵家でも、国外の王族でもいい。補償についても、表に出ない形で侯爵家へ配慮する」
「私が補償を辞退したという発表は、訂正しないまま?」
「訂正すれば、すべてが崩れる」
「崩れるのは、殿下がお作りになった話だけです」
カシアンの顔から、穏やかな表情が消えた。
「君は、なぜいつも物事を難しくするんだ」
アウレリアは、しばらく何も言わなかった。
八年間、彼の隣で言葉を整えてきた。
外交使節を不用意な冗談で怒らせないように。
慰問先で、病人の努力を軽んじないように。
臣下の功績が、王太子だけの手柄に見えないように。
カシアンは言葉を整えてもらうことには慣れていた。
だが、自分の言葉が招いた結果を引き受けることには、慣れていなかった。
「簡単にしたのは殿下です」
アウレリアは滞在記録を取り戻した。
「私をいないことにして、私の答えまでお作りになった」
「アウレリア」
「個人としてお話しすれば、訂正に応じてくださる可能性があると思っておりました」
「訂正はできない」
「よくわかりました」
アウレリアは立ち上がった。
「次は、国王陛下のお尋ねにお答えください」
「待て。何をするつもりだ」
「正式な異議を申し立てます」
「私と争うのか?」
その言葉に、アウレリアは足を止めた。
「争いを始められたのは、殿下です」
振り返らずに答え、そのまま部屋を出た。
◇
翌朝、ファルケン侯爵家は国王府へ正式な異議申立書を提出した。
異議の対象は、婚約解消そのものではない。
アウレリアが晩餐会へ出席したという公式記録。
彼女の名で読み上げられた祝福と補償辞退の声明。
そして、ファルケン侯爵家が婚約解消の発表方法に同意していたというカシアンの発言である。
王太子が王家の公的な場で虚偽を述べた疑いがある。
国王は申立書を受理すると、関係記録の廃棄と修正を禁じた。
そのうえで、宰相、王室法務官、国王府監査官から成る王宮査問委員会の設置を命じる。
ユベールは国王府文書監理室の次席官として記録を保全していたこと、また王太子宮とファルケン侯爵家のどちらにも直接の利害関係がないことから、委員会の調査官に任命された。
そこで初めて、彼には王太子宮の内部記録を閲覧し、関係者から事情を聞く権限が与えられた。
調査には三週間が費やされた。
東控室の鍵は、晩餐会の間、一度も持ち出されていなかった。
アウレリアからの贈り物とされた花は、王太子宮の会計から購入されていた。
声明文は式典の前日に王太子宮の書記が起草し、侍従長を経てカシアンが承認していた。
さらに、アウレリアの意思を確認したと証言できる者は、一人もいなかった。
調査が進んでいる間、アウレリアは公の場へ出なかった。
王太子を憎んでいるのか。
ネリネへ復讐するのか。
婚約者へ戻りたいのか。
新聞社や貴族家から、さまざまな質問が届いた。
アウレリアは、異議申立書に記した以上の回答をしなかった。
誰かの憶測を別の憶測で塗り替えれば、また同じことになる。
必要なのは、彼女が何を感じているかを世間へ面白く語ることではない。
何が実際に行われたのかを、正式な場で確かめることだった。
◇
査問委員会を一週間後に控えた、雨の夜だった。
ネリネ・オルセー男爵令嬢が、ファルケン侯爵邸を訪ねてきた。
事前の申し入れはなかった。
馬車を降りたときに外套の裾を泥で汚し、髪も雨に濡れている。付き添いの侍女に支えられながら、玄関へたどり着いたらしい。
「帰っていただきましょうか」
侍女が尋ねる。
アウレリアはすぐに答えられなかった。
ネリネが、今さら何を話しに来たのか。
カシアンを助けてほしいと頼みに来たのなら、会う意味はない。
「応接室へ。温かいお茶を用意して」
しばらくして応接室へ入ると、ネリネは椅子へ座らずに立っていた。
両手で握った扇が、細かく震えている。
「お座りください」
「その前に、謝らせてください」
「謝罪を受けるかどうかは、内容を伺ってから決めます」
ネリネの顔がこわばった。
アウレリアも、優しく迎えるつもりはなかった。
ネリネが何も知らなかったとしても、カシアンと二人で会っていた事実まで消えるわけではない。その噂によって、アウレリアが笑われていた時期もある。
「何をしにいらしたのですか」
「わたくしは……」
ネリネの唇が震える。
「アウレリア様が、あの式典にいなかったと聞きました」
「異議申立書に記載したとおりです」
「でも、殿下は、あなたが隣の部屋で見守ってくださっていると」
「私は領地にいました」
「では、あのお花も?」
「贈っておりません」
「手紙は?」
アウレリアの眉が動く。
「何のことでしょう」
ネリネが外套の内側から、しわのついた封筒を取り出した。
「式典の前に、殿下から渡されました。アウレリア様から、わたくしへだと」
封筒には、アウレリアの名が書かれていた。
中の便箋を開く。
――殿下をお願いいたします。
――あなたであれば、私がかなえられなかった幸福を殿下へ与えてくださると信じております。
――どうか罪悪感を抱かず、殿下のおそばにいて差し上げてください。
筆跡は似せる努力さえされていなかった。
しかし、ネリネがアウレリアの筆跡を知る機会はほとんどない。
「これを、私が書いたと信じたのですか?」
思ったよりも冷たい声が出た。
ネリネの肩が跳ねる。
「殿下が、そうおっしゃいました」
「それだけで?」
「わたくしは……お二人の婚約は、もともと家同士が決めたものだと聞いていました。アウレリア様も殿下を愛してはいない。婚約解消を望んでいるけれど、ご自分からは言い出せないのだと」
「ずいぶんと都合のよい話ですね」
「はい」
ネリネの声が崩れた。
「今なら、わかります。でも、あのときは信じました。信じたかったのです。わたくしが殿下のおそばにいても、誰も傷つかないのだと」
目から涙がこぼれる。
拭おうとしても手が震え、うまく動かなかった。
「許してくださいとは申しません。いえ、違います。本当は、許してほしくて来ました。アウレリア様に、あなたも騙されていたのですねと言っていただければ、少しは楽になれると思って……」
ネリネは両手で顔を覆った。
「でも、それではまた、わたくしが自分のためにあなたを使うことになります」
アウレリアは何も答えなかった。
同情を買いに来たのかと、追い返すこともできた。
実際、ネリネは許しを求めている。
その一方で、彼女が持ってきた手紙は、カシアンがネリネに対しても同じことをしていた証拠だった。
アウレリアの気持ちを勝手に作り、それをネリネへ信じ込ませた。
ネリネの愛情もまた、王太子の望む結論へ運ぶために利用された。
「顔を上げてください」
ネリネが、おそるおそる手を下ろす。
「私は、あなたを許すとは申しません」
その瞳に、再び恐怖が浮かんだ。
「あなたが殿下と会っていたことによって、私が傷つかなかったわけではありません。何も知らなかったという一言で、すべてをなかったことにはできません」
「はい……」
「ですが、その手紙を書いたのはあなたではない。私の名前を使ったのも、あなたではありません」
アウレリアは便箋を机へ置いた。
「これは査問委員会へ提出します。よろしいですか?」
ネリネは唇をかみ、うなずいた。
「わたくしも、呼ばれています」
「証言を求められているのですね」
「何を話せばよいのか、わかりません」
「知っていることを、そのままお話しください」
「そうすれば、殿下は王太子でいられなくなるかもしれません」
「その結果を決めるのは、あなたではありません」
「でも、わたくしのせいで――」
「あなたの証言が殿下を失脚させるのではありません。殿下がなさったことを、委員会が判断するのです」
ネリネは、しばらく黙り込んだ。
「わたくし、殿下を愛しています」
「そうでしょうね」
「それでも、怖いのです」
ネリネは震える指で、空になった封筒へ触れた。
「いつか、わたくしが殿下の望まないことを言ったら、今度はわたくしの言葉も作られるのではないかと考えてしまいます」
アウレリアは、返す言葉を見つけられなかった。
少し前まで、ネリネは自分から何かを奪った女だった。
今、目の前にいるのは、愛している男の隣で、自分の言葉まで失うかもしれないと怯える十八歳の少女だった。
恋敵などという華やかな呼び方は、二人には似合わない。
片方は会場にいなかった。
もう片方は会場にいながら、自分の言葉を持たされなかった。
「査問委員会では、私をかばう必要はありません」
アウレリアは言った。
「殿下を傷つけようとする必要もありません。あなたが見たことと、聞いたことだけを話してください」
「それで、よいのでしょうか」
「それ以上を求められたら、わからないとお答えになればよいのです」
ネリネは、涙の残る顔でうなずいた。
アウレリアは彼女を許したわけではない。
ネリネも、許されたとは思わなかっただろう。
それでよかった。
今夜だけで、何もかも美しく片づける必要はなかった。
◇
王宮査問委員会は、大評議室で開かれた。
国王夫妻、宰相、王室法務官、国王府監査官。
当事者として、カシアン、アウレリア、ネリネ。
さらにファルケン侯爵、オルセー男爵、王太子宮の侍従長と関係書記が出席している。
ユベールは委員会から任命された調査官として、証言席の脇に控えていた。
「本委員会が審理するのは、婚約解消の是非ではない」
委員長を務める宰相が宣言した。
「春の慈善晩餐会において、王太子宮が事実と異なる発表を行ったか。また、アウレリア・ファルケン侯爵令嬢の名を用いて、本人が確認していない声明を公表したか。この二点である」
最初に、ユベールの調査報告が行われた。
「アウレリア・ファルケン侯爵令嬢が、当日王宮へ入った記録はありません。侯爵家の馬車、随行侍女、護衛の入館も確認されませんでした」
王室法務官が尋ねる。
「裏門や内廷専用通路は?」
「すべて確認しました。該当する入館者はありません」
「アウレリア嬢が休んでいたとされる東控室については?」
「晩餐会の開始前から終了後まで施錠されていました。鍵の貸し出しもありません」
ユベールは、確認済みの記録を委員へ提出した。
「一方、アウレリア様は当日、ファルケン侯爵領の療養院に滞在していました。療養院の記録に加え、領地代官所、地方神殿、医師、薬師の証言が一致しています」
カシアンが口を開く。
「いずれも、ファルケン侯爵家の影響が及ぶ者たちだ」
「その可能性を考慮し、記録の作成時期も調査しました」
ユベールの口調は変わらない。
「医師の診察記録は、領内で発生した感染症の経過報告とともに、発表翌朝には王国医務院へ発送されています。王都で異議申し立ての準備が始まるより前です。あとから日付を変更した形跡もありません」
カシアンが黙る。
「次に、アウレリア様の声明について報告します。文章を起草したのは、王太子宮書記官です。侍従長の指示を受け、式典の前日に作成しています。最終的な承認は、カシアン殿下が行われました」
宰相が侍従長へ視線を向ける。
「アウレリア嬢本人への確認は?」
「殿下より、ご意向は確認済みだと伺っておりました」
「本人の署名がないにもかかわらず、なぜ公式記録へ『本人確認済み』と記載した」
侍従長の額に汗がにじむ。
「殿下のご確認があったため、同じものとして扱いました」
「王太子が婚約者の意思を推測したことと、本人確認は同じではない」
国王の声が低く響いた。
「その程度の区別もつかぬ者が、王太子宮の侍従長を務めていたのか」
侍従長が顔を伏せる。
ユベールは続いて、花の注文記録と、ネリネへ渡された手紙を報告した。
花は王太子宮の費用で購入されていた。注文書には、「ファルケン侯爵令嬢からの祝福として扱うこと」と指示がある。
偽の手紙を誰が書いたかまでは特定できなかった。
しかし、王太子宮の封筒を使い、カシアンがネリネへ直接手渡したことは、本人も否定しなかった。
「カシアン」
国王が息子を見る。
「そなたは、なぜこのような発表を行った」
「混乱を避けるためです」
「誰の混乱だ」
「王家と、ファルケン侯爵家、そしてネリネのためです」
カシアンは立ち上がった。
「アウレリアが婚約の継続を望んでいないことは、わかっていました。ならば、争って別れるよりも、互いを祝福したことにするほうがよい。誰の名誉も傷つかずに済むと考えました」
アウレリアは、静かにその言葉を聞いた。
小応接室での主張と変わらない。
おそらくカシアンは、今も自分が完全に間違っているとは思っていない。
「アウレリア嬢」
宰相が呼ぶ。
「そなたは、カシアン殿下との婚約継続を望んでいたか」
「いいえ」
「では、婚約解消については同意していたのではないか」
「婚約解消を求められたなら、協議のうえで応じるつもりでした」
「ならば、発表内容は結果として、そなたの意向と大きく異ならなかったとも考えられる」
王太子宮の主張を確かめるための問いだ。
アウレリアは一度、呼吸を整えた。
「婚約を解消することと、殿下の恋を祝福することは同じではありません」
大評議室の視線が集まる。
「婚約解消に応じることと、王家からの補償を辞退することも別です。私は王太子妃となるため、八年間にわたって教育と公務を引き受けてきました。ファルケン侯爵家も、そのために人員と費用を負担しています」
「金銭が目的か」
カシアンが口を挟んだ。
アウレリアは彼を見る。
「補償が必要かどうかを協議する機会まで、私に代わって辞退なさいました。そのことを申し上げています」
「君は金に困っていないだろう」
「必要がなければ、本人の同意を得ずに辞退させてもよいのですか?」
カシアンは答えなかった。
「殿下は、婚約を解消したいとおっしゃることができます。ネリネ様を愛していると公にすることもできます。王家の権限によって、私との婚約を終わらせることさえできるでしょう」
それらはカシアンの意思であり、王家の判断だからだ。
「ですが、私が喜んでいる、祝福している、権利を辞退したと、私の代わりに決めることはできません」
「君の名誉を守るためだった」
「私が王宮にいたと偽ることが、ですか?」
「欠席したと発表すれば、捨てられて逃げたと思われた」
「私は祖母の看病をしておりました」
「世間はそこまで見ない!」
カシアンの声が響く。
「だから、誰も傷つかない話に整えたのだ。君もネリネも、王家も守られる形にした。それの何が悪い!」
アウレリアは立ち上がった。
怒りより先に、静かな諦めがあった。
カシアンは最後まで、アウレリアの不在を問題だと思っていない。
本人がいなくとも、正しい答えを自分が選んでやればよいと考えている。
「殿下」
アウレリアは、まっすぐ彼を見た。
「その『円満な婚約解消』に、私は出席しておりません」
室内が静まり返る。
「私は別室で涙をこらえていたのではありません。お二人へ花を贈ってもおりません。祝福の言葉も、補償を辞退するとの言葉も、誰にも預けておりません」
一語ずつ、確かめるように告げる。
「そこにいなかった私を、いたことにはできません。言わなかった言葉を、言ったことにもできません。どれほど美しい話であっても、それは私の人生ではございません」
衣擦れの音がした。
ネリネが席を立っている。
「陛下。わたくしからも、お話ししてよろしいでしょうか」
「許す」
「わたくしは、アウレリア様から手紙をいただいたと信じていました。殿下から渡されたからです。あの方が婚約解消を望み、わたくしと殿下を祝福してくださっていると……」
声が震えている。
それでもネリネは、用意してきた文章を読むことなく話し続けた。
「式典で読み上げられた、殿下との婚約を望むという声明も、わたくしが書いたものではありません。事前に確認したこともございません」
「ネリネ」
カシアンが呼びかける。
「君は私を愛しているだろう」
「はい」
「ならば、あの声明と何が違う」
ネリネは、両手を握り締めた。
「わたくしが殿下を愛していることと、王太子妃になる覚悟ができていることは違います」
「私が支えると言った」
「その言葉を、今は信じることができません」
カシアンの顔が凍りつく。
「わたくしが殿下の望まない答えを出したとき、また違う言葉に変えられるのではないかと、考えてしまうからです」
ネリネの声は最後まで震えていた。
だが、その言葉を代わりに整える者はいなかった。
◇
査問委員会の決定を受け、王家は訂正声明を発表した。
カシアン王太子の申し出により、アウレリア・ファルケン侯爵令嬢との婚約解消が提案されたこと。
アウレリアは事前の協議にも、晩餐会にも参加していなかったこと。
式典で読み上げられた祝福と補償辞退の声明は、本人の言葉ではなかったこと。
ファルケン侯爵家も、発表内容を承認していなかったこと。
王家は誤った発表によってアウレリアと侯爵家の名誉を傷つけたと認め、正式に謝罪した。
侍従長は解任され、虚偽記録の作成に関与した者たちは職務停止となった。
ただし、責任を王太子宮の使用人だけに負わせることは認められなかった。
カシアン自身が声明を承認し、発表を主導していたためである。
彼は王太子としての公務から外され、継承資格についても王族会議で再審査されることになった。
ネリネとの婚約は成立していないと確認された。
「殿下を愛している気持ちまで、すぐには消せません」
査問後、ネリネはアウレリアへそう告げた。
「ですが、今はおそばへ戻るつもりもありません」
アウレリアは、その選択を褒めも否定もしなかった。
ネリネの答えは、ネリネ自身が引き受けるものだからだ。
訂正声明が公表された三日後。
アウレリアは国王夫妻と両家の代表が立ち会う中、改めて婚約解消の協議へ臨んだ。
「アウレリア・ファルケン」
国王が尋ねる。
「そなたは、カシアンとの婚約解消に同意するか」
今度は、誰も答えを用意していない。
寛大さを求める者も、祝福を強いる者もいない。
「はい」
アウレリアは、自分の声で答えた。
「カシアン殿下との婚約解消に同意いたします」
向かいに座るカシアンが、かすかに目を伏せる。
「ただし、それは殿下の恋を美しく見せるためでも、ネリネ様へ殿下をお譲りするためでもありません」
アウレリアは署名のためのペンを取った。
「私自身が、この婚約を続けることを望まないからです」
書面へ名前を記す。
アウレリア・ファルケン。
誰かが代わりに書いた名前ではない。
誰かの都合で用意された言葉の下に置かれた名前でもない。
それによってようやく、八年間の婚約は終わった。
◇
一年後。
アウレリアは王都を離れ、ファルケン侯爵領の経営へ深く携わるようになっていた。
婚約者だったころに学んだ法律や財政、救貧事業の知識は、王太子妃にならなくとも役に立つ。
領務庁には、月に二度、領民から直接訴えを聞く日が設けられた。
代官や村長を通すと消えてしまう声を、領主家の者と書記が直接聞くためである。
親が決めた婚姻を断れずにいた娘。
雇い主から、本人の希望として解雇を届け出られた使用人。
読み書きができず、自分に不利な契約へ印を押しかけた農民。
すべてを救えるわけではない。
領主の権限だけでは変えられない慣習もあり、家族同士の問題へどこまで介入すべきか、判断に迷うことも多かった。
それでもアウレリアは、婚姻や奉公契約など本人の生活を大きく変える届け出については、可能な限り当人の意思を確かめるよう領内の手続きを改めていった。
新しい学校も二校建てた。
署名する文章を、自分で読める者を増やすためだった。
ある秋の午後。
領務庁での会議を終えたアウレリアが侯爵邸へ戻ると、ユベールが父の書斎で待っていた。
査問委員会が終わってからも、彼とは仕事上のやり取りが続いている。
領内記録の保存方法を整える際には、国王府の基準について助言を受けた。地方神殿や代官所との記録照合も、彼の指摘によって大きく改善されている。
「本日の確認は終わりました」
ユベールが、机の上の書類を閉じた。
「来年度からは、王都へ送る控えも現在の形式で問題ありません」
「では、今回のご用件はすべて済んだのですね」
「公務については」
ユベールはそう答えたものの、席を立とうとしなかった。
いつもなら、用件が終われば余計な雑談をせず帰る人物である。
「ほかにも何か?」
「あります」
彼はアウレリアを見た。
査問委員会で報告を行ったときと同じ、落ち着いた表情だった。
「ただし、これから申し上げることは、国王府とも領内記録とも関係ありません」
「伺います」
「私は、今後もあなたの仕事を支えたいと思っています」
アウレリアは黙って続きを待った。
「調査官としてあなたに関わった当初は、事実を確かめ、正しい記録を残すことだけが私の役目でした。しかし、この一年で、あなたが領地で何をなさろうとしているのかを見てきました」
ユベールの言葉は、普段よりもゆっくりしていた。
「簡単な仕事ではありません。これまで曖昧にされてきたことを確かめれば、困る者も出てくる。反発も増えるでしょう」
「すでに、いくつか届いております」
「承知しています」
「それでも、続けるつもりです」
「それも承知しています」
ユベールは、いったん視線を机上へ落とした。
「だからこそ、記録官として助言するだけではなく、一人の男として、あなたのそばで支えたいと思うようになりました」
飾った言葉ではなかった。
将来の地位や家同士の利点も語らない。
彼はただ、自分が何を望んでいるのかを、アウレリア本人へ伝えた。
「それは、求婚でしょうか」
「今すぐ答えを求める求婚ではありません」
「ずいぶん慎重なのですね」
「あなたへ申し上げる以上、慎重になります」
アウレリアは、窓の外へ目を向けた。
秋の畑が、夕暮れの光に染まっている。
ユベールを信頼している。
彼が訪れる日は、不思議と仕事が進む。意見が異なっても、こちらの言葉を途中で決めつけることはない。
けれど、信頼と結婚は同じではない。
一度の言葉で、これからの人生を決める必要もなかった。
「すぐには、お返事できません」
「はい」
「私が何を望んでいるのか、もう少し考えたいのです」
「お待ちします」
「いつまでとは、申し上げられません」
「それでも構いません」
アウレリアはユベールへ向き直った。
「ただ、次にいらっしゃるときは、国王府の用件がなくても構いません」
ユベールは、ほんの少しだけ目を細めた。
「では、そうさせていただきます」
「その先の距離は、私の言葉で決めさせてください」
「もちろんです」
その答えに、急かす響きはなかった。
ユベールは書類を鞄へ収め、いつもと同じように一礼して部屋を出ていく。
アウレリアは窓辺に立ち、領地へ続く道を眺めた。
誰かの都合で用意された幸福を、受け入れるつもりはない。
けれど、自分のもとへまっすぐ差し出され、自分の答えを待ってくれる未来なら。
時間をかけて、自分の言葉で選べばよい。
今度は、誰にも代わってもらわずに。




