ベルリンドとジーク
ベルリンドは、ごくごく普通の家庭に生まれた。
女性の社会進出が声高に囃されるようになって、もう一世紀近く。
昔は「女は家のことをしていればいい」とうるさく言われたものだが、ベルリンドの世代では、手に職を持つ女性も珍しくなくなっていた。田舎から都会に出稼ぎで来る人々も増え、国の往来も珍しいない。
かく言うベルリンドもそのひとりである。
地元では「家の仕事を手伝え」と何度も言われたが、どうしてもそれが嫌で――
自分の力で食べていけるようになりたくて、この王都の学院へと出てきたのだ。
王都は日々進化を続けている。
魔道列車が開発されてからというもの、長距離移動が一気に楽になり、
最近では馬車に代わる“魔道機車”が公道を走るようになった。
貴族と平民の関係も、昔のような厳格さは失われつつある。
むしろ税金ばかりかかる爵位を手放し、一般市民として暮らす元貴族も増えているという。
そんな時代の流れの中で、ベルリンドもまた、自分の居場所を探していた。
ベルリンドが不思議な夢を見始めたのは、奇しくも隣人が越してきてからだ。
引っ越しから半年、部屋の前の廊下に置かれた段ボールの山。
そこに立っていたのが、彼だった。
背の高い男。黒いシャツの袖を捲り上げ、無表情で箱を持ち上げる腕は妙に静かだった。
挨拶をしようと声をかけたとき、彼がこちらを見た――、
その金色の瞳を見た瞬間、胸の奥がざわりとした。
痛いような、懐かしいような感覚。まるで心臓が“思い出した”みたいに。
「……あー、隣に越してきたジーク・ヴァルトだ。よろしく」
低く静かな声が、耳の奥で反響する。
ベルリンドは何とか笑顔を作って答えた。
「ベルリンド・ハーレンです。あの……よろしくお願いします」
――それが、悪夢の始まりだったのか、あるいは運命の再会だったのか。
ある時から、彼女はあの夢を見始めた。
血と炎、そして、あの男の腕の中で泣く自分の夢を。
数百年前まで、この世界は――国と国が争うよりも先に、獣人と人とが血を流し合っていた。
同族でさえ争うこの世界では、異なる種族が争い合うのは、むしろ当然のことだった。
血が怨嗟を呼び、互いを「毛無し」「獣頭」と罵った。
だが、世界大戦を経て、世界の三分の一が失われた。
その代償の上でようやく、争いは終わりを告げた。
もっとも、長らく続いた差別と偏見は根深く残ったまま。
そして大戦がもたらした産業革命は、古い身分の在り方さえも揺るがした。
互いの種族が流れ込むようになり、種族の垣根を越える一助になった。
それは、失われた世界がもたらした、皮肉な融和の形だった。
とはいえ、多くの国々では偏見と差別がいまだ根強く残り、辺境では互いを人食いの怪物と見なすところもある。
未だに、寝物語として「子供を攫い食べてしまう」と聞かされるのだ。
誰もがそんな話を聞かされ、御伽噺だと笑いながらも、どこかで恐れていた。
けれどベルリンドだけは、そうした話を聞いても、なぜだか恐怖を覚えなかった。
王都に出てきたベルリンドは、それまで一度も獣人を見たことがなかった。
難民として流れ込んではいても、一般市民として暮らす獣人はごくわずかだ。
ジークと出会ったときも、彼は特徴的な耳も尾も見せていなかったため、彼が獣人だとは気づかなかった。
ベルリンドが暮らすアパートは少々くたびれていたが、家賃が安く、立地も悪くなかった。
駅や学院にもほど近い。もっとも、界隈は少し荒っぽく、金のある学生ならまず選ばないだろう。
それでもベルリンドは選び、そこで暮らし始めた。
隣の部屋にジークという男が越してきても、ベルリンドの日常に変化はなかった。
……あの日までは。
ある夜、帰りが遅くなったベルリンドは、アパートを目指して小走りに通りを駆けていた。
もうすぐ角を曲がれば自分の通り――というところで、足を滑らせて転んだ。
「痛っ……」
膝を見ると、擦りむいた皮膚から赤い血がにじんでいる。
踏み出そうとして、ぐらりと身体が傾ぐ。
慌てて電柱に手をついて、ベルリンドは深く息を吐いた。
「……最悪」
小さく呟いた声は、夜の闇にすぐ掻き消された。
滲む街灯の下、砕けたヒールが頼りなくぶら下がっている。
立てないほどではないが、歩くたびに軋んで、惨めさが一層身に沁みた。
無性に泣きたくなって、顔を顰めれば、男の声がした。
「……大丈夫か、あんた」
その声は、夜の帳の向こうから落ちてきた。
低く、少し掠れていて、どこか優しさを含んでいる。
ベルリンドは顔を上げた。
薄暗い街灯の下、立っている大柄な男がいた。
先ほどまで雨が降っていたからか、肩まで濡れた外套が貼りつき、髪からは降っていた雫が滴っている。
けれど、その金色の瞳だけが、夜の中ではっきりと光っていた。




