第二章 Episode4「海辺の手紙」
潮の音が“想い”を運ぶ回です。
波の中に眠っていた誰かの言葉が、
シロの心に静かに触れていきます。
止まっていた風が、少しだけ動き始める。
それは、失われた記憶が再び“届く”ための序章です。
潮風が、静かに頬を撫でていった。
夜が明け、空が淡い藍色から白に変わる。
潮見の館の窓を開けると、
遠くで波が光を散らしていた。
昨夜の夢の残響が、まだ胸の奥に揺れている。
あの少女の声――「お願い……あの人を、見つけて。」
その言葉が波の底で反響して、
何度も私の名を呼ぶように聴こえた。
胸がざわめいたまま、私は靴を履いた。
館の裏手には、崖下へと続く細い小道がある。
朝の空気は少し冷たく、
吐く息が白く浮かんでは風に溶けた。
潮の匂いが濃くなる。
足元の砂が湿っていて、靴底が沈むたび、
小さく「きゅっ」と音を立てた。
崖下の浜辺に降り立つと、
波の残した貝殻と流木が散らばっていた。
そして、その中に――
古びた木箱が半ば砂に埋もれていた。
箱の留め具は錆びていて、
触れるだけでぽろりと外れた。
中には濡れた封筒が一通。
紙は黄ばんでいて、潮の香りが深く染みついていた。
取り出そうとした瞬間、
風が吹き抜け、封筒の隙間から一枚の写真が滑り落ちた。
拾い上げると、そこには若い男女が並んで写っていた。
笑っている。
でも、その背景の空だけが、不自然に“静止”していた。
「それ、見つけたんだね。」
不意に、声がした。
振り返ると、ヒカリの姿が霞のように立っていた。
光の粒が集まり、人の形をかろうじて保っている。
「これ……誰の手紙?」
「昔、この館にいた人のもの。
潮風に流されて、長い間ここに眠ってた。」
私は封を開けた。
文字はところどころ滲んでいて、
読めるのは断片だけだった。
“また会える日を信じて――”
“この手紙が届く頃、風は戻っているだろうか。”
その文を追ううちに、
胸が熱くなった。
宛名はなく、差出人もない。
それでも“祈り”のような温度だけは、確かに残っていた。
ヒカリの声が、波の音に溶けた。
「言葉って不思議だよね。
消えるはずなのに、こうして残る。
まるで、記憶が風を通して形を変えるみたいに。」
「……クロの声にも、似てた。」
ヒカリは静かに頷いた。
「風の止まった世界で、言葉は届かない。
でも、想いは残るんだ。
きっとそれが、彼女の“風”だった。」
彼の言葉を聞きながら、
私は砂の上に座り、封筒を両手で包んだ。
紙はまだ冷たく湿っている。
けれど、指先から伝わる温度が、少しずつ上がっていく気がした。
写真の中の女性が、微笑んでいる。
光に透かすと、輪郭が少し滲んで見えた。
それはクロの横顔と、重なっていった。
「この人……クロなの?」
「彼女か、それとも“彼女になりたかった誰か”か。
それを知るのは、たぶん君だけだよ。」
ヒカリの声が、風に乗って遠のく。
まるで波の呼吸の合間に、何かを託しているようだった。
強い潮風が吹いた。
砂が舞い上がり、封筒がふわりと浮かぶ。
私は慌ててそれを掴み、胸に抱き寄せた。
その瞬間、耳の奥で“もうひとつの声”が囁いた。
「置いていかないで。」
クロの声。
涙のように淡く、それでいて確かな存在感を持っていた。
私の心が、ひとつ脈打った。
「クロ……あなたなの?」
風が答えのように吹き抜けた。
潮が高く跳ね、波しぶきが頬を濡らす。
まるで、涙の代わりに世界が泣いているようだった。
“――風が吹く方へ。きっとそこに、あなたがいる。”
手紙の最後の一文を読み終えたとき、
胸の奥で何かが“ほどけた”気がした。
それは悲しみではなく、
ようやく息を吸い込めたような感覚だった。
ヒカリが微笑む。
「ねぇシロ。
君がそれを読んだ瞬間、誰かがきっと救われたんだよ。」
「……私が?」
「ううん。
君じゃなくて、“君の中の誰か”。
もしかしたらクロかもしれない。」
光が揺れ、彼の輪郭が薄れていく。
まるで風が彼を連れ去るように、
粒子が空へと溶けていった。
「ヒカリ……待って!」
「また会えるよ。
風が止まらない限り、ね。」
その声が消えたあと、
残されたのは波音と、私の鼓動だけだった。
私は封筒を胸に抱き、館へ向かって歩き出した。
潮の香りが濃く、髪が風に流れる。
いつもは重く感じていた坂道が、
今日は少しだけ軽く感じた。
館に戻ると、
扉の前に置かれた懐中時計がかすかに鳴っていた。
チッ、チッ、チッ――
まるで心臓の鼓動みたいに。
その音を聞きながら、私は微笑んだ。
この館で初めて、
“生きている音”を聞いた気がした。
手紙を机の上に置く。
窓を開けると、風が部屋を通り抜けた。
カーテンが揺れ、埃が舞い上がる。
かつて閉ざされていた空気が、
ゆっくりと流れ始めていた。
「……ただいま。」
小さく呟いたその言葉が、
自分の声ではないように響いた。
けれど確かに返事があった気がした。
「おかえり。」
誰の声でもない。
それでも、心の奥で“二つの声”が重なった。
クロの声と、私の声。
机の上の封筒が、
風に揺れて端が少し開いた。
そこから、乾いた紙の音がした。
まるで、何かが“届いた”合図のように。
私は深く息を吸い、目を閉じた。
潮の香りが胸いっぱいに広がる。
それはもう、寂しさの匂いではなかった。
――風は、まだ終わっていない。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
毎回読みに来てくれる方がいると思うと、
本当に救われてます。
この回は、書いていて少し感情が入りました。
“誰かに届くかもしれない言葉”って、
やっぱり特別なものだなって思います。
コメントはまだ少ないけど、
読んでくれる人がいるってだけで嬉しいです。
もし「読んだよ」って一言でも残してもらえたら、
きっとまた次の風を起こせそうな気がします。
次回の更新はゆっくりにになるかもしれませんが、
どうか気長に見守ってください。
――凪雨カイ




