第二章 Episode3「潮の記憶」
潮の音が“記憶”を運ぶ回です。
シロが初めて「他人の記憶」に触れることで、
自分の中に眠っていた痛みや優しさが少しずつ目を覚まします。
第二章も、ここからゆっくりと波のように広がっていきます。
夜の潮見の館は、波の息づかいで満ちていた。
静寂の中に、時計の音がかすかに溶けていく。
チッ、チッ、チッ。
時が進むのか、戻るのかもわからない。
私はベッドの上で目を閉じた。
灯台で出会った光――ヒカリの声。
その余韻が、まだ胸の奥で揺れている。
「あなたは、今もここにいる?」
問いかけた声は、夜の風に溶けた。
返事の代わりに、波が一度だけ強く打ち寄せた。
その音に導かれるように、
私は意識の底へと沈んでいった。
――そこは、水の中だった。
深く、遠く、音がゆっくりと沈む世界。
光は揺れ、私の肌を撫でる。
冷たさの中に、不思議な懐かしさがあった。
水面の向こうに、ひとりの少女が立っていた。
髪が潮に揺れ、白い服が月光を反射している。
彼女は私に気づかないまま、海を見つめていた。
「……誰?」
問いかけても、少女は振り向かない。
波の音に紛れて、彼女の声が流れてくる。
「どうして、置いていったの……」
その一言で、胸の奥が締めつけられた。
知らないはずの痛みが、私の中で疼く。
「それは……誰に向けて?」
「風が止まる前に、ここにいた人。
帰るって言ったのに、帰ってこなかった。」
少女の肩が小さく震えた。
その姿が、どこかクロに似ていた。
悲しみを飲み込みながら笑おうとする、
あの夜の私に。
「……あなたを、一人にしたくない。」
気づけばそう呟いていた。
その声が水面に触れると、
波紋が広がり、世界が一瞬光に包まれた。
少女はゆっくりとこちらを見た。
その瞳は、海と同じ色をしていた。
深く、遠く、でもどこか優しい。
「あなた、風の匂いがするね。」
「風?」
「うん……懐かしい。
あの人も、いつも風の話をしてた。
“風は記憶を運ぶ”って。」
私は息をのむ。
“風は記憶を運ぶ”――
ヒカリも、同じことを言っていた。
「ねぇ、その人の名前……」
「わからないの。
でも、声だけは覚えてる。
優しくて、少し悲しそうな声だった。」
少女の手が海に沈み、
波紋の中に淡い光が広がった。
そこには、
灯台、潮見の館、そして風を抱くように立つ“影”が映っていた。
「……その人を、探してるの?」
「ううん。
きっと、もういない。
でも、風が運んでくるの。
あの人の記憶を、少しずつ。」
私は胸に手を当てた。
鼓動が早い。
まるで他人の記憶に、
自分の心が共鳴しているようだった。
「私、行かなきゃ。」
「どこへ?」と問う前に、
少女は海へ歩き出していた。
「潮が満ちる前に、帰らなきゃ。
ここに長くいると、波に溶けちゃうから。」
私は咄嗟に叫んだ。
「待って!」
少女が一瞬だけ、微笑んだ。
その笑顔は悲しくて、
けれど確かに生きていた。
「ありがとう。
きっと、あなたなら見つけられる。」
次の瞬間、光が砕け、世界が波に飲まれた。
――気づけば、私はベッドの上にいた。
窓の外には薄明かり。
潮の匂いが強く、
床には小さな砂の粒が散らばっていた。
「夢……じゃなかったの?」
鏡を見ると、そこに映る自分の目が、
どこか“他人”のように見えた。
光の中で、微かに誰かの影が重なっている。
「クロ……?」
返事はない。
ただ、風が頬を撫でた。
潮の音と一緒に、優しい声が届く。
「おはよう、シロ。」
ヒカリの声だった。
けれどその奥にもうひとつ、
少女の囁きが混ざって聞こえた。
「ありがとう。」
私は静かに息を吐いた。
風がカーテンを揺らし、
部屋の空気が少しだけ温かくなった。
――潮の記憶は、まだ終わっていない。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
この回は、少し静かなお話でした。
けれど書いている間、私の中ではずっと“風の音”がしていました。
それはたぶん、読んでくれる人がいるという小さな証みたいなもので。
物語はまだ、岬の先を歩いています。
ここから先、シロが何を見て、どんな声を聴くのか――
その続きを、もう少しだけ描かせてください。
どうか、次のページでも風が吹きますように。
――凪雨カイ




