ep5:〜夜明けの静寂〜
Chapter 4で、夢の底に沈んだシロは“もうひとりの自分”と向き合い、
現実と夢の境界が消えていった。
今章では、夜が明ける。
静寂の中で初めて風が生まれ、
潮見の館が“生きている”ことを、彼女は確かに感じる。
夜明けは、静かに訪れた。
風のない岬に、光だけが差し込む。
長く止まっていた世界が、ようやく息をしている。
目を覚ますと、館の空気が変わっていた。
昨日までの湿った闇が消え、
壁の木目がやわらかく金の光を帯びている。
枕元の懐中時計は止まったまま。
針の先に、光の粒がひとつ。
それが朝日に照らされて、淡く脈打っていた。
窓を開けると、潮の匂いが流れ込む。
昨夜まで聞こえなかった波音が、
遠くでゆっくりと蘇っていく。
――ああ、風が戻った。
私はその音を確かめるように息を吸った。
胸の奥が少し痛い。
夢の中に残したクロの声が、まだそこにいる気がした。
廊下に出ると、床に濡れた足跡が残っていた。
小さな素足の形。
私のものではない。
その先に、黒いリボンがひとつ落ちている。
拾い上げた瞬間、空気が震え、館中の時計が鳴き始めた。
チッ、チッ、チッ、チッ――。
秒針の音が重なり、心臓の鼓動と同じリズムを刻む。
まるで館そのものが“生きている”みたいだった。
「夜が終わるわ」
クロの声が、どこかで囁く。
「あなたが、わたしになる時。」
私は静かに目を閉じた。
クロはわたしを壊すためじゃない。
――守るために、生まれたのだ。
光が差し込み、壁に映る影が二つに分かれ、やがて重なる。
止まっていた懐中時計が、ひとつだけ音を立てた。
チッ――。
私は微笑む。
この館は、今日、確かに息をした。
そして、足を一歩、窓辺に向けた。
朝の光が海を照らし、霧の向こうで鳥が鳴いている。
その音が、まるで“誰かが呼んでいる”ように聞こえた。
「……ヒカリ。」
振り向いたとき、風がカーテンを大きく揺らした。
光が頬を撫で、潮の香りが胸の奥に満ちていく。
扉を開けると、朝の空気が頬を打った。
潮見の館の外――岬の先には、眠っていた海が目を覚ましている。
風は海面を撫で、波は小さく息を返す。
光が水面を砕いて、無数の粒となって空へ跳ねた。
その眩しさの中で、私は思う。
クロが残した“痛み”は、たしかに私を繋ぎとめる鎖だった。
けれど今、それは風に解けていく。
「風が、動いたね。」
どこか遠くから声がした。
私は目を閉じ、頷いた。
そして、朝の風に髪を揺らしながら一歩を踏み出す。
――潮見の館に、新しい朝が来た。
Chapter 5「夜明けの静寂」で、第一章は幕を閉じました。
静寂の中で交わった“シロとクロ”の境界は、
風と光の中でひとつの形に還りました。
そして最後に響いた“名前”は、
次の章へと続く新しい気配――
物語が、再び動き出す合図です。
――凪雨カイ




