ep3:〜記憶の断片〜
Chapter 2でシロは、“風が去った館”の中で初めて他者の気配を感じた。
そして手にした古い懐中時計が、彼女の“記憶”を呼び覚ます。
今章では、夢と現実の境目が曖昧になる中で、
忘れていた“もうひとりの自分”の記憶が少しずつ滲み出していく。
目を閉じると、海の匂いがした。
けれど、それは潮の香りではない。
もっと遠く、ずっと昔に嗅いだ――記憶の底に沈んだ匂いだった。
枕元の懐中時計が、開かぬまま微かに震えている。
掌の中で熱を帯び、鼓動のように脈を打つ。
「覚えてる?」
クロの声が問う。
静かな問いだった。怒りも悲しみもなく、ただ確かめるように。
私は答えられない。
けれど、声の響きが私の奥に波紋のように広がり、
映像が、音もなく流れ込んでくる。
――白い手。
――黒い袖口。
――石段に落ちる涙の音。
それらはまるで誰かが別の時間で見た夢の断片みたいに、
ぼやけたまま私の目の裏に浮かんでは消えた。
懐中時計を握る指先が震える。
そのたびに、景色の色が一瞬だけ変わる。
灰色の海が、深い群青に沈み、
潮見の館の壁が呼吸するように膨らんでは縮んだ。
「泣いてるのは、誰?」
声が近づく。
それは問いの形をしていたけれど、答えを求めてはいなかった。
私は口を開きかけて、閉じた。
代わりに、涙がひとすじ落ちる。
理由はわからない。けれど、その涙が床に落ちた瞬間、
館の時計たちが一斉に鳴った。
――チッ、チッ、チッ。
秒針の音が蘇る。
止まっていたはずの時間が、息を吹き返すように早まっていく。
呼吸を合わせようとしても、追いつけない。
まるで、どこか遠くで誰かが焦っているみたいに。
私は胸の奥の痛みに気づいた。
時計の音と鼓動が重なり、
どちらがどちらか分からなくなっていく。
私は懐中時計を見つめる。
蓋はまだ閉じたままなのに、
金属の隙間から、淡い光がこぼれている。
その光の中に、見覚えのある影が立っていた。
小さな少女。
私と同じ顔をして、けれど少しだけ幼い。
彼女は何も言わず、笑った。
「あなたが泣いたから、私が生まれたの」
そう言って、少女は手を伸ばす。
指先が触れる前に、光がはじけた。
そして、すべてが暗闇に沈んだ。
闇の中で、懐中時計の音だけが響いていた。
チッ、チッ、チッ――音が止まる。
気がつくと、私はベッドの上にいた。
夜が明けかけている。
窓の外の空は薄く色づき、
遠くでカモメの声が聞こえた気がした。
枕元には、懐中時計が置かれている。
もう光は漏れていない。
でも、蓋の裏に指で触れると、そこには誰かの名が刻まれていた。
――Shi…
文字は途中で擦れて読めない。
けれど、その“名の始まり”を見た瞬間、
胸の奥で何かが痛んだ。
「クロ……」
名前を呼ぶ。
返事はない。
けれど、海の方から吹くはずのない風が、
カーテンをわずかに揺らした。
風のない岬に、風が生まれる。
それはきっと、記憶が息をした音だった。
Chapter 3「記憶の断片」では、
シロが初めて“自分の記憶”に触れ、クロの存在がより濃く重なっていきました。
館は過去を閉じ込めたまま、少しずつ彼女を呼び戻しています。
次のChapterでは、シロが“過去の自分”と真正面から向き合うことになります。
――凪雨カイ




