第三章 Episode2「管理者の声」
記録を“守る者”と“記す者”。
その境界線は、思っているよりも近い場所にありました。
――第三章第二話です。
塔の扉は、音もなく開いた。
シロは足を踏み入れる。
中は思っていたよりも広く、壁一面に光の糸が流れていた。
それは書物でも記録盤でもない。
無数の声が、形を持たずに漂っている。
静寂という名の海の中で、彼はひとり立ち尽くした。
足もとの石畳には、誰かの影が刻まれていた。
かつてここに立った者たちの痕跡。
その上を通るたびに、心臓の奥で微かな鼓動が響いた。
まるで塔そのものが、来訪者を確かめるように。
「……入っていいの?」
その声は霧に吸い込まれ、
やがて返事のような気配が生まれた。
「この場所に、禁じられた領域はありません。
ただし、触れてよいものと、触れてはならないものがあります。」
声は穏やかだった。
男とも女ともつかず、
耳ではなく胸の奥に直接届く。
空気が柔らかく波打ち、光の粒がひとつ形を取った。
人影――いや、光そのものが“人”を模して立っている。
「あなたが……この庭の管理者?」
「そう呼ばれたこともあります。
私はここで記録を見守る者。
時に、記す者を導く者。」
シロは言葉を失った。
その存在は、どこかで見た夢に似ていた。
人ではない。だが、温度がある。
近づくと、胸の奥の記憶が反応した。
潮見の館で感じた“あの気配”に、少し似ている。
「あなたがここへ来た理由は知っています。
あなたは“記すため”に来た。
けれど、記すとは奪うことでもあります。」
「奪う……?」
「記録するという行為は、時間を切り取る行為です。
誰かの痛みも、祈りも、凍らせてしまう。
あなたは、それを受け入れられますか?」
静かに問われ、シロはうつむく。
光の揺らぎが彼の頬を照らす。
胸の奥が痛んだ。
潮見の館で拾い集めた声たちを思い出す。
消したくなかった。
けれど、覚えていることで苦しむ人もいる。
記録とは、やさしさと残酷さの境界にある。
「……わからない。
けど、誰かが消えるのを見たくない。
記すことでしか繋げないなら、それでも書きたい。」
その言葉に、管理者の光が少しだけ強くなった。
塔の壁が呼吸するように光を放つ。
無数の声が重なり、ひとつの旋律を奏でた。
それは祈りのようで、子守唄のようでもあった。
「ならば、あなたに“筆”を与えましょう。」
光の手が差し出された。
掌の上に、小さな羽根が舞い降りる。
それは羽根でもあり、記録の欠片でもあった。
触れると、微かな鼓動が伝わってくる。
「この筆は、声を記す道具。
紙も墨も要りません。
あなたの心が動いた瞬間に、記録は形を得るでしょう。」
「……心が、動いた瞬間に?」
「そう。
あなたが誰かを想った時。
あなたが痛みを抱いた時。
それこそが“記録”の源です。」
シロは羽根を両手で包み込み、目を閉じた。
掌の中の光が静かに脈打つ。
まるで新しい命が宿ったようだった。
「ありがとうございます。」
「礼はいりません。
記すことは、選ぶこと。
あなたがその意味を知るまで、
この庭はあなたを見守り続けます。」
光の人影がふっと淡くなる。
代わりに塔の中に、無数の扉が浮かび上がった。
一枚ごとに、ひとりの記憶が宿っている。
それらの先に、彼の旅が続いているのだと、
シロは直感した。
「僕は、行きます。」
「ええ。
記す者よ。
どうか恐れずに、真実に触れてください。」
声が遠のく。
光が消え、静けさだけが残る。
シロは塔の中央に立ったまま、
掌の羽根を見つめていた。
光はまだ、ゆっくりと脈打っている。
それが“始まりの証”であることを、
彼は理解していた。
――そして、霧の向こうで鐘の音が鳴った。
記録の庭が、新しい頁をめくる音だった。
今回は、記録の庭の“管理者”が初めて姿を見せる回でした。
人ではなく光として描いたのは、
「記憶の中にある存在は誰のものでもない」という象徴です。
次回は、塔の奥に眠る“最初の記録”へ――。
少しずつ、シロの過去と世界の仕組みが繋がっていきます。
――凪雨カイ




