第三章 Episode 1「記録の庭」
風のない場所に、
声だけが残る庭があります。
それは祈りのようで、忘却のようでもありました。
――第三章、始まります。
夜の終わりを見送るように、
シロは小さな足音で丘を下りていた。
潮の香りはすでに薄れ、かわりに土と紙の匂いが漂う。
その先にあるのは、朝霧に沈む庭。
名を「記録の庭」という。
言葉を失った者たちの記憶を、静かに保存する場所だった。
門は開いていた。
誰かが待っているのか、あるいは拒む力を忘れてしまったのか。
錆びた蝶番の軋みが、遠い夢の終わりを告げるように響く。
一歩踏み入れると、霧が足首を撫で、空気が変わった。
息を吸うたび、古い紙の匂いと淡い金属の匂いが混ざり合う。
世界が、ゆっくりと記憶の層に沈んでいく。
庭の中央には、大樹があった。
枝は無数に分かれ、葉の代わりに透明なガラス片を吊り下げている。
風のない空で、それらは自らの意志を持つように震え、
微かな光を放っていた。
そのひとつひとつが、誰かの記憶。
声や夢、笑い、痛み、まだ言葉にならなかった想い。
それらが光の粒となって空を漂っている。
「……こんなにも、多いんだね」
シロは呟き、ひとつのガラス片に手を伸ばした。
触れた瞬間、冷たさの奥から声が流れ出す。
「ねぇ、まだあの青を覚えている?」
懐かしい響きだった。
それは潮見の館で聞いた声とよく似ている。
胸の奥がゆっくりと疼く。
過去が、彼の中で静かに呼吸を再開する。
足もとでは、細い川が流れていた。
透明な水ではなく、光の流れ。
滴のひとつひとつが、言葉にならなかった想念を運んでいる。
耳を澄ませると、笑い声や泣き声が交錯していた。
それは混ざり合いながらも不思議と穏やかで、
まるでこの庭全体が一つの大きな記憶装置のようだった。
「忘れられても、ここでは終わらない」
そんな声がどこからか届く。
それは風ではなく、庭そのものの声だった。
この場所は、消えた存在たちの終着ではなく、
“記すための始まり”として在る。
シロはそのことを、息のように理解した。
やがて視線の先に、塔が現れる。
灰色の石で組まれた高い塔。
壁一面に、無数の名前が刻まれていた。
だが、その中にひとつだけ空白がある。
まだ記されぬ名。
それがまるで、彼自身を待っているように見えた。
シロはゆっくりと近づき、指先をその空白に重ねる。
石は冷たく、触れるだけで鼓動のような微振動が伝わった。
塔そのものが生きている。
記録が息をしている。
そう思った瞬間、胸の奥が熱を帯びた。
もし自分がいつか記録されるのだとしても、
その前に誰かの想いを記すことができるのなら――
それが自分の存在の証になる。
「僕は、君たちを記すために来た」
静かな誓いが空へ溶けていく。
すると、庭全体がふるえた。
ガラス片が一斉に共鳴し、光が波紋のように広がる。
小川の流れが逆巻き、塔の壁が柔らかく光を放つ。
夜明けのような光景だった。
だがそれは太陽の光ではなく、記録たちの息吹。
この庭が、彼の言葉に応えたのだ。
シロは目を閉じ、静かに息を整えた。
霧の向こうで、誰かの影がこちらを見ている気がする。
庭の管理者――記録を守る者。
その存在が、やわらかい声で囁いた。
「記す者よ。ここからが、あなたの始まりです」
淡い光が、彼の肩に降りそそぐ。
それは祝福のようであり、重荷のようでもあった。
けれどシロは逃げなかった。
この庭で、自分が何を残せるのかを確かめるために。
霧の中、ひとすじの風が彼の髪を揺らした。
風のない庭に、初めて風が生まれた。
第三章の幕開けとして、
シロが「記す者」として目覚める瞬間を描きました。
静かな庭が少しずつ息を吹き返す、その変化を
読者の呼吸に合わせるよう意識しています。
この章では“記憶と存在”をめぐる対話が続きます。
あなたの中の小さな声も、
どこかで誰かに届きますように。
――凪雨カイ




