第二章 Episode5「潮の果て、風の声」
潮が満ち、風が還る回です。
この章で描かれてきた“声”たちが、
静かにひとつの場所へ集まっていきます。
シロが歩き出すその先に、
どんな“記録”が待っているのか――
第二章の結びとして、
少しだけ静かな夜明けを描きました。
夜の海は、静かに息をしていた。
潮の満ち引きが、遠い鼓動のように繰り返される。
波がひとつ寄せるたび、潮見の館の窓硝子がかすかに震え、
月明かりが床の上に淡い模様を描いた。
机の上には、あの手紙がある。
潮に濡れて乾いた紙の端が、風を受けて揺れていた。
光の角度によって、掠れた文字がかろうじて浮かぶ。
――風は、まだ終わっていない。
その一文が、夜の静寂に沈む。
けれど、その文字だけが今も息をしているように見えた。
私は窓を開けた。
海の匂いが胸いっぱいに広がり、
冷たい風が髪を持ち上げる。
遠くで潮騒が波を崩しながら、ゆっくりと寄せてくる。
ヒカリの声も、クロの囁きも、もう聞こえない。
それでも――確かに感じる。
この静けさの中に、彼らの“痕跡”がある。
まるで風そのものが、ふたりの記憶を運んでいるかのように。
私は懐中時計を取り出した。
チッ、チッ、チッ――
その小さな音が、夜の底で響く。
まるで時が止まりかけたこの世界の中で、
ただ一つ、生きている証のようだった。
「ねぇ……あなたは、まだここにいる?」
声に出すと、風が頬を撫でた。
返事の代わりに、海がひときわ高く鳴った。
その音が、どこか懐かしくて、胸の奥が痛んだ。
私は、あの夜のことを思い出す。
クロの声が初めて私の中に響いたあの瞬間。
恐ろしくて、でも嬉しかった。
“自分の中に誰かがいる”という奇妙な安心感。
けれど今、その声が遠のくほどに、
私は少しだけ強くなれた気がする。
孤独という言葉を、
ほんの少し、違う形で受け止められるようになった。
――風は、誰かと誰かをつなぐ。
それはきっと、クロが最後に残した願いだ。
そしてヒカリが見せてくれた“光の道”の続き。
私はその風の行き先を知りたいと思った。
窓辺のランプが揺れる。
オレンジ色の灯が、波のように息づいている。
その明かりに照らされて、部屋の影がいくつも重なった。
ひとつひとつの影が、過去の私の形に見えた。
潮見の館に来た日のことを思い出す。
誰かに呼ばれてここへ来たのか、
それとも、自分から迷い込んだのか。
どちらでもいい。
今はもう、この場所が私の一部になっている。
机の引き出しを開けると、
小さな欠片たちが静かに眠っていた。
貝殻、錆びた鍵、破れたリボン、
そしてあの手紙。
その下に、もう一枚の紙があった。
“潮の記録”と書かれた古いページ。
潮の満ち引きと風の流れを記した、
この館の誰かが残した記録。
その端に、小さな文字があった。
“記録の庭に、風は還る。”
その一行を読んだとき、
胸の奥がざわめいた。
まるで、どこか遠くから呼ばれているような感覚。
風の音が少しだけ変わり、
窓辺のカーテンがゆるやかに膨らむ。
「……行かなきゃ。」
自然と、そんな言葉がこぼれた。
どこへ向かうのかはわからない。
けれど“潮の果て”の向こうに、まだ見ぬ世界がある。
風が止まらない限り、物語は続く。
私は懐中時計をポケットに入れ、
ランプの火をそっと吹き消した。
暗闇の中でも、針の音だけがはっきり聞こえる。
チッ、チッ、チッ――
まるで次の章への合図のようだった。
ドアを開けると、
潮の香りが流れ込み、
空の色がわずかに白み始めていた。
夜と朝のあいだ。
その一瞬だけ、世界が静止する。
私は足を踏み出した。
砂の上に残る足跡が、波にさらわれて消えていく。
風が背中を押した。
どこかで“さようなら”の声がした気がしたけれど、
振り返ることはしなかった。
潮の音が遠のく。
代わりに、懐中時計の音が近くなる。
それはもう、時間の音ではなかった。
まるで“心の鼓動”そのものだった。
歩きながら、私は小さく呟いた。
「クロ、ヒカリ……また、どこかで。」
夜明けの光が、遠くの水平線を染めていく。
風が波の間を抜け、白い飛沫を空へ運んだ。
私はその中を進む。
風が頬を撫でるたび、
胸の奥にしまっていた想いが少しずつ軽くなっていった。
ふと立ち止まると、
崖の向こうに丘が見えた。
緑の中に、白い石造りの門がぼんやりと立っている。
“記録の庭”――その言葉が頭をよぎる。
あの場所に、風は還るのだろうか。
それとも、私自身が還るのだろうか。
確かめるために、私はもう一歩、前へ出た。
その瞬間、懐中時計の音が止まった。
風の音だけが残り、
世界がひとつ息を吸い込んだように静まり返る。
そして――
新しい風が吹いた。
頬を撫で、髪を揺らし、
私の背中を押して、前へと進ませる。
その風の中に、確かに聞こえた。
「行って。」
クロの声だったのか、ヒカリの声だったのか、
もうわからない。
でも、それで十分だった。
私は微笑んで、もう一度だけ潮の館を振り返る。
窓の向こうで、カーテンがゆっくりと揺れていた。
まるで、手を振ってくれているように。
――そして、風は記録の庭を目指した。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
これで第二章「潮の彼方の声」は一区切りになります。
この章では、シロが“受け取る人”から“歩き出す人”へ変わっていく過程を描きました。
静かな物語ではありますが、
読んでくれた方の中で少しでも風が吹いたなら、それだけで嬉しいです。
毎回、読んでくださる方に支えられて、
ここまで続けてこられました。
本当にありがとうございます。
次回からは、**第三章「記録の庭で」**に入ります。
潮見の館を離れたシロが、新しい風の行方を追いかけていく章です。
少し雰囲気が変わるかもしれませんが、
よければこれからも見届けてください。
――凪雨カイ




