おけやのたがめ
世の中、変わった趣味をお持ちの方がいらっしゃるもんで、田んぼによく棲んでいる虫のタガメ。これを捕って来て、庭に池を掘って、タガメを飼う、なんてぇ特異な人もいるもんでございます。地域によっちゃぁ、そのタガメをタンパク源として食べていた、なんて記録もあるぐらいで。イナゴを食べるんだから、タガメを食べる文化があっても何ら不思議じゃぁございません。それくらい、人間と関わり合いのある虫でございましてぇ、
ここに、桶屋の若旦那がおりまして、田んぼでタガメを捕まえて参りました。それはそれは、大きくて、見事なタガメでございまして、こいつぁは珍しくてぇ面白いってんで、飼ってみることにしました。
商売が、桶屋ですから、タガメを飼う桶には事を欠きません。なにしろ売る程、桶がございます。
真新しい桶に、立派なタガメを入れて、飼い始めるんでございますがぁ、そこは、落語に出てくる若旦那。辛抱とか我慢とか、そういうものが大嫌いで、タガメを一生懸命面倒みてやっていたのは、最初の二日。三日目には飽きてしまい、放り出す始末。まったく飽きっぽくて仕方がない。捨ててしまえばそれで済むんですが、他の奉公人の手前、また若旦那が気まぐれでタガメを飼って、飽きたから捨てた、なんて言われるのも癪だから、それも出来ない。
そこに運悪く、小僧の定吉がやって参りまして。
「おい、定。定吉やい。」
「ああ、若旦那。何か、ご入用でございますか?」
「お前、耳がついてるんなら、すぐに返事をおし。」
「へぇ。」
「ところで定吉。お前、今、何か、用事を言付かっているのかい?」
「へぇ。特には。」
「そうかい。そうかい。それじゃぁ定吉。今日からお前、このタガメの世話をするんだ。いいね?」
「へぇ。ですが若旦那。これは若旦那が育ててらっしゃるって、聞いてますけど?」
「定吉。お前ねぇ、小僧のくせに口答えするんじゃぁないよ。あたしが世話をしろ、と言ったんだから、黙って世話をすりゃぁいいんだよ。」
「へぇ。ですが若旦那。・・・・あたしも旦那様から若旦那の言う事は、聞かないようにと、言われておりましてぇ。へぇ。」
「親父が? あたしの言う事を聞かないように? へぇ? 定吉。あたしの言う事と親父の言う事、お前はどっちを聞くんだい?」
「へぇ。それは旦那様でございます。・・・・給金をいただいているのも旦那様でございますし。」
「・・・・・・・いいかい、定。あたしはねぇ親父の倅だよ。あたしが言う事は、親父が言っているのと同じだよ? 倅なんだから。」
「へぇ。 確かに。」
「いずれ、この店も、お前達、奉公人もぜんぶ、あたしが店を引きつくんだ。そうしたらお前、誰が、主人か分かるかい? 言ってごらん?」
「へぇ。若旦那でございます。」
「そうだろう? じゃぁ定吉。あたしの言う事を聞いて、このタガメの世話をするんだ。いいね?」
「へぇ。若旦那。・・・・ちょっと、話が、よく分からなくなっちゃうんですけど?」
「お前は本当に物覚えが悪いねぇ。もう一回、言うよ? あたしは親父の倅だ。店を引き継ぐ。そうしたら、旦那は誰だい?」
「へぇ。若旦那でございます。」
「じゃぁ旦那の言う事を聞くのが、小僧の筋だろう?」
「へぇ。」
「いいかい、定吉。じゃぁ、任せたよ?」
「旦那、旦那、若旦那~」
うまく小僧さんを言いくるめるのも若旦那の特技でございまして。
一つ、仕事が増えてしまって、困ってしまったのが定吉でございます。小僧さんっていうのは、丁稚奉公ですから、朝から晩まで、家の事から店の事。何から何まで雑用を任されるのが仕事のようなもので、言われた事をやっていたら一日、二十四時間じゃとてもじゃないが、終わる事はありません。そもそも小僧さんに頼んだ事すら忘れてしまう事も、まま、あったと言われております。
タガメの世話と言っても、タガメに餌をやればいい程度に、定吉は考えておりまして、朝起きて、木にひっついている毛虫かなんかを捕まえては、桶の中のタガメにくれてやりました。タガメは雑食ですから、小さい虫は食べてしまいますし、その巨大な鎌みたいな手を使い、自分より大きなカエルやヘビまで食べてしまう事もあると言いますから、驚きです。
いくらタガメとは言え、生き物ですから、定吉も飼っていればだんだん愛着も沸いてくるもんです。
定吉にとって、厄介なのが、忘れた頃に、タガメを見に来る若旦那でございます。自分じゃぁ世話をしないのに、定吉が世話をしているか、思い出した頃に、やって来て、タガメの世話は順調かい?タガメは元気にやってるかい?なんて、言われる始末で、定吉もタガメの世話に気が抜けません。
忘れた頃に見に来るほど、厄介なものはありませんから。
ところがある日、いつものように餌を持って、タガメの様子を見に来ると、タガメの姿がありません。
定吉の顔から、血の気が引いて、みるみる顔が青くなっていくのが分かります。理不尽な事をいう若旦那であっても、そこは、若旦那。逆らえるはずがありません。すぐにタガメを探しますが、思い当たる所にはおりません。
「タガメや~い、タガメ! ガタメや~い、いたら返事をしておくれぇ~」
タガメが返事をしてくれたら尚の事、良かったのかも知れませんが、そこまで仕込まれたタガメじゃありませんからもちろん返事をしてくれる訳もありません。若旦那に見つかる前に、どうにかするしか方法がなく、探した所で見つからないんじゃ捕まえるしかない。考えたのは、急いで田んぼに行き、タガメを捕まえて来る事でした。血相を変えた定吉が、田んぼに向かって走って行ったのは言うまでもありません。
「おや、定吉。」
「へぇ。若旦那。何かご入用でございますか?」
「お前、このタガメ。前より、小さくなっていないかい?」
「へぇ。・・・・気のせいじゃございませんか?」
「そうかい? 前はもうちょっと大きかったような、気がするんだけどねぇ。」
「へぇ。 若旦那はタガメの顔が分かるんでございますか?」
「そりゃぁお前。あたしは、人間の顔なら判別つくが、さすがにタガメの顔までは覚えちゃいないよ。」
「へぇ。」
「でも、お前、これぇ、前に比べて小さくなっていないかい?」
「へぇ。最近、タガメもダイエットしておりまして。」
「ダイエット?」
とか言って、うまく若旦那を煙に巻くことが出来たわけでございます。
ところが。また、捕まえてきたタガメがどっかにいなくなってしまいました。一度あることは二度ある、三度あると言いますから、定吉も、桶の周りを探しますが、タガメの姿がありません。近くにいてくれていれば運の字ですが、そうは上手くいかないようで、
「タガメや~い、タガメ! タガメ、いたら返事をしておくれ~」やはりタガメが返事をしてくれるでもなく、埒が明かないので、またしても、田んぼにタガメを捕りに向かいます。
「おや、定吉。」
「へぇ。若旦那。何かご入用でございますか。」
「お前、このタガメ。やけに大きくはないかい?」
「へぇ。そうでございますか?」
「前より大きくなっていないかい? 一回りは、大きくなっている気がするんだけどねぇ。」
「へぇ。若旦那。ダイエットに失敗して、リバウンドしてしまいました。」
「リバウンド?」
「へぇ。」
「定吉。・・・・今度、ライザップに連れて行ってやろうじゃないか」
なんて、若旦那を煙に巻いたまでは良かったんですが。
今日は朝から主人の機嫌が悪く、番頭や職人、奉公人が集められて、小言の雨あられ、雷が鳴る始末。その原因と言えば、旦那が可愛がって育てていた鯉が死んでしまったからで他にありません。
「お前達、あたしはねぇ、別に責めている訳じゃぁないんだよ。あたしが鯉を可愛がっていたのは知っていただろう? それなのに、誰も、鯉の異変に気が付かなかったのかい?昨日までは元気に泳いでいたんだよ?
番頭さん、お前さん、何も気づかなかったのかい?」
「へぇ。旦那様。わたしは何も。」
「職人頭のトラさん。あんたは、何も、見てなかったのかい?」
「へぇ。旦那様。あっしはお庭の方には滅多に顔を出さないもんで。へぇ。」
「女中頭のお稲さん。お前さんは、どうだい?」
「へぇ。わたしは奥様の言いつけがない限り、こちらに入る事はございませんが、・・・そういえば、」
「そう言えば、何だい?」
「へぇ。若旦那が最近、タガメを飼い出した、と、お伺いしましたが。」
「・・・倅がかい?」
「ああ、それなら、わたしも若旦那から聞かされました。立派なタガメを捕って来たから、飼っているって。」
「あっしも、伺いました。大そう、立派なタガメだとか。」
「タガメを飼っていたのかい?」
「へぇ。」
「タガメっていうのはねぇ、雑食なんだ。メダカや金魚ぐらいじゃぁ食べてしまうんだよ。ヘビやカエルだって食べてしまうんだ。」
「へぇ。そんな自分より大きなものまで、食べてしまうんですか?」
「聞いた事がありますねぇ。」
「お前達、倅がタガメを飼うって言った時、どうして止めなかったんだ! タガメに鯉が食われたんだ。 いいから倅を呼んできておくれ! あの放蕩息子は何をしているんだい、まったくぅ。」
「お父さん、何か、ご用かい?」
「ご用も、ろく用もあるかい! お前ねぇ、タガメを飼っていたんだってぇ?」
「ええ。そうですよ。お父さんもお耳が早い。とても大きくて、艶もあって、大そう立派なタガメですよ?」
「この大馬鹿息子がぁ!」
「痛い、なにするんだい? いくら父親だってぇ手ぇあげていいってもんじゃぁないですよ?」
「お前、あたしが鯉を大事に育てているのは知ってるねぇ?知らないとは言わせないよ? それが何だ? 事を欠いて、タガメを飼っただ? お前が飼ってたタガメをあたしの鯉を食っちまったのさ!」
「そんな馬鹿な、あんな大きな錦鯉を食べるタガメがいるはずないじゃないか?」
「馬鹿を休み休み言うのは、お前の方だよ! タガメはねぇ、自分より体の大きな魚だって食べてしまうんだよ! お前、タガメをちゃんと見張っていなかったのかい?」
「・・・・・タガメの世話は、定吉に任せていたんだ。」
「この馬鹿は、今度は、定吉に責任を押し付ける気かい? あたしは情けないよ?」
「ちょっと待ってくんなさいよ、お父さん。少しはあたしの話も聞いて下さいな。ポンポン、ポンポン、叩くのも構わないが、少しは話を聞いて下さいな。
いやね、あたしも最初は面倒を見てたんだけど、面倒くさくなっちまってねぇ、世話を定吉に任せたんだ。定吉はそりゃ大事にあたしのタガメを飼ってくれていたんですよ、そのタガメが鯉を食うなんて、信じられないんですよ?」
「おい、定。定吉。」
「へぇ。旦那様。何かご入用でございますか?」
「定吉。お前、この馬鹿に頼まれて、タガメを飼っていたって言うのは本当かい?」
「へぇ。旦那様。 ああ、・・・・・・・。」
「なんだい、ハッキリしないねぇ。」
「へぇ。旦那様。旦那様が、若旦那の言う事を聞くなと、若旦那に申し上げましたら、俺は、旦那様の倅で、いずれ、店を継ぐ。そうしたら誰が旦那だか言ってごらんと言われまして、それは若旦那だ、と。旦那の言う事は、聞くもんだと言われまして、それで、・・・・へぇ。」
「よくもまぁ、そんな屁理屈を。定吉。お前もお前だ。あたしがあれほど、こいつの言う事を聞くなと言っていたのにも関わず、言う事を聞かないから、こんな事になるんだ。」
「へぇ。でも旦那様。若旦那の言う事も一理ありますし。」
「一理も百理もない!」
「へぇ。」
「まぁそれはいい。それより定吉。お前、飼っていたタガメは今、どこにいるんだい?」
「へぇ。庭先の、あの、桶の中に。」
「どれ、・・・・・・いないじゃないか?定吉、いないじゃないか?」
「へぇ。時々、いなくなってしまうんですよ。へぇ。」
「いなくなる? お前達は、タガメが飛ぶ事も知らないのかい? タガメは飛んで、池まで行ったんだ。そりゃぁ池の方が広いからねぇ。そうしたら、そこにあたしが育てた鯉がいて、それを食べてしまったんだ。」
「タガメが飛ぶ?」
「タガメは飛ぶんですか?」
「お前達のせいで、あたしの大事な鯉が食われて、死んでしまったじゃないか。どう責任を取るつもりだい?」
「桶屋ですから、今度は飛ばないように、蓋をします。」
桶屋のタガメというお話でございました。