第七話 同窓会
前回から、少し時間が経ってしまいました。
「ただ、ひとたびの……」いよいよ完結! ……しませんでした。
樅の木は、ずっと考えていた。座敷童が残した言葉の意味を。
少女の姿をした妖怪は樅の木に言った。「ずっと側に居る約束だった」と。
何を、忘れているというのだろう。何を忘れてしまったのだろう。樅の木は自らの右側、ちょうど校舎を中心直角に線を延ばした場所を伺う。
雑草が茂るその場所に、かつて一本の木が植えられていた。
花が咲く時を心待ちにしていた子供達が「とうとう花をつけなかった」と嘆いていたので、すっかりそのつもりでいたが、樅の木は知っている。その木は一度だけ花をつけた筈だ。十二月の、校庭を飾るランタンの光の中に、ひっそりと浮かび上がる白い花に気づいたのは、樅の木だけだったのだろうか。
あれは何の木だったのかと誰かに尋ねたいが、あいにくここでは樅の木が一番の年長者になってしまっており、その問いに答えてくれる者はいない。
もう何十年も前の事を、ただ回想するだけ。
気が付けば、かなりの歳月が経っていたようだ。同じ校庭に芽生えた若木の生長から、やっとそれに気が付く。
このところ、どうにも調子が悪いようだ。少し梢を動かすと、ひどくきしんだ。いつの間にか大層な時間が流れ、しなやかさが失われてしまったのだろうか。
誰も来ない、校庭。そういえば子供達がいなくなってからもたまに様子を見に来ていた男も、いつの間にか見かけなくなった。
そんなことを考えていると、不意に柔らかな風が樅の木の葉を揺らした。
じゃれつくように絡みついて来る、風。
(戻って来るよ)
そう、囁いて去って行く。
何度も何度も、そう囁く。
戻って来る? 何が?
樅の木は、風の声に耳を傾ける。風が運ぶ匂いを全身で受けとめる。それはひどく懐かしい匂いだった。
電話があったのは、十月の末だった。
『先生、お久しぶりです。江口蘭子です』
懐かしい筈のその声は、どこか落ち着いた大人の女性のものになっていた。
移転先を生徒全員に渡してから、何年になるのだろう。カオリは相変わらず、高知県で暮らしている。
かつての生徒達とはもうずっと、四季の挨拶状でしか連絡をしていない。
(桜の時期になりましたね)
(暑い毎日が続きますが、お元気ですか?)
(そろそろ、紅葉も色づきはじめましたね)
(明けましておめでとう。良い年になりますように)
そんなハガキを何度書いたのだろう。結婚してすぐに授かった娘が、もうすぐ九歳になるのだから……丁度、十年か。小学生だった蘭子も、きっと素敵な大人になっている筈。
「蘭子ちゃん? 本当に蘭子ちゃん? 本当に久し振りね。嬉しいわ」
自然と、テンションが上がる。
だが、電話越しに「そうですね」と応える蘭子の声は、あまり元気そうではなかった。
「蘭子ちゃん? どうかしたの? 何かあった?」
先を促すカオリ。沈黙の後で、蘭子の声が告げた。
『実は、あまり良い報告ではないんですけど、先生のお耳には入れておいた方が良いと思って』
蘭子から連絡があった翌日、カオリは横浜にある病院を訪れていた。
取るものも取りあえず家を飛び出してしまったので、見舞いの品は横浜で購入した。よくよく考えれば、お土産になりそうなものはいくらでもあったのに。
「カオリ先生、どうして……」
ノックをして病室に入ると、初老の男性が驚いたようにカオリを見た。そして、カオリの隣に立つ看護学生の制服を着た女性を見て、納得したように頷く。
「蘭子くんですね。心配をかけるから、誰にも言うなと言っておいたのに」
「後で知る方が辛い事もあるんですよ。校長先生」
実習中の看護学生――江口蘭子が少しきつい声音で告げる。ベッド上の人物――矢木は小さく肩をすくめた。
「ここの看護実習生さんは、怖い怖い」
「当たり前です。先生が入院されていると知った時は、こっちの心臓が止まるかと思ったんですから」
矢木の病名は「心筋梗塞」だった。病状は落ち着いているが、検査とリハビリテーションの為に一ヶ月程の入院が必要だと、先の電話で蘭子に聞いている。
「では、私は実習中なので失礼します。矢木さん、何かありましたらすぐにナースコールをして下さいね」
カオリと矢木に一礼をして蘭子が病室を出と、矢木は申し訳なさそうな視線をカオリに向けた。
「心配をかけてしまったようですね。実はもう、すっかり元気なんですよ」
「それは、先生が決める事ではありません」
驚いた分、安心すると同時に怒りのようなものがこみ上げてきて、カオリの口調は少しきつくなる。
「そ、そうですね。ところで、どうですか? カオリくんの方はお変わりないですか?」
慌てて話題を変える、矢木。カオリがくすりと口元を綻ばせた。
十年前と、矢木は少しも変わっていないことにほっとした。
「ええ。主人も娘も元気にしております。今日だって一緒に来たがっていたのですが、あまり大勢でお見舞いに来るのもご迷惑だと思いまして」
「そうですか。是非、会いたかったのですが。春香さん、でしたね。いくつになりましたか?」
「九歳です」と、カオリが答える。
春香。一人娘の名前は、力がつけてくれた。二月に生まれた子なのに。どうして「春香」なのかと聞くと、力は「生まれて来るのが女の子なら『春香』だと最初から決めていた」と語った。
「何となく、守ってもらえそうな気がして」と。「誰に?」と聞くまでもなかったし、良い名前だと思った。何よりその名前に「香」の一文字が入っているのが嬉しかった。
「退院されたら、娘を連れて遊びに行きますよ」
「いつか」という言葉を、カオリは十年間繰り返した。忘れたわけではない、約束。結婚して、春香が生まれ、小学校に通うようになって――ずっと、先送りにしてきた。時間は、いつまでもそこに留まってくれないのに。
「それは、楽しみですね」
おだやかに、矢木が笑った。
「朋あり、遠方より来る。また喜ばしからずや。まさにその通り」
「でも、二度とこんな事は勘弁してください」
不謹慎な言葉に、矢木を睨みつけながらカオリが告げる。あの頃よりも少し年老いた元校長は、おどけたように首をすぼませた。
「解りました。春香さんに会える時の為に、健康には十分に気をつけます」
「是非、お願いします」
と、矢木がやけに遠い目をしている事に気づく。
「先生? 具合でも?」
尋ねると、我に返ったように「いや」と首を振る。
「感慨にふけっていました。そうですか。カオリさんの娘さんが、もう九歳ですか」
沈黙。
くすりと、矢木が口元を綻ばせる。
「おかしな話なんですけどね、発作を起こした時、私の側に小さな女の子が居た……そんな、気がしたんです」
「女の子?」
矢木が頷く。
「私には、妹が居たんですよ。幼い頃に死んでしまいましたが。その――真結美がね、近くに居る気がするんです」
「先生?」
知らず、カオリが胸の前で拳を握りしめる。どきりとした。矢木は何故、そんなことを言い出すのかと。
ずっと昔に亡くなったという妹さんの話も、カオリにとっては初耳だ。
その子が、矢木の側に居る? どうして?
「変な話でしたね。すみません」
少し痩せた矢木の手を、カオリは握りしめた。
「先生の側にいるのは、生徒たちだけです。蘭子ちゃんも私も、先生が元気に退院される事を祈っています」
「そうですね」と矢木が笑う。
「そうだ、カオリ先生。蘭子くんから聞いていますか? 同窓会の話」
一変して、矢木は楽しそうにそんなことを言い出した。
「同窓会って?」
それに関しては、全く寝耳に水だ。
「蘭子くんや律子くんが幹事で、十二月に予定しているようですよ。だからそれまでに絶対に退院をしておけと蘭子くんが毎日うるさくて」
矢木が笑う。
「え? まさか、加美手島小学校の同窓会ですか?」
それを口にすると、とても懐かしい思いが胸にこみ上げて来た。
校庭の、樅の木。その根本に埋めた、タイムカプセル。篝火。生徒全員分の卒業証書。
避難所になった体育館で泣いていた小さな女の子は、今は看護士になるために勉強をしている。
「しかも、その時に素晴らしい発表があるそうなんですけど、蘭子くんはどうしても教えてくれないのです」
そう言って小さく嘆息する、矢木。
素晴らしい発表と言われても、見当もつかない。カオリの思考はまだあの時の小学校の校庭に飛んでいた。
恒例の、クリスマス。そういえばクリスマスカードもタイムカプセルの中に入れたのだった。
ここからは、西南の方角か。
窓の外を伺うカオリの目に、白い何かが舞い落ちるのが映った。
雪?
そう思って窓に近づき目を凝らす。
また、ひとつ。ふわふわと風に凪がされながら落ちていく……。
「どうしました?」
矢木の声に、はっと振り返る。
「いえ、雪が降って来たのかと思って」
「まだ、十月ですよ」
おかしそうに、矢木が笑う。確かに、こんな季節に雪はおかしい。鳥の羽毛か何かだったのかも知れない。
じっと窓の外を見つめるが、それは二度と落ちては来なかった。
「流音ちゃん? メールありがとう」
律子が、携帯電話を片手に幸せそうに微笑む。
『本当に、いつもいつも勝手に話を進めてくれる人ね。律子さんは』
電話口から溢れて来るのは、絶対に素直に「おめでとう」とは言ってくれない流音の言葉。
「あはは、相変わらずの毒舌、健在で嬉しいよ」
『誰が毒舌なのよ。これは、普通です』
「うんうん」と、律子が頷く。
「で、メールではよく解らなかったんだけど。手伝ってくれるんだよね? 幹事」
返事は「勿論」だった。
ふふふと律子が笑う。
実は律子と蘭子、流音とゆこの四人は学校が違うようになってから毎年、クリスマス前後に会う事にしている。
特に約束もなかったのだけど、その時期になれば必ず誰かから連絡があったし、律子だって誰かに連絡をしていた。
今にして思えば、いつかの「約束」を忘れない為だったのかも知れない。
『先に場所を決めないといけないと思ったんだけど、大体何人ぐらい集まる予定?』
そんなこと、律子にだって解るわけがない。一応年賀状のやりとりだけはしているが、それでも連絡先が解らなくなってしまっている子もいる。
「とりあえず、三十人弱の予定だけど……こればっかりは、蓋を開けてみないと解らないかも」
『じゃあ、質問を変えます。ひとり頭の予算はいくらぐらい?』
それも、悩んでいる所だ。
会場を横浜にするなら、少なくとも律子は横浜で一泊しなければならないことになる。だったらいっそみんなで一泊してゆっくり過ごしたいのだが、そうすると予算が高くなる。
予算が上がれば、集まりが更に悪くなるかも知れない。
そう言うと、電話口から呆れたような流音の声が帰って来る。
『結局、何ひとつ具体的に決まっていない、と』
「そう言われれば、そうなんだけど……。もう、流音ちゃんってば相変わらず毒舌なんだから」
『だから、これは普通です』
くすくすと笑う、流音の声。
『それにしても、律子さんがねぇ……』
「何よ?」
『キャビンアテンダントの夢はどうしたのかって思って』
それは、進学する時に挫折したんだから仕方がない。まぁ、志望校とは別の短大への進学を選んだ時点で、今のような未来が来るとは律子も思っていなかったのだけど。
「蘭子ちゃんは看護士さん。ゆこちゃんは先生だっけ。みんながんばってるよね。流音ちゃんは? 大学院に進むんだっけ?」
『そうね。まだ、研究を続けるつもり。そんな事より話を進めないとあっと言う間に十二月になっちゃうわよ……あら?』
唐突に、流音が変な声を出す。
「どうかした?」
『いえ。今、出先なんだけど。何か落ちてきたから。雪かと思ったけど、違ったみたい』
流音の言葉に、律子が小さく首を傾げて窓の外を見る。
空には、秋の星座が美しく輝いていた。
流音ちゃん、どうかしている。まだ十月なのに。
『あの、律子さん。今、思いついたんだけど。本当に思いついただけなんだけど』
いきなり、興奮した調子の声が携帯から響いてきた。
『横浜のホテルじゃなくて、加美手島で出来ないかしら。同窓会』
「え?」
思わず、携帯を落としそうになった。もう一度聞き返す。
『だから、島で。定期便は一日一本あるんでしょ? 島で、人が集まれる場所はない?』
そんなことが、出来るのだろうか。みんな、帰って来てくれるのだろうか。
知らず、律子の体は震えていた。思いつきもしなかった、そんなこと。
「解らない。出来るのかな」
『小学校の体育館とか、無理?』
「ごめん、ちょっと舵と相談してみる。後でまた電話するから」
有無を言わせずに電話を切り、律子は深く深呼吸をする。
ランタンと電飾で飾り付けられた、樅の木。燃えさかる、篝火。小学五年生の時まで、クリスマスはいつも、学校でお祝いをする事になっていた。
また、あの景色を見ることが出来るの? みんなと、お祝いをすることが出来るの?
もしも可能なら。樅の木にいっぱい飾り付けをしてみんなを待っていよう。
お料理も準備して。盛大にお祝いしよう。だって、自分達の披露パーティを兼ねているんだから。
流音の提案を煮詰める為に、とりあえず部屋を飛び出す。
(ありがとう)
そんな言葉が聞こえた気がして、振り返る。だがそこには誰もいなかった。
律子は苦笑して、怪談を駆け下りる。今の流音の提案を、現在の第一の相談相手である彼に伝える為に。
蘭子が、幹事に宛てられた開催地と日程の確認メールを受け取ったのは、十月の終わり。
日程は十二月二十五日。場所は加美手島小学校の体育館だという文字を見た時に、蘭子は目を疑った。
律子が土地の持ち主と交渉して、そこで同窓会が出来るように働きかけてもらったそうだ。建物の点検と整備も、地主が請け負ってくれた。
「子供達が、もう一度帰って来てくれるのなら」と、地主である老人は喜んで協力してくれたらしい。
信じられなかった。
あの場所で同窓会を開く事が出来るのだ。しかも、クリスマスに。
何度も夢に見た。島を離れてから、何度も何度も夢に見たのだ。今度もまた夢のような気がして。
いや、夢じゃない。今度こそ本当に、あの懐かしい小学校でクリスマスパーティを開く事が出来るのだ。
作りかけていた「同窓会のご案内」の往復ハガキを完成させ、ポストに投函する。
返事は着々と届いた。
裕くん、美智花ちゃん、サキちゃん、ミコトちゃん。それに、先生方。
「おじいちゃんも参加したいって言ってますけど、良いですか?」そんなコメントまで届いたので。「おじいちゃんの参加を、心待ちにしています」と返事をしておいた。
「いつか」って、ずっと思っていた。看護士を志望したのだって、「いつか」を「いつか」で終わらせない為。
看護士になって、加美手島に戻る。そう決めたから。
それより前に、あの島に戻る事が出来るんだ。そう思うとわくわくした。でも――ひどく、不安にもなった。
学校の屋上から見た、津波でえぐられた街の風景。それは今でも蘭子の心の奥に残っている。
あれから、十年になる。島は、一体どうなっているのだろう。
今でも自分達を、受け入れてくれるのだろうか、と。