第六話 「いつか」
星陵学園からの援助の申し出があったのは、地震の日から四日後の事だった。
未だ船の便も混乱していたが、それでも星陵学園の理事の数人が他の支援者達を伴って加美手島を訪れたのは、その更に数日後。
早急に説明会が開かれ、教育委員会の面々や保護者、教師たちが一同に会する。
公民館はやはり被害を受けていたので、会議は小学校の会議室で行われた。
星陵学園の援助の内容は、島に住む子供達を一時的に預かる準備が出来ているというものだった。
政府の支援策を待つのもひとつの手だろう。だが、それを待っている間に、子供達の貴重な時間が失われるのは、あまりにも不憫だ。
それが、星陵学園の提案の根幹だった。修学や進学を一番の目的とするならば、星陵学園には、加美手島小学校と中学校の生徒全員を三年間授業料全額免除で預かる用意がある。また、生徒達が高校や大学に進学するつもりでいるのなら、それに対する支援も考えている。
そんな説明に、保護者の間にざわめきが走る。
それは、とても有り難い申し出だった。だが、その説明では支援を受けることが出来るのは子供達だけだと受け取れる。
「子供達と別れて暮らせとおっしゃられるのですか?」
即座に上がった質問に対する、星陵学院側の返答は「この島を出る覚悟があるのなら、仮住まいの提供は出来る」というものだった。
使われていなかった学生寮の改装は、既に進められていると。
「この島を離れて、今更どうやって生きて行けと言うのだ」
忌々しげにそう言ったのは、舵の祖父である俊衛門。島の漁師や農家の人々が不安そうに目を見交わす。
「その点に、関しましては、私が説明します」
そう言って立ち上がったのは、若い青年事業家だった。首からかけたネームプレートにはなにやら横文字の会社名が書かれている
「私は関西でベンチャービジネスを立ち上げております、真浦塚と申します。当社が行っている事業は、簡単に言いますと地域の特色を生かした良質な商品を、独自のネットワークを使って個人に提供するというサービスです」
生産者の顔が見える商品。顧客が安心できる製品を作る所から始めたのだと、真浦塚は語る。
「一番に行ったのが、その地域に合った安全で良質の製品を確実に作る事。そして、その商品を全国に届ける事。どれほど顧客を増やしても、商品が悪ければ何の意味もない。ですので、我々は様々な地域に社員を派遣しております。皆様が今までに培ったノウハウが是非、欲しい。残念ながら皆様全員を抱えることは出来ませんが、やってみようと思われる方は後ほど改めてお話を聞いて頂きたい」
「体力が残っている間に、動け、か」
そう言って俊衛門が薄く笑う。
「体力がない者は、死ねと言う事か」
「じいちゃんにはまだまだ死んでもらったら困ります。ボクは、じいちゃんの魚を食べて大きくなったんだから」
と、真浦塚の側でそんな言葉を発した若者が居た。俊衛門が、矢木が、カオリもそちらを見る。
そして目を疑った。その発言をしたのが、地震の前に「クリスマスに帰る」とメールをもらって以来、一度も連絡がなかった崎谷力だったから。
「もしかして、崎谷の息子か」
「力くんか。立派になって」
そんな言葉が、あちこちから上がる。
「はい。崎谷力です。現在は高知県で、その地域に適した新しい農作物を研究しています」
そう言って、力はそこに居合わせた人々をぐるっっと見回した。
「そこで生まれた技術を持って、この島に帰ってくるつもりでした」
その視線が、カオリの前で止まる。
何故か、カオリの胸が高鳴った。
「残念ながら、その技術はまだ完成していません。なので、皆様の力を貸してください。高知県は、この島と気候が似ている。みなさんの知識と経験が、必ず役に立ちます」
「農業は良いとして、漁業はどうなる?」
尋ねたのは、俊衛門。
「リキちゃんに聞いてるよ。おじいちゃんの孫はうちが預かる」
そう言ったのは、見知らぬ年かさの女だった。日焼けした肌はシミだらけだが、明るい笑顔が場の空気を和ませる。
「うちのとうちゃんが、ちゃんと面倒見る。大学に行きたいのなら、それまで待っても良いし。もちろんおじいちゃんもまだまだ隠居してもらったら困るわ。うちらに力、貸しておくれ」
豪快に笑う、女。
「おじいちゃんもまだまだ動ける。働けるって。だから力になってもらわんと困るわな」
小さな拍手が起こり、俊衛門が恥ずかしそうに着席した。
説明会が終わると、星陵学園の理事をはじめとする支援を提案する人々は、島民たちにもう一度見舞いと労いの言葉をかけて去って行った。
なんだかんだ言ってみても、彼らには所詮帰る家があるのだから。そんな言葉を吐き捨てた人間も居るには居たが、小さな呟きに過ぎなかった。
島の人々は、まだ迷っている。
だが、子供達は星陵学園に預かってもらう方向で話が進められた。
冬休みに入る前に転入の手続きを終えれば、来年からは全員が星陵学園の生徒として迎え入れられる。
加美手島小学校では授業再開の目途も立っていない。それどころか明日の生活さえ危ぶまれるのだから、それが子供達の為であると、誰もが納得した。
そう、カオリも納得できた。それが、子供達との別れを意味している事は知っていたが。
「びっくりしたわよ」
何故かひとり残った力に、カオリが話しかける。
「来るなら来るで、教えてくれたら良いのに」
「だって携帯、繋がらないし。ま、カオリさんが無事なのは解っていたから、ボクもやっと落ち着いて動けたんだ」
地震の当日は、災害専用チャンネルでずっと被害状況をチェックしていたのだと、力は語る。懐かしい人たちの無事を知るまで、生きた心地がしなかったと。
「何が出来るんだろうって、ずっと考えていた。そうしたら、創平くんや義一くんからも連絡があったんだ。自分達に出来る事がないのかって」
「創平たちも」と、カオリが呟く。
とりあえず、両親は創平に預かってもらうつもりだった。創平も生活が大変だろうが、両親はまだまだ元気だし、それぐらいの事はしてくれるかなと。
カオリが思っていた以上に、弟たちはこの島の事を考えてくれているのだ。それが、有り難かった。
「で、ボクも考えて、自分だけではどうにもならないから、社長に相談してみた」
「力くんも真浦塚さんの所で働いているの? 高知県で新しい農作物を作っているって、初耳なんだけど?」
カオリに指摘され、力は少し困ったように頭を掻いた。
「それぐらいの土産がなければ帰れないってずっと思っていたんだ」
「ばかね、そんなわけないじゃない」
「いや、それぐらいでないと……」
何故かもごもごと語尾を誤魔化す、力。彼らしくないはっきりしない様子に、カオリが小さく首をかしげる。
「何でもないよ」
どんな理由でか、力は話す気はないようだ。
仕方ないので、さっきから聞きたかったことを切り出した。
「でも、社長さんも思い切ったよね」
「思い切った?」
四十歳ぐらいだっただろうか。まだ、若い社長だった。畑を耕し、作物を得る喜びを熱く語っていたのが、なんだか嬉しかった。多分、この人は農家の出身なんだろう、そして新しい日本の農家の在り方を考えてこんな会社を興したのだろうと想像した。
でも、そんな彼も、この島の人々全員を、ひとりで支えることなんか出来るわけがない。
「共倒れになるとは、思わなかったのかなって」
「なって、何が悪いのさ」
力が憮然と反論する。
「みんなでがんばって、それでも共倒れになるなら、それは社会の方が間違っていると思わない?」
それは、大学生時代からの力の口癖だった。
続くのは「社会の方が間違ってるのなら、それを変える義務があると思わない?」だったか。
「相変わらずの、理想主義者」
「それの、どこが悪いのさ?」
ますます憮然とする、力。それは、カオリのよく知る彼だった。
「悪くない。全然」
そう。理想主義者で、しかもポジティブ思考。座右の銘は「何があっても、なるようにはなる」だったか。そんな彼を苛立たしく思ったりもした。でも、今なら解る。ずっとそんな一本の筋を通している彼が、好きだった。
「悪くないけど、ちょっと心配になっちゃっただけ」
なるようには、なるのだろう。でも、きっと力はもっともっと時間をかけて何かをしようとしていた筈。そんな時に焦っても、良いことなんかきっとない。
「心配? カオリさんには、肝心なところを任せようと思ってるんだけど?」
え? と顔を上げたカオリの目の前に、力の顔があった。
「ボクと一緒に、生きて欲しい」
どきんと、心臓が跳ね上がる。
「え?」
「え?」
カオリの言葉をおかしそうに繰り返す、力。
「どういう事?」
「どういう事って……参ったな」
力の手が、カオリの手を取った。
見上げた彼の瞳の中に、はっきりと自分の姿が映っているのが見えて、やけに照れくさかった。
「一緒に高知に来て、ボクを支えてください」
それはまぎれもなく、力のプロポーズだった。そうと気づくのに、何十秒、もしかしたら数分かもしれない――かかった。
力はその間、ずっとカオリを見ている。
崎谷力くん。初恋の相手で、お別れの時は次の日に目が開かなくなるぐらい、泣いた。
でも、これはそんな幼い恋心などではない。
まだ見えない未来に、共に立ち向かう為のパートナー。力となら、一緒に何かを築いて行けると思った。
頷いたカオリを、力の腕が抱きしめる。その胸はとても広く温かかった。
余力が残されている間に動かなければならない時があると、矢木は言った。支援を申し出た漁師のおかみさんも似たような事を言っていた。
子供達は間もなく島を出て横浜へ行く。だったらカオリがこの島に残って出来ることは、残念な事に、ない。
だったら、力の側で彼と共に生きる。それがカオリの出した決断だった。
そこで自分の出来る事を探す。そして、いつかこの地に帰る方法を見つける。
どんなに時間がかかっても、いつか。
矢木校長から加美手島小学校閉鎖と横浜の星陵学園からの支援策についての報告があったのは、翌日だった。
校長からの説明を受けた、高学年の子供達は少なからぬ衝撃を受けていた。星陵学園の支援を受けるにしても受けないにしても、子供達には教育を受ける義務がある。そしてこの加美手島小学校で授業が行われる事はないのだ。
何が子供達の為なのか、誰もが考えて決断をした。その決断を、子供達にも理解をして欲しい。
校長の説明の後で、カオリが星陵学園の理事のひとりから預かっていた手紙を読んだ。
『加美手島小学校のみんなへ
お久しぶりです。クリスマスには、絶対に遊びに行くって約束していましたね。
私たちは、それをものすごく楽しみにしていました。クリスマスも楽しみだけど、みんなとまた会いたかった。特に流音ちゃんは、みんなとのお別れが本当に辛くて、帰ってからずーっと何にも手に付かなかったんだよ。
加美手島が大変な事になってしまって、ずっとみんなのことを心配していました。電話も通じにくいし、お手紙も届くかどうか解らなかったし。そうしたら先生が、みんなの方が横浜に来てくれるって教えてくれました。私も流音ちゃんも、ううん、星陵学園の生徒全員、みんなと同じ場所でお勉強出来る日を、楽しみにしています。星陵小学校 六年三組 竹内ゆこ』
「ゆこちゃん達はね、みんなの無事を祈って千羽鶴を折っていたんだって。ほら、それがこの写真だって」
色とりどりの折り鶴の写真が、子供達の手に渡る。子供達の間に、懐かしげな笑みがさざ波のように広がる。
蘭子が、意を決したように立ち上がった。
「みんなで横浜に行こう」
続いて、律子も。
「一緒に行こう。みんな一緒なら大丈夫だよ」
そう、なかには親と別れて暮らさなければならない子供だって居るのだ。それでも、仲間と一緒なら大丈夫だと律子が言う。
勿論、全員が同じ選択をするとは限らない。遠くの親戚を頼って、既に島を出た家族もある。
子供達の困惑は、なかなか治まらないだろう。何が正しいのか、カオリにだって本当は解っていない。それを口にするのは、許されなかったが。
「先生ね、タイムカプセルを埋めようと思うの。この中の誰かが、この島に帰って来た時の為に」
力と一緒に埋めたタイムカプセルの中に入っていたのは、懐かしいセピア色の思い出だった。
この生々しい現実が、いつかそんな思い出になる日の為に。
新しい一歩を踏み出すために、置いていかなければならない何か。自然への憤り、そして望郷、追憶、回顧。そんな思いの拠り所が、必要な時がきっとある。
「これ、みんなから預かったクリスマスカード。これをその中に入れて良いかな?」
膨れたA4版の封筒の中には、数日前にみんなが書いたカードが入っていた。
クリスマスは、来ない。子供達が心待ちにしていたクリスマスは、訪れる事はない。
「だったら、私も……」
蘭子の視線の先にあったのは、教室の片隅に飾られた――蘭子が見つけた時には机から落ちており、いくつかのパーツは完全に潰れていた――合宿の時にみんなで力をあわせて作った、夢の島のジオラマだった。
その中から、蘭子が白い建物を丁寧にはがす。
「これ、中に入れて良いよね?」
蘭子が作った、「加美手島小学校」。色鉛筆で教室にはカオリが、校長室には矢木が描かれている。
不覚にもわき上がった涙をなんとかこらえて、カオリは笑顔を見せた。
「じゃあ、みんな。明日までに中に入れるものを用意しておいてね」
翌日、カオリは朝から走り回っていた。
最初で最後だからというカオリの願いは、全て通った。
校庭でドラム缶風呂を沸かし、子供達をはじめ希望者全員に開放した。希望者が殺到し、おかげで何度もお湯を沸かした。地震の被災地とは思えないほど、ものすごく贅沢に。
理容師、美容師にお願いして、避難所の体育館に来てもらった。こちらにも希望者が殺到し、みな久し振りにすっきりとした顔になった。
冬の日はすぐに傾き、校庭ではいつものように炊き出しが行われている。煮炊きをする炎が、いつかの篝火のように校庭をオレンジ色に染めていた。
カオリは鍵付きのしっかりとした箱に自分の封筒を入れた。続いて蘭子が白い建物を、舵が船の模型を入れる。校庭の小石が、写真が、良い香りのする消しゴムが、学校のネーム入りの記念ノートが、春に作った押し花が、次々と投入され、やがて律子の番になった。
丁寧に折り畳まれた紙は、合宿の時の学級新聞だった。
「夢の島完成」の集合写真がトップ記事。絵の具まみれでがんばる友達の姿に、律子らしい面白いコメントがつけられている。
最後に、矢木が分厚い茶封筒を手に立ち上がった。
「先生、それは?」
言われて、矢木がその中から一番上の一枚を取り出す。達筆な文字で書かれたそれは、「江口蘭子」の名を記した卒業証書。
蘭子が目頭を押さえ、六年生数人が自分の名前を確認する。
六年生だけではない、五年生も四年生も……いや、加美手島小学校の生徒全員分の卒業証書が手書きされていた。
「形だけのものですが、みんながこの小学校に在籍していたという証ですよ」
タイムカプセルに蓋がされ、生徒を代表して蘭子が鍵をかける。
「それでは」
一礼をした矢木の声が、少し震えていた。
「加美手島小学校の皆さん、そして保護者の皆さん。校歌斉唱をお願いします」
篝火の中で、歌声が響く。
そう、それは確かに「加美手島小学校」からの卒業の日だった。
加美手島から、子供達の姿が消えた。
それに続くように一人、またひとりと人の姿がなくなっていった。
島に再び人が住めるようになるのか。以前と変わらぬ生活を出来るようになるのか。それすらも解らない。
「あのな、樅の木。うちもそろそろおいとましようって思ってるねん」
座敷童がそう告げたのは、春も近づいたある日。
「うちは、あんたとは違う。家に憑いて、その家に住む人々に力を分けてもろて生きてるんや。だから、人がおらんようになったら生きていかれへん」
そっと木の幹をさする、小さな手。
「ごめんな、ずっと側におるって約束したのにな」
約束? と、樅の木が思う。
いつの間にか、側にいる小さな妖怪。この妖怪と何かを約束した記憶はない。
「ああ、もう忘れてしもたんか。しゃあないな……」
座敷童は、ゆっくりと顔を上げる。樅の木が立つ場所から丁度対角線に学校を見据える場所。そこにはかつて、一本の木が植えられていた。この学校が生まれた時に植樹された数本の樹木。そのうちひとつは樅の木だ。岩手県から贈られた。
そして、京都府から贈られた木は一度も花をつけることもなく、枯れてしまった。
「それでも春はまた巡って来る」と囁いて逝ったのは、何の木だったのだろう。
「ほんまに、しゃあない木霊やな」
「お春」と名乗る座敷童が笑う。
「ま、ゆっくり思い出したらええわ。あんたには時間はたっぷりあるんやしな」
樅の木の根本にはまだ新しい土の盛り上がりがある。その中に込められた思い出は、樅の木の拠り所になってくれるだろう。
「ごめんな、寂しいやろうけど。元気でな」
そう言ってお春は駆け出した。校門に近づくにつれ、その姿がすうっと霞み始める。
いつ、帰って来るのか。
樅の木の疑問に答えるように、お春は振り返った。その唇が小さく動く。
「いつか」
声は届かなかったが、その唇はそんな形を作った。
それから、何年が過ぎたのだろう。十年? 二十年?
ちょくちょく顔を見せていた矢木も、姿を見なくなって長い。誰も、訪れる者はない。
それでも、必ず季節は巡る。
草刈りも、土いれも行われずに荒れ果てた校庭に、また十二月が巡って来ていた。