第四話 前編
待ち合わせの時間は午前十時。さすがはゴールデンウィークというべきか、平日であるにも関わらず人出は多い。待ち合わせよりも一時間前に駅に着いた冬葉はぼんやりと改札機を通って出てくる人たちの姿を見ながら「多いねー」と呟いた。
「ていうか、お姉ちゃん」
「んー?」
「早すぎない?」
隣で同じように改札の方を見ていた紗綾が言った。冬葉は苦笑する。
「やっぱり?」
「いくらなんでも一時間前は張り切りすぎだと思う」
しかしそうは言いながらも彼女の表情は不満そうではない。むしろ楽しそうである。昨日、寝る前の会話を忘れてしまったかのように紗綾の態度は普通だった。
元々ケンカをしてもすぐに仲直りする姉妹ではあるが、昨日のあれはケンカとも言えない。どちらかが謝るようなことでもない。だからこそギクシャクしたらどうしよう。そう思っていたのだが杞憂だったようだ。
「まー、お姉ちゃんのことだから先輩を待たせるわけにはって思ったんだろうけど」
紗綾はキョロキョロと周りを見渡しながら続けた。
「紗綾」
「なに?」
「もしかして探してる? 藍沢さんのこと」
「正解」
紗綾はニヤリと笑った。
「だって、お姉ちゃんが一時間前に来たってことは藍沢さんも待ち合わせ時間より相当早く来るタイプなんでしょ? だったらきっともうすぐ来るんじゃないかなぁって」
紗綾の読みは鋭い。先日、藍沢と一緒にカフェへ行ったときも同じように待ち合わせをしたのだが彼女の方が早く来ていたのだ。待ち合わせの二十分前に到着したにもかかわらず、だ。
何時から来ていたのか聞いても教えてくれなかったが、さすがに一時間前には来ていないだろうと予想して今日の出発時刻を決めた。予想は当たっていたようだ。
「お姉ちゃんの話だと普通に歩いてても目立ちそうな感じなんでしょ? わたしでもわかるかなぁと思って――」
紗綾は言葉を途中で切ると「もしかして、あの人?」と人混みの中を指差した。そちらに視線を向けると一人の女性が姿勢良くこちらに向かって歩いて来る。なんとなく周囲から目立って見えるのはその雰囲気だろうか。あるいは姿勢の良さか。
「遠目でもなぜか美人ってわかるんだけど……。なんで?」
紗綾も不思議そうに首を傾げている。
「綺麗な人ってさ、影すらも美人じゃない? だからだよ」
「……わかるんだけどまったくわかんないよ、お姉ちゃん」
呆れた声で紗綾は言う。そうこうしているうちに「あれ? 桜庭さん?」と驚いたような藍沢の声が聞こえた。いつの間にか藍沢が目の前に立っている。
「ごめん。わたし、もしかして時間を間違えてた?」
彼女は困惑したように腕時計に視線を向けた。
「いえいえ!」
慌てて冬葉は首を横に振る。そして「前回は藍沢さんが先に来ていたので、今回は負けないぞと思いまして」と軽く片手に拳を握った。藍沢は一瞬きょとんとしたが、すぐに吹き出すようにして笑う。
「なにそれ。何の勝負してんの?」
そして紗綾に視線を向けて「おはようございます。あなたが妹さん?」と首を傾げた。紗綾は「おはようございます! 桜庭紗綾です!」と元気よく頭を下げる。
「初めまして。藍沢ナツミです。桜庭さんだと紛らわしいから紗綾ちゃんって呼んでもいいかな?」
「はい、もうなんでも。あ、じゃあわたしもナツミさんって――」
「紗綾、調子に乗らないの。わたしだって藍沢さんって呼んでるんだから」
思わず紗綾を止めると藍沢が「じゃあ、桜庭さんもわたしのことナツミって呼んでよ。わたしも冬葉って呼ぶし」と冗談とも本気ともつかない口調で言った。
「え……?」
この場合、どうするべきなのだろう。先輩がそうしろというのならそうするべきだろうか。友人であるなら名前呼びも普通なのかもしれない。しかし藍沢は職場の先輩だ。そんないきなり慣れ慣れしく呼んでもいいものだろうか。
考えていると「それがいいよ。お姉ちゃん」と紗綾が言った。
「やっぱり桜庭さんって呼ばれるとわたしも反応しちゃうしさ。名前呼びの方が分かりやすくていいよ」
「それはそうなんだけど……。あ、だったらわたしのことは名前で呼んでください。わたしが藍沢さんを下の名前で呼ぶのはちょっと――」
「え、嫌? 呼びたくない?」
藍沢が悲しそうに眉を寄せた。
「いえいえいえいえ。そうじゃなくて! だって先輩なのに」
すると彼女は「いいよ、そんなの」と笑う。
「だって今は仕事じゃないもん。友達だから名前呼びも普通。だよね? 紗綾ちゃん」
「そうですね! 普通です」
なぜ紗綾は初対面の藍沢とこんなにも息ぴったりなのだろう。冬葉はため息を吐くと「わかりました」と頷く。
「じゃ、呼んでみて?」
藍沢はまるで子供のような笑みで冬葉に言う。その隣に立って紗綾も同じような表情で冬葉を見てくる。
「えー……」
「呼んでくれないと今日は帰ろうかな」
「えー、そんなことになったらわたし悲しすぎるんだけど」
まるで昔からの友達だったかのような二人のノリに冬葉は深くため息を吐く。そして藍沢に視線を向けた。頬が熱い。改めて藍沢を下の名前で呼ぶにはひどく勇気がいる。じっと見つめる彼女の顔には、なぜか期待したような表情が浮かんでいた。
「……ナ、ナツミさん」
勇気を振り絞って彼女の名前を呼ぶ。すると藍沢は心から嬉しそうに笑みを浮かべて「うん。行こうか、冬葉。紗綾ちゃん」と冬葉と紗綾の肩に手を置いた。
「行きましょう! 電車ですか?」
「そう。三番ホームね」
「はーい」
紗綾が嬉しそうに改札に向かっていく。冬葉はその背中を見失わないように目で追いながら力の入らない一歩を踏み出した。その様子に気づいた藍沢が首を傾げる。
「どうしたの?」
「……なんか、すみません」
「え、何が?」
「いや。なんか気を遣っていただいたんですよね? 紗綾に」
きっと紗綾が初対面で緊張しているだろうと思って接しやすい雰囲気を作ってくれたのだ。藍沢のテンションがいつもと少し違うのはきっとそのせいだろう。そう思ったのだが、彼女は「ううん? 違うけど」と心から不思議そうに首を傾げた。
「え、違うんですか?」
「うん。ただ名前で呼んで欲しかっただけ。無理言っちゃってごめんね、冬葉。でもすごく嬉しい」
そう言って彼女は子供のように笑う。
「え、どうして――」
「お姉ちゃん、ナツミさん! 早くー」
紗綾の声が響いた。冬葉は「わかったから大きな声出さないでよ、紗綾」と答えてから藍沢を見る。藍沢は優しい表情を紗綾に向けてから「行こう、冬葉」とその笑みを冬葉に向けた。
「あ、はい」
彼女と並んで紗綾の元へ向かいながら、なんとも言えないむず痒さに頬が熱くなる。
――落ち着かない。
蓮華から名前を呼ばれたときも似たような感覚だった。慣れないからだろうか。それとも名字呼びだったのがいきなり名前呼びになったからだろうか。
よくわからない感情は温かくて悪くはない。それはきっと家族以外から名前を呼ばれることが今までの人生でそうなかったからだろう。
冬葉は自然と笑みを浮かべながら楽しそうにお喋りをする紗綾と藍沢の隣に並んだ。
一時間ほど電車に揺られて到着したのは屋内遊園地だった。ジェットコースターなどのアトラクションはもちろんのこと、スケートリンクやVRゲームなどもある多様な大型遊戯施設のようだ。
「えー、なにここ! すごい! うちの方には絶対ないよ、こんなの。ね! お姉ちゃん」
紗綾のテンションが最高潮だ。珍しいこともあるものだと冬葉は苦笑する。
「わかったから紗綾、ちょっと落ち着いて。遊ぶ前から疲れちゃうよ?」
「そんな子供じゃないから大丈夫だって。それで、まずはどれから乗りますか? ナツミさん!」
電車での移動中、どうやら紗綾と藍沢はかなり親しくなったようだ。冬葉は眠気に襲われてウトウトしていたので何を話していたのかはわからないが、目覚めたときには紗綾はすっかり藍沢に気を許しているように見えた。藍沢は「そうだね、どうしようか」とフロアを見渡してから冬葉に視線を向ける。
「冬葉はどれ乗りたい?」
「へ?」
思わず変な声を上げてしまう。藍沢は苦笑して「慣れてよ、呼び方」と困ったように言った。
「すみません。でも、そんないきなり慣れませんよ」
冬葉はため息を吐く。そして「そうですね」とフロアを見渡した。まだ比較的時間が早いせいか、大混雑というほどではない。
「やっぱり人気のありそうなところから回るのがいいですかね」
「人気どころというと……」
「ジェットコースターだね!」
紗綾が力強く言ってコースターの入場口へ向かっていく。冬葉と藍沢は顔を見合わせると同時に微笑んで彼女の後に続いた。
「元気だね、紗綾ちゃん」
「そうですね。いつもはもっと大人しいというか冷めてるんですけど……。なんだか藍沢さ――」
「ナツミ」
鋭くチェックが入った。見ると、藍沢は不満そうに少し眉を寄せている。
「えっと……。ナ、ナツミさん」
冬葉が言い直すと彼女はニコリと笑った。
「うん。なに?」
「……ナツミさんのこと好きみたいで。いつもよりかなりテンション高いんですよ」
冬葉は苦笑しながら言った。藍沢は「ふうん」と頷くと「冬葉は?」と小さな声で聞いた。
「え……?」
「紗綾ちゃんはわたしのこと好きなんでしょ? 冬葉は?」
そう聞いた彼女の声はさっきまでとは違って少し低い。
「え、そりゃ好きですけど?」
首を傾げながら言うと藍沢は安堵したように「そっか。じゃあいいや」と笑った。
「え? あの――」
「お姉ちゃんたち遅いってば!」
ふいに紗綾の声が響いた。いつの間にか彼女はすでに列に並んでしまっている。
「ちょっと紗綾、待ってよ。お姉ちゃん絶叫系苦手なの知ってるでしょ?」
「え、そうなの?」
藍沢が目を丸くする。冬葉は深くため息を吐いて「はい」と頷いた。
「早く言いなよ」
「言い出す暇が無かったじゃないですかー」
「たしかに……」
藍沢は苦笑してから「どうしようか」と紗綾の方を見ながら困ったような表情を浮かべた。
「藍――ナツミさんは大丈夫ですか? 絶叫系」
「うん。わたしはむしろ好きな方」
「あ、じゃあ紗綾と一緒に乗ってきてくれませんか? わたし、ここで待ってますから」
「え、でも」
「どうせコースターって二人で一組ですし。妹の相手を任せてしまって申し訳ないですが」
「それは全然。じゃあ、行ってくるね?」
「はい。よろしくお願いします」
冬葉は藍沢に一礼する。それでも藍沢は何か言いたそうな表情をしていたが、やがて「よし。冬葉のこと紗綾ちゃんに色々聞いとこう」と呟きながら去って行った。
「え、ちょっとナツミさん?」
しかし藍沢には声が届かなかったのか、彼女はそのまま紗綾の隣に並んだ。そして楽しそうにお喋りを始めている。紗綾の表情に緊張はなく、本当に心を許しているようだ。
意外だった。
元々、紗綾は人見知りはしない子だ。しかし人懐こい子でもなかった。冬葉と違って警戒心が強く、表面上の付き合いが上手な子なのだ。それなのになぜか藍沢に対してはこんなにもすぐに心を許している。あんなに楽しそうに笑っている。よほど気が合うのだろうか。あんな安心しきった笑顔を見たのはいつ振りだろう。
――ちょっと悔しいな。
この悔しい気持ちは紗綾が自分以外の人と楽しそうに過ごしているからか、それとも藍沢が冬葉以外の人に優しい笑みを向けているからか。あるいはそのどちらもなのか、よくわからない。
冬葉はしばらく二人の楽しそうな姿を眺めてから近くのベンチに腰を下ろした。考えてみれば藍沢も今日は少しテンションが高い。遊園地が好きなのだろうか。それで楽しくなって紗綾のテンションに巻き込まれてあんなことを聞いてきたのか。
――好きって、友達としてだよね?
しかし、そう聞いてきたときの藍沢の表情が気になる。一瞬だけ見えた彼女の表情は何かに怯えているように見えた。だがすぐに笑顔になったのでその表情の真意がわからない。
冬葉は列に並ぶ二人の背中に視線を向ける。まだ少し時間がかかりそうだ。
――紗綾、なんで蓮華さんにはあんな態度だったんだろう。
蓮華は気を悪くしていないだろうか。自然とスマホを取り出すものの彼女の連絡先を知らない。蓮華の声を聞けるのは、あの公園でだけ。
――寂しいな。
今日、公園で会ったときに連絡先を聞いてみようか。そうしたら藍沢のようにいつでも連絡が取れる。いつでも声を聞くことができる。そしてきっと、もっと彼女のことを知ることができる。
冬葉はスマホを収めると再び紗綾たちに視線を向けた。そのとき藍沢と目が合った。その表情がどこか寂しそうに見えたが、すぐに彼女は紗綾の方に顔を向けて笑顔を浮かべた。
「……気のせいかな?」
頭上のレールを猛スピードでコースターが駆け抜けていく。そのローラーの音と客の楽しそうな悲鳴に反応するかのように、列に並ぶ二人が同時に笑ったのが見えた。