第三話 後編
「紗綾、お姉ちゃんは怒ってるよ」
アパートに戻り、スーパーで買った昼食の弁当を一緒に食べながら冬葉は言った。
「怒ってるの? なんで?」
まるで心当たりがないとばかりに彼女は首を傾げる。冬葉は「なんでって……」とため息を吐いた。
「あの態度は良くないでしょ? お姉ちゃんの恩人に」
「ああ、あれ。だってさ、チャラそうだったんだもん。あの人」
「チャラ……?」
紗綾は頷く。
「なんか軽いっていうかさ。絶対にお姉ちゃんのことたぶらかしてるでしょ、あの人」
「わたしを? 蓮華さんが?」
冬葉は眉を寄せてしばらく考える。そして「どういう意味?」と首を傾げた。紗綾は深くため息を吐くと「いいよ、もう」とご飯を口に運ぶ。
「そう?」
いいのならいいか、と納得して同じようにご飯を口に運んだ冬葉だったが、すぐに「いや、良くないよ!」と声を上げた。
「食事中にあまり話すのは行儀良くないんじゃなかった?」
「そうだけど、でもやっぱり蓮華さんにあの態度は良くないよ。せっかくできた友達なのに」
「友達、ね」
紗綾は呟くように言うと小さな声で「向こうはどうかな」と続けた。
「どうかなって……?」
「お姉ちゃんに変な虫がつかないか心配ってことだよ」
紗綾は残っていたおかずもすべて平らげて空箱をゴミ箱へと持っていく。
「だからどういう意味?」
「しーらない」
紗綾はそう言うと「さて!」とスマホを取り出した。
「明日、どこ行く? せっかくこっちに来たんだし、色々案内してよ」
「いいけど、お姉ちゃんほとんど遊びに行ってないから遊べる場所わかんないよ?」
「えー。ここに来てもう数ヶ月でしょ? まったく遊びに行ってないの?」
「んー」
冬葉は考えてみるものの、やはり紗綾が喜びそうな場所は思いつかない。しかし、たしかにせっかく会いに来てくれたのだ。どこにも行かないのは申し訳ない。どうしたものかと考えているとパッと頭に藍沢の顔が浮かんだ。
「あ……」
「え、なに。どこかあった? 面白そうなとこ」
「いや、わたしはわからないけど。でも聞いてみようかなと思って」
「聞く?」
紗綾は「まさか、さっきの人に?」と顔をしかめる。
「蓮華さん? 違うよ。ていうか、そんな顔しないでよ、もー」
冬葉は言いながら藍沢にメッセージを送ってみる。
『お疲れ様です。お休みの日にすみません。ちょっとお聞きしたいのですが、この辺りで女子高生が楽しめそうな場所とかご存知ないですか?』
「あの人じゃないなら誰に送ってんの?」
「先輩」
「あ! かっこいい先輩?」
「え、うん。そうだけど……」
この反応の違いはなんだろう。紗綾には二人の話はよくしていた。それなのに、どうやら紗綾が持つ二人の印象はそれぞれ違うようだ。なぜだろう。
不思議に思っているとすぐに返信が来た。
『アウトレットモールとか屋内遊園地とか、少し電車に乗ればあるけど。どうしたの?』
『ゴールデンウィークで妹がこっちに来てて』
『ああ、なるほど。よかったら一緒に案内しようか?』
どうしようかと冬葉はスマホを見つめる。藍沢の申し出は願ってもないことだ。しかしせっかくの休日、しかも連休中に時間をもらってしまうのは申し訳ない。それに、また紗綾が蓮華のときのように失礼な態度をとらないとも限らない。
悩んでいると「先輩から返事きた?」と紗綾が冬葉のスマホを覗き込んだ。
「え! 案内してくれるって! ねえ、お姉ちゃん!」
「いや、そうなんだけど」
言いながら冬葉は紗綾を真剣な表情で見つめた。紗綾は「え、なに」と少し身構える。
「また蓮華さんに会ったときみたいな態度、取らない?」
「取らないよ」
「じゃ、なんで蓮華さんのときはあんな態度取ったの?」
「それは――」
紗綾は一瞬表情を硬くした。しかし、すぐに「いいじゃん、別に」と突き放すように言う。
「わたしが嫌いなタイプだっただけ」
「えー……」
「でも藍沢さんって人には興味ある。かっこいいんでしょ?」
「うん。でも、本当に大丈夫?」
尚も確認すると紗綾は不機嫌そうに「しつこいなー」と顔をしかめた。
「大丈夫だから! ほら、はやく返信してよ!」
「……わかった」
冬葉は頷き返信を打つ。
『休日に申し訳ないですが、お願いしてもいいでしょうか?』
すると再びすぐ返信が来た。
『どうせ暇だから気にしないで。いつにしようか?』
『わたしたちはいつでも』
『じゃ、明日にしよっか』
そして時間を決めて駅前で待ち合わせをすることになった。
「やったー。どこに行くのかなー」
「ほんとだね。藍沢さん、この辺りのこと詳しいから楽しみだね」
つい冬葉も笑みを浮かべると紗綾は「子供二人が迷惑かけないか心配だね?」といたずらっ子のような表情で言った。冬葉はハッと表情を引き締めると「わたしは紗綾の保護者としてついて行くからね!」と強い口調で言った。しかし紗綾は「はいはい」と軽く流してしまう。
「じゃ、今日は部屋の大掃除を最後までやってから夕飯作ろうか」
紗綾の言葉に冬葉は部屋を振り返る。
朝に比べて部屋が広くなったのは段ボールに入った荷物がすべて片付けられたからだ。昨日までの部屋とは見違えるようである。これならば紗綾が寝るスペースだって問題ない。そもそも布団は一組しかないのだから、朝の状態でも十分寝られるスペースはあったのだが。
「……部屋、もう綺麗じゃない?」
「お姉ちゃん」
「はい?」
「クローゼットの中、グチャグチャでしょ」
「……なんで知ってるの」
冬葉が眉を寄せると紗綾はニヤリと笑った。
「お姉ちゃんのことなら何でも知ってるからね。それに段ボールから出した服、そのまま押し込んでるのも見たよ」
返す言葉もなく、冬葉は深くため息を吐いてクローゼットの棚を開けたのだった。
大掃除はなんとか紗綾から合格点をもらうことができ、クタクタになりながら夕食とシャワーを済ませた冬葉たちは寝支度を調えていた。
「やっぱりさー、湯船のあるところに引っ越すべきだよ」
ドライヤーで髪を乾かしながら紗綾は言う。どうやらシャワーだけではお気に召さなかったらしい。
たしかに冬場にはお風呂でじっくり温まりたくなるかもしれないが、お金もないので早々に引っ越しはできない。
「まあ、そのうちにね」
冬葉は答えながら「それより――」と目の前に敷いた布団を見つめた。
「――やっぱり狭くない?」
その言葉に紗綾は振り向くと「平気だよ」と笑った。
「はみ出ても畳だから落ちるってこともないし。夏用の掛け布団も出したし」
「でもそれ、薄いよ?」
「まあ、お姉ちゃんの寝相がひどくなってない限りは大丈夫でしょ」
それは自分ではわからない。冬葉は「気をつけるね」と頷いた。紗綾は「お願いします」と言いながらドライヤーを片付けると「じゃ、さっさと寝よ」と布団に潜り込んでいく。
「え、もう?」
時間はまだ二十二時を回ったところだ。いつもの紗綾ならドラマを見たり動画を見たりしているはずなのに。
思っていると彼女は「今日、始発で来たから」と眠そうな声で言った。横になったことをきっかけに疲れが出たのかもしれない。冬葉は「そっか。掃除もしてもらったし疲れてるよね」と微笑む。
「じゃあ、電気消すね」
言って電灯の紐を引っ張って豆電球だけを点けた状態にする。紗綾は昔から真っ暗な部屋では眠れない子だった。それは高校生になった今も同じらしい。彼女は「ありがとう」と呟くと冬葉が入りやすいように掛け布団を上げた。
「うん」
答えながら冬葉は彼女の隣に横になる。
電気を消しただけで部屋の雰囲気が変わったような気がする。自分以外の人がいるのに静かな空間。それが少し苦手だ。人の気配があるのにその人を見失っているような、そんな感覚になるから。
ちらりと横を見ると紗綾もまた冬葉のことを見ていた。
「なに?」
冬葉が聞くと彼女は「別に」と天井に視線を向ける。
「お姉ちゃん、いるなぁと思って」
「いるよ。ここに」
布団の中で触れた紗綾の手を握ると彼女は力強く握り返してきた。
「……うん」
小さく呟いた声はまるで幼い子供のようで、親戚の家に暮らすことになった最初の日を思い出す。あのときもこうして二人で一つの布団に入って手を繋いでいた。
アパートの近くを救急車が通り過ぎていく。サイレンの音が耳に響く。握った手が微かに動いたのがわかった。
「――ねえ、紗綾」
しばらく無言で天井を見つめていた冬葉は静かに口を開いた。
「なに」
「おじさんとおばさんにさ――」
「迷惑なんてかけてないよ?」
冬葉の言葉を遮って彼女は言った。冬葉は息を吐いて笑う。
「それはわかってるよ。そうじゃなくてね」
冬葉は言葉を切ると少し考える。以前、冬葉が大学へ進学せず就職を決めたときに叔父と叔母から言われたことがある。
――もっと甘えてくれて良かったんだよ? 家族なんだから。
叔父と叔母には子供がいない。だからこそ両親を失った冬葉たちを快く引き取ってくれたのだ。家族として。
しかし冬葉たちにとって彼らは親戚であり両親ではない。甘えて良いと言われても、どうすればいいのかわからなかった。
「何なの?」
もぞりと紗綾が身体をこちらに向けた。冬葉は「うん」と頷くと天井を見つめたまま言う。
「おじさんとおばさんね、わたしたちにもっと甘えて欲しかったんだって」
「え……?」
「家族なんだからもっと甘えてもいいんだよって、高校卒業する頃に言われちゃってさ。ほら、わたし就職するって自分で勝手に決めちゃったから」
「甘えていいって言われても――」
「うん。どうしたらいいかわからないよね。おじさんもおばさんも、すごく良い人たちだから」
だからこそ甘えることができない。彼らは冬葉たちにとても良くしてくれる。だから迷惑をかけたくない。その思いが先行してしまう。
「わたしはもう甘えるような歳でもないからアレだけどさ、紗綾はもう少しだけおじさんたちに甘えてあげてよ」
「……例えば?」
「んー」
冬葉は考えてから「一緒に買い物に行く、とか?」と提案してみる。紗綾はしばらく何も言わなかったが、やがて「考えとく」と小さく言った。そして「でも、わたしまだお姉ちゃんのこと許してないからね」と続ける。
「……わたしが勝手に家を出るって決めたこと?」
紗綾は答えない。それが答えなのだろう。
「でも、やっぱりあの家にはいられなかったんだよ」
「なんで? ずっと一緒にいてくれるって言ったのに」
「だからだよ」
冬葉は静かに微笑む。
「紗綾のことをずっと守ってあげたいから、だからわたしはちゃんと働こうって思ったの。あそこにいると居心地が良くて、きっとわたしはいつまでも子供のままだったから」
「なんで相談してくれなかったの」
「紗綾、反対したでしょ」
「そりゃそうだよ!」
紗綾は声を荒げた。冬葉は身体を彼女の方に向けて顔を向かい合わせる。
「わたしね、紗綾には夢を叶えてもらいたいんだ」
「……夢?」
「それが何かはわからないけどね。でも、そのために大学にだって行ってほしいし、紗綾には幸せになってほしい。だからお姉ちゃんは家を出たの」
「なんで……。わたしはそんなこと」
「大事な妹には幸せになってもらいたいでしょ?」
「わたしは……。お姉ちゃんがずっといてくれたらそれで良かったのに」
「いるよ。わたしはずっと紗綾と一緒にいる」
「ウソだ」
「なんで?」
冬葉が聞くと紗綾はじっと冬葉の目を見つめて「あの人のこと、お姉ちゃんどう思ってるの?」と聞いた。誰のことを言われたのかわからず冬葉は眉を寄せる。
「えっと、誰のこと?」
「あのチャラい人」
チャラい、と口の中で呟いてから「もしかして蓮華さん?」と目を見開く。紗綾は無言で頷いた。
「どうって、恩人さんだよ?」
「そういうことじゃない。好き? 嫌い?」
「そりゃ好きだけど」
素直に答えると「ほら、やっぱり」となぜか不機嫌そうに彼女は言った。
「え、やっぱり? ごめん、紗綾。よく意味がわからなくて」
「お姉ちゃん、気づいてないんだ?」
「何に?」
「あの人を見るときのお姉ちゃん、いつもとは違う顔してた」
言われてもピンと来ない。冬葉は眉を寄せたまま「どういう顔?」と聞く。しかし紗綾は怒ったように「知らない!」と言って身体の向きを変え、冬葉に背中を向けた。
「紗綾? どうして怒ってるの?」
「お姉ちゃんが鈍感だからでしょ」
わけがわからない。オロオロしながら冬葉は彼女の背中に手をあてる。
「ごめんね。お姉ちゃん、ほんとよくわからなくて」
「……あの人、たぶんウソついてるよ」
「え、ウソ?」
「それか何か隠してる。あのタイプはそういうタイプ」
紗綾はそう言うと「もう寝る」と低く続けて口を閉じた。
「紗綾……」
呼びかけても彼女はもう返事をしてくれない。冬葉はため息を吐いて彼女の背中を見つめると「おやすみ」と声をかけて目を閉じた。
――どんな顔をしてるんだろう。
自分が誰かを見るときの表情なんて気にしたこともなかった。
身体を仰向けにして自分の頬に手を当てる。自分は彼女にどんな顔を向けているのだろう。
――蓮華さん。
閉じた瞼の裏に昼間見た彼女の笑顔が浮かんでくる。公園でお喋りをしたときの笑顔も、柔らかな話し声も、綺麗な歌声も、その全てにウソは感じられなかった。それなのに……。
――紗綾、間違ってるよ。
ウトウトしながら思う。蓮華は良い人だ。せっかくできた友達にそんなこと言ってほしくないのに。どうしたら蓮華の良いところを伝えられるだろう。
――もっといっぱい知りたい。
蓮華のことをもっとたくさん知れば、それだけ紗綾に彼女の良いところを伝えることができる。そのためには彼女ともっと仲良くなればいい。
なんだ、簡単なことだ。
――早く明日の夜にならないかな。
眠気に逆らえず、目を閉じながら冬葉は微笑んだ。