第二話 後編
冬葉は少し後悔していた。心の中でため息を吐きながら隣を歩く女性を見つめる。
ジーンズにTシャツ、その上に羽織った薄手のジャケット。ラフでシンプルな格好なのに着こなしがスマートだ。
わかっていた。
仕事着のスーツすらあんなに着こなしてしまうのだ。私服のセンスが良いことは予想できたはず。自分にはそんな彼女の隣を歩くにふさわしい大人っぽい服がない。そのことをすっかりと忘れていた。
「なんか新鮮でいいね」
しょんぼりと歩いていると藍沢が嬉しそうに口を開いた。
「新鮮、ですか」
「うん。私服の桜庭さんがすごく新鮮。けっこうカジュアルなんだね」
「あー……」
冬葉は自分の着ている服を見下ろして苦笑した。
「これ、田舎にいるときに妹に選んでもらった服で……」
「へえ? 妹さんいるんだ?」
「はい。四つ下の。だからちょっと年甲斐もない服と言いますか」
「そんなことないよ? すごく似合ってるし可愛いって。妹さん、すごく桜庭さんのことわかってる感じする」
「そ、そうですかね」
服を褒められて嬉しいのか、妹を褒められて嬉しいのかよくわからないがどちらにしても照れてしまう。しかし、やはりどう見ても藍沢と隣で歩いていると見劣りしてしまう自分が嫌だ。
「ん、なんでちょっと後ろに?」
無意識に下がってしまっていた冬葉を見て彼女は「ああ、ごめん。歩くの速かったかな」と申し訳なさそうに謝った。
「よく言われるんだよね。歩くの速すぎるって。わたし、せっかちみたいで」
苦笑しながら藍沢は歩くスピードを緩めた。
「せっかちですか? 藍沢さんが?」
「うん。そう思わない?」
「思いませんけど。少なくとも仕事中はどんなにわたしがのろまでも辛抱強く待ってくれてますし」
「そうかな? 急かしてないなら良かった」
彼女は心から安心したように言うと「さ、着いたよ」と前方に視線を向けた。先週も来た洋菓子店。しかし先週とは違ってカフェスペースには多くの客が入っていた。
「混んでますね」
思わず呟くと藍沢は頷いた。
「ここはランチも美味しいからね。でも大丈夫。予約してるから」
言いながら彼女は腕時計を見る。
「時間もピッタリ」
それを聞いて冬葉は気の利かない自分にガッカリして肩を落とした。
「あの、なんかすみません」
「え、なんでガッカリしてんの?」
「だって予約とか、そういうのはわたしがするべきだったなって。どこに行くのか決めてたわけだし」
「いやいや。決めたのって昨日の夕方じゃん。言い出したのもわたしだし、店員に友達がいるんだからわたしが予約するのが普通じゃない?」
「そうでしょうか……。いや、やっぱり後輩であるわたしが――」
「まあ、そんな細かいことはいいから」
冬葉の言葉を遮って藍沢は「はやく入ろ。お腹減っちゃった」と冬葉の手を掴んで引っ張るように店に入った。
店内には入店待ちの人たちが椅子に座って並んでいた。外から見ていた感じではあまり席数は多くなさそうだ。
「こんにちは。予約していた藍沢ですが」
カフェのレジでそう声をかけた店員は彼女の後輩ではない。菓子販売の方のレジにいる店員も知らない顔だった。キョロキョロしながら案内されたカフェの席に着くと「今日は休みなんだってさ。佐英」とメニュー表を手に取りながら藍沢が言った。
「紗英、さん?」
「ああ、後輩の名前。塚本佐英っていうの」
「そうなんですか」
そういえば名前を知らないままだったなと今さらながら思い出す。藍沢は「で、どれにする?」とメニュー表を冬葉の方に向けて置いた。メニューの数は思ったよりも多く、優柔不断な冬葉にはすぐに決められそうにない。
「えっと、藍沢さんはどれに?」
「わたしは日替わりにしようかな」
「あ、じゃあ、わたしもそれで」
「いいの? 他にもいっぱいあるよ?」
「どれも美味しそうだから決められなくて」
苦笑すると藍沢は「そっか」と笑って頷いた。そして店員に注文をしてから彼女は息を吐く。ため息といった感じではない。どちらかといえば気持ちを落ち着けているような、そんな息の吐き方。不思議に思って首を傾げると彼女は「あ、ごめんね」と笑った。
「なんか久しぶりで」
「久しぶり……。あ、このお店でランチするのがですか?」
「あー、まあ、それもなんだけど。こうして休日に誰かと一緒に過ごすのが」
そう言って笑った藍沢の表情がまるで少女のようで冬葉はドキッとしてしまう。
「最近はずっと家でゴロゴロしてるだけだったから」
「それはあんまりイメージできないですね」
「そう?」
「藍沢さんはここみたいなオシャレなカフェとか、夜はバーとかに通ってるようなそんなイメージです」
「どんなイメージよ」
藍沢は軽く笑ってから「ほんと、ありがとね」と呟くように続けた。
「ここ好きなお店なのに来れなくなったら嫌だなって思ってたから」
「たしかに人気のお店に一人で来るのは勇気がいりますよね」
するとなぜか藍沢はきょとんとした表情を浮かべた。そしてフッと笑う。
「え、あれ? 違いました?」
「ううん。そうだよね。勇気がいるよ……。ほんと、今日は付き合ってくれてありがとう」
「いえ。わたしで良ければいつでも付き合いますよ。ちょっと高いお店は無理かもしれませんが……」
「そのときはわたしが奢るから任せて」
藍沢はサラリとそう言うと「今日、この後どうしよっか」とまっすぐに冬葉を見つめた。
「この後、ですか」
「うん。まだお昼だしさ。あ、もしかして他に約束がある?」
「いえ。今日は別に」
冬葉が答えると藍沢は嬉しそうに「良かった」と笑った。その笑顔を見つめながら冬葉は「なんか意外です」と呟いた。藍沢は不思議そうに「なにが?」と首を傾げる。
「今日の藍沢さん、職場にいるときよりもなんというか親しみやすいというか」
「え、わたし仕事中キツい態度してる? 気をつけてるはずなんだけど」
「いえいえ。仕事中も十分親しみやすくて頼りになる先輩なんですけど、今日の藍沢さんはなんていうか……」
「なんていうか?」
なんていうか、と冬葉は眉を寄せて真面目に考える。
なんという言葉が適切だろうか。かっこいい、とは違う。それはいつもの藍沢だ。しかし今日の彼女はいつもとは違って……。
「可愛いですね!」
力を込めて言うと藍沢は驚いたように一瞬動きを止めた。そして「いや、すごいまっすぐにそんなことを言ってくる桜庭さんがすごく可愛いよね?」と真顔で言ってきた。冬葉はどう反応したらいいのかわからずに「ふぇ?」と変な声を出しながら視線を逸らした。
「ほら、可愛い」
ククッと藍沢は笑う。そのとき注文していた料理が運ばれてきた。助かったとばかりに冬葉は胸をなで下ろしながら料理に目を向ける。
今日の日替わりはラザニアセットのようだ。ラザニア、パン、そしてサラダの皿が並べられていく。サラダの野菜はどれもざく切りされていて大きく、真っ赤なプチトマトが丸ごと乗せられていた。
「美味しそうですね!」
話題を変えようと早口で言いながら冬葉はフォークを手にしてサラダに手を伸ばす。
「あ、トマトもらおうか?」
そんな藍沢の言葉に冬葉は「え?」と顔を上げる。すると藍沢は、しまったという顔で冬葉を見ていた。
「あー……。ごめん、なんでもない」
「え、でもトマトって」
すると藍沢は苦笑して「前までよく一緒にご飯食べてた子がね」と言いながらサラダを見つめた。
「トマトが嫌いで、よくもらってたから」
その視線がなぜかとても悲しそうに見える。もしかすると、その子とよくここに来ていたのだろうか。そう思ってから冬葉はさっきの会話でなぜ藍沢がきょとんとしていたのか理解した。
このお店にはその子とよく来ていて、何か事情があってその子とは来れなくなってしまった。だから一人で来たくなかったということだったのでは。楽しい思い出があるお店に一人で来るのは嫌だったから。
とんだ勘違いに気づき、冬葉は赤面しながら顔を俯かせた。
「あれ? どうしたの。桜庭さん」
「いえ……。あの、いただきます」
「うん。食べよっか……?」
不思議そうにしながら藍沢もサラダに手を伸ばす。そうしながら「それで、どうする? この後」と彼女は言った。
「あ、そうでしたね。藍沢さんはどこか行きたいところとかありますか?」
「んー、そうだな。しいて言うなら」
「言うなら?」
「桜庭さんの行きたいところかなぁ」
「わたしの行きたいところ、ですか」
「別にないのなら、映画とかでもいいけど」
藍沢は無邪気な笑みで言う。つまり、どこでもいいのだろうか。たしかにせっかくの休日にこうして出てきてくれているのだ。ご飯だけ食べて別れるのは申し訳ない気がする。しかし……。
「一応行きたいところはあるんですけど」
「どこ?」
しかし、自分の用事に職場の先輩を付き合わせてしまって良いものだろうかと冬葉は迷う。
「いいよ。どこでも」
藍沢の優しい言葉に冬葉は「じゃあ」と口を開いた。
「電気屋さんに」
「電気屋さん?」
「はい。あの、洗濯機を買いたくて。お給料も出たので」
「買い換えるの?」
首を傾げる藍沢に冬葉は「いえ」と俯きながら笑った。
「家にないんですよ。洗濯機。だから買わなくちゃいけなくて」
「え……。今までどうしてたの?」
「コインランドリーで済ませてました。でも、さすがに買いなさいって妹に言われて。本当はテレビを買おうかと思ってたんですが、優先順位は洗濯機が先だって言われちゃって」
すると藍沢は「妹さんの方がしっかりしてるね」と声を上げて笑った。返す言葉もなく冬葉は苦笑する。
「うん。じゃ、近くの電気屋さん行こうか。ついでにテレビも候補決めたらいいんじゃないかな」
「あ、そうですね! テレビ買ったら藍沢さんオススメのドラマも見られるので楽しみです!」
「ほんと桜庭さんて子犬みたいでかわいいよね」
「え?」
しかし藍沢は首を横に振ると「早く食べちゃおう。冷めるよ?」とフォークを持つ手を動かした。
電気屋はカフェから徒歩で行ける距離にあった。大きな複合店のワンフロアに入っているらしい。
「知りませんでした。ここに電気屋さんがあるなんて」
「この辺りのことならわたしにお任せあれ。わたしがこの辺りに越してきたときもこうやってここで家電揃えたんだよね」
藍沢は得意げに言うと洗濯機のコーナーへ向かう。
「趣味が合わなくてケンカしたりもしてたけど――」
そこまで言って藍沢はハッとしたように口を閉ざした。
「以前もどなたかと一緒に家電選びを?」
「あー、うん。まあ」
一緒に家電を選んだということは一緒に住んでいる人がいるのだろうか。藍沢が結婚しているという話は聞いたことがない。では同居人がいるのか。あるいは彼氏と暮らしているのか。
考えていると藍沢が深くため息を吐いた。
「――ダメだな。テンションおかしくなってる」
「え?」
「ごめん。なんでもないから気にしないで」
藍沢はそう言って前方に視線を向けると「そういえばさっき、カフェのメニュー撮ってたけど誰かに見せるの?」と話題を変えるように言った。冬葉は頷く。
「こないだお菓子をあげた恩人さんに。そういえば、すごく美味しかったです。あのお菓子」
「でしょ? って、あれ? お礼にあげたんだよね? 恩人さんに」
「あ、はい。でも、持って帰っても家の人に食べられちゃうからってその場で一緒に食べちゃって」
「なるほど」
藍沢は笑う。
「それで、彼女にお店にはカフェもあるって伝えたら行きたいって言ってたので、メニューを見て気に入ってもらえたら一緒に行きたいなって」
「へえ? 友達なんだ?」
友達、と冬葉は口の中で呟いてから首を傾げた。
「そう思ってもらえてたらいいんですけど」
「違うの?」
「まだよくわからなくて。でもすごく良い子なんですよ。お喋りも楽しくて」
「ふうん? あ、ここだね。どれにする? 洗濯機」
気のせいか、少しだけ藍沢の声が固くなった気がする。態度も何となく素っ気ない。何か気に障るようなことを言ってしまっただろうか。考えてみたがよくわからない。
藍沢を見つめていると彼女は「どうしたの」と不思議そうに冬葉を振り向いた。その表情はさっきまでと変わりない。
――気のせいかな。
その後も藍沢の様子は変わらず優しくてにこやかだった。しかし、ときどきぼんやりと家電を見つめている空虚な表情がひどく気にかかった。