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第十三話 後編-3

 ほんの少し湿った空気が心地良い夜。冬葉は蓮華の隣をゆっくりとした歩調で歩いていた。


「はー、びっくりしたね。冬葉さん」


 彼女は笑いながらそんなことを言う。冬葉は「びっくりしたどころじゃないですよ」と頬を膨らませた。

 あの曲が終わった直後、いつの間にか広場が埋まるほどの人たちが集まっていた。それに気づいた交番の警察官が走って来たのだ。


「逃げろ! って生まれて初めて言われましたよ」

「ね。わたしも生まれて初めて言った」


 蓮華は苦笑しながらスマホを見る。


「しかもほら、ばっちりその様子も撮られてるの」

「え、ほんとだ」


 そこにはさっきの駅前での様子が動画で一部始終撮られたものがアップされていた。


「しかも拡散されてる……」

「思わず冬葉さんの手を掴んで逃げたから、あの人は誰だってちょっとだけ話題になってる。帽子、被ってて良かったね。冬葉さん」


 少しいたずらっ子のような表情で言った彼女に冬葉は「もしかして予想してました?」と眉を寄せる。蓮華は「どうかな」と笑った。


「確信犯……」

「念のためだよ。わたし、ぜったいに冬葉さんの方を見つめちゃうって思ってたから。もし動画撮られたときに冬葉さんが映っちゃうと迷惑かかるでしょ? 実際、撮られてたし」

「まあ、そうですね」


 冬葉は呟くと「でもすごかったです。蓮華さん」と微笑んだ。


「みんなの前で歌ってる蓮華さん、わたしが知ってる蓮華さんじゃないみたいで」

「……違うわたし?」

「はい。きっとあれがみんなの知ってる蓮華さんなんだなって。ちょっと新鮮な気持ちでした」

「新鮮、か」

「はい」

「嫌じゃなかった?」


 冬葉は首を傾げる。


「すごく格好良かったですよ?」


 すると蓮華は「――そっか」と嬉しそうに笑った。


「はい。ほんとにすごく格好良かったです。周りの人たちも蓮華さんの歌に聴き入って呆然としてましたし」

「呆然とって……」


 蓮華は笑う。

 夜の住宅街は相変わらず人通りが少ない。点々と照らされた街灯の明かりに導かれるように冬葉と蓮華は並んだままゆっくりと歩調を合わせて歩く。しばらく歩いてから冬葉は「――あの子」と口を開いた。


「蓮華さんが言ってたファンの子ですよね?」

「うん。まさかあんな偶然があるなんて思わなかった。世間は狭いね。それともあの子と縁があるのかな」


 彼女はそう言うと小さく息を吐いた。


「本当はしっかり謝りたかったんだけど、あの場でそんなことするとまた迷惑になっちゃうから」

「だから彼女の好きな曲を?」


 蓮華は地面に視線を向けながら頷いた。


「そんなことで罪滅ぼしになるとは思ってないし、本当の意味で許されるなんて思ってないけど、でもあの子の笑顔を見たらさ、なんていうか、ちょっと気持ちが救われた」

「彼女、本当に心から蓮華さんのファンなんですね」

「うん。びっくりしちゃった。あの曲のこと覚えてるなんて」


 あの曲、と冬葉は呟いてから首を傾げた。


「そういえば彼女がリクエストした曲って、発売されてませんよね? わたし蓮華さんの曲は全部入れたと思ったんですけど」

「ああ、うん。あれは発売中止になった曲だから」

「発売中止?」

「そう。でも一度だけ何かのイベントで歌ったことがあるんだ。あのライブの少し前にあったイベントだったかな。ライブで正式にリリースの発表をする予定だったんだけど全部無くなっちゃって……」

「幻の曲だったんですね」

「まあ、良いように言うとそうかな」


 蓮華は苦笑する。そして「あの子はあのイベントにも来てくれてたんだよね」と呟いた。


「たった一度歌っただけなのにタイトルまで覚えてくれてた。誰も覚えてないって思ってたのに。そんな子に、わたしは――」


 蓮華は俯きながら微かに声を震わせた。


「蓮華さん」


 冬葉が名を呼ぶと蓮華は「うん。大丈夫だよ」とゆっくり顔を上げた。


「わたしはもう前に進むって決めたんだから。冬葉さんも見てたでしょ? ちゃんと歌えた。わたしのこと知ってる人たちの前でもちゃんと。動画も撮られたからもう後戻りはできない」

「後戻りって……」


 もしかするとそれが目的だったのだろうか。もう前に進むしかないと自分を鼓舞するために今日の路上ライブをしたのだろうか。


「蓮華さん……」


 冬葉の気持ちが伝わってしまったのか、蓮華は「大丈夫」と微笑んだ。


「無理してるとかじゃないから安心して。わたしは冬葉さんが思ってるほど強くはないからさ、こうでもしないとなかなか前に進めないの。これから先、ちゃんと生きるためには必要なことだったんだよ。冬葉さんと並んで歩くために覚悟を決めたかった。だから――」


 蓮華は言葉を切って立ち止まると、静かに冬葉と向かい合った。


「さっきの続き、聞かせて?」


 まっすぐな瞳で冬葉を見つめながら彼女は言う。真剣な、しかし少しだけ期待を込めたような表情で。冬葉もまた彼女の瞳を見つめ返した。

 吸い込まれそうなほど透き通った瞳に見惚れるのはこれで何度目だろう。そしてそんな彼女を見つめて胸が苦しくなるのは、これで何度目だろう。

 そのときそっと冬葉の手を蓮華が握った。細く白い手は冷たく、微かに震えている。


「――好きです」


 考えることも悩むこともなく言葉が漏れ出していた。重なった蓮華の手にグッと力が入る。


「……もう一回言って?」


彼女は微かに首を傾げて言う。冬葉は思わず微笑んだ。


「わたしはきっと蓮華さんのことが好きです」

「きっと、か」


 少し残念そうに彼女は眉を下げた。


「すみません。はっきりそうだと言えるほど自分の気持ちがまだわからなくて」


 思わず謝ると蓮華は「ううん。いいよ」と笑みを浮かべた。


「つまり、わたしはこれから冬葉さんに『どうしようもないくらい大好きだ』って思ってもらえるチャンスを得たってことだもんね」

「え……?」

「覚悟しといてよ。わたしこれから本気で頑張るから」


 少し挑発的な笑みで蓮華は言うと握っていた手をそのまま冬葉の指に絡ませて繋いだ。そして再び歩き出す。


「わたしも負けないように頑張りますよ」

「冬葉さんは頑張り過ぎないくらいがいいよ。今まで頑張り過ぎてるからさ。これからはわたしに甘えてほしいな」

「いえ、そんなわけには」

「んー、まずは敬語を直すところからだね」

「それは――」


 難しいかもしれない、と冬葉な真剣に考える。思えば今までの人生、他人と距離を置きたいがために常に敬語で話してきた気がする。年齢なんて関係ない。家族以外には全員敬語だった。


「もし冬葉さんがわたしに敬語を使わなくなったら、そのときはわたしのことまた少し好きになってくれたんだなぁって思えるから楽しみにしてる」

「……そういうこと言われるとプレッシャーなんですが」


 冬葉の言葉に蓮華は笑った。繋いだ彼女の手はもう冷たくない。震えてもいない。ただ優しく、大切そうに冬葉の手を放さないでいてくれる。


「実はさ、わたしが今日路上ライブしようって思ったのって藍沢さんのおかげなんだ」

「ナツミさん?」

「うん。駅で会った時に連絡先を教えてって言われて交換したんだけど」

「え、ナツミさんとですか?」

「そう。ビックリでしょ? わたしもビックリだった。驚いてる間に交換してたんだけどね」


 彼女は苦笑する。


「それでカフェにいるときにメッセージが来たんだけど」


 そういえばカフェで料理が運ばれてくるとき、蓮華が少し強ばったような表情でスマホを見ていたことを思い出す。


「どんなメッセージだったんですか?」

「これなんだけど」


 蓮華はスマホをポケットから取り出すとその画面を冬葉に見せた。そこには短い一言が表示されている。


『いつまで逃げるつもり?』


「これをナツミさんが?」

「うん。たぶん全部見透かされちゃったんだと思う。わたし、じつは藍沢さんと視線も合わせられなかったし……。これ見てさ、わたしはもう逃げないって決めたの」


 だから、と蓮華は微笑んで冬葉に視線を向けた。


「今、こうして冬葉さんと手を繋いでいられるのは藍沢さんのおかげ」

「――そうかもしれないですね。でも行動したのは蓮華さんですし」

「冬葉さんもね」


 蓮華はニッと笑うと視線を前の方に向ける。見慣れた道だ。その先にはやはり見慣れた街灯が立っている。毎週、金曜の夜にドキドキしながら向かっていた場所があの街灯の先にある。


「もうすぐ公園だね」

「そう、ですね……」


 冬葉は無意識に手に力を入れていた。その手をギュッと蓮華も握り返してくれる。


「今日が金曜じゃなくて残念だな」

「今日が金曜だったらどうしてました?」

「んー?」


 蓮華は少し考えると「いつも通りに公園でお喋り」と答えた。


「いつも通り――」

「うん。それで、その後は冬葉さんの家に泊まる」

「えっ!」


 思わず大きな声を出した冬葉に蓮華は「なんてね」と笑った。


「冗談ですか……」

「ううん。冬葉さんが良いっていうならわたしはいつでも行くよ?」

「もう、蓮華さん。冗談なのかどうかわからな――」


 そのとき、突然手を引っ張られたかと思うと冬葉の頬に温かな手が触れた。そして気がつくと目の前には蓮華の顔。


「本気だよ。わたしはいつも」


 そう囁いた彼女はそっと冬葉にキスをした。柔らかな唇は一度触れてすぐに離れ、そしてもう一度深く触れ合う。触れた箇所から彼女の吐息が流れ込んできて温かい。


「……わたし、ちょっと気にしてるからね。冬葉さんが藍沢さんと寝ようとしたってこと」


 唇を離した蓮華はそう言って少しだけ眉を寄せた。冬葉は慌てて「それは、その、すみません」と頭を下げた謝るしかない。すると冬葉の頬に再び柔らかな手が触れた。その手に促されるまま顔を上げると、再び蓮華の唇が触れる。

 優しく、しかし何かを確かめるようなキスはさっきよりも長く、深く、心地よい。どれくらい触れ合っていたのだろうか。そっと唇が離れた瞬間、どちらともなく息を漏らしていた。


「――もうしないよね? そんなこと」


 蓮華が瞳を潤ませ、少しだけ不安そうに言う。冬葉は「もちろんですよ」と頷く。


「だってわたしが好きなのは蓮華さんです」


 蓮華はそれを聞くと切なそうな表情を浮かべた。そしてしがみつくように冬葉を抱きしめる。


「もっと言って?」


 耳元で蓮華が囁く。胸が温かくなる心地良い声で。


「蓮華さんのことが好きです」

「もっと」

「……好きです」


 冬葉もまた蓮華の存在を確かめるように彼女の細い身体を抱きしめた。


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