第十三話 後編-2
「ごめんね、冬葉さん」
そう言った蓮華の声は固い。
何か間違ってしまっただろうか。冬葉はドクドクとうるさく鳴る心臓を押さえるように胸へ手を当てながら「あの、すみません」と言葉を絞り出した。
「いきなり、こんな取り留めも無いことを言ってしまって」
きっと伝わらなかったのだ。いや、それどころか何か不快なことを言ってしまったのかもしれない。
「そんなことない。謝るのはこっちだよ」
しかし蓮華は顔を上げてくれない。項垂れて頭を抱えたままだ。
――失敗したのかも。
そう思うと急に泣きそうになってくる。沈黙が苦しい。胸が締め付けられる。自分と向き合おうと決めた。自分なりに頑張った。でもきっとこの気持ちは伝わっていない。
俯きながら両手を握りしめていると、深く息を吐く音が隣から聞こえた。そして「よし」と小さく気合いを入れる声。視線を向けると蓮華はギターケースを持って勢いよく立ち上がり、もう片方の手を冬葉に差し出した。
「えっと、あの……?」
冬葉が戸惑っていると彼女は「ごめんね」と申し訳なさそうに微笑んだ。
「わたし、まだちゃんと冬葉さんの気持ちを最後まで聞く資格がないって思っちゃって」
「資格……?」
「冬葉さん、変わったよね」
「そう、ですか?」
「うん。まっすぐにわたしを見てくれる。だから今のわたしはまだ冬葉さんの言葉をちゃんと聞く資格がない。わたしも前を見るだけじゃなくて前に進まなくちゃいけないって思ったんだ。だから――」
言いながら彼女は冬葉の手を優しく取って引っ張った。促されるがままに冬葉は立ち上がる。
「一番近くで見ててほしい」
「え……?」
しかし蓮華は微笑んだまま冬葉を引っ張って広場の方へと歩き出した。
相変わらず人通りはパラパラと、しかし止まることなく流れている。帰宅途中の人たちを遮るように辿り着いたのは街灯の真下。そこに立った蓮華と冬葉に視線を向けては通り過ぎていく人たち。その視線に蓮華は少し表情を強ばらせた。
「蓮華さん?」
声をかけると彼女はハッとしたように冬葉に視線を向けて「大丈夫だよ」と微笑んだ。
そしてその場にしゃがみ込んでギターケースを開ける。取り出したのは藍色のエレキギター。蓮華はそれを大切そうに見つめると何やらセッティングをし始めた。
「――もしかして歌うんですか? ここで」
「うん。歌う」
その声に迷いはない。彼女は手早くチューニングを終わらせるとギターケースから小さな赤色のアンプを取り出した。
「これ可愛いでしょ。これも、このギターと一緒に買った大切な子なんだ」
「……蓮華さん」
大丈夫なのだろうか。どうしても不安が込み上げてくる。
冬葉は知っている。あの動画に悪意のあるコメントが寄せられ続けていることを。もちろん全員が全員、蓮華のことを悪く言っているわけではない。それでもきっと世間に植え付けられたイメージは一人歩きを続けているのだ。その証拠にさっきも彼女は言っていたではないか。帽子を被っていないと外を歩くのが怖い、と。
「――なんでいきなりって思ってる?」
セッティングのためか、俯いたまま蓮華は言う。冬葉は答えるこができず、ただ彼女の背中を見つめた。すると彼女は続ける。
「わたしね、たぶん今やらなかったらずっと逃げちゃうと思うんだ」
「そんな……。蓮華さんは逃げてないです。今までも、これからもきっと」
冬葉の言葉に蓮華は少し振り向いて微笑んだ。
「もし冬葉さんにわたしがそう見えてるのなら、それはきっと冬葉さんがいるからだよ」
言って彼女は視線を手元に戻す。
「いつか海音に聞いてみてよ。きっとたくさんわたしのダメな話を聞けると思うよ」
「そんなこと……」
「ううん。少し前に昔の話をいっぱいしたんだけど――」
そこで蓮華は口を閉ざして動きを止めた。
「蓮華さん?」
不安になって声をかけると蓮華は「海音にもさ」と呟くように口を開く。
「今までのわたしじゃなくてこれからのわたしを見てもらいたいなって思ったんだ。今までのわたしはきっとすごく海音に依存してたから。わたしがいたから海音は自分の人生を考えることができなくなってた。そう気づいたから」
彼女は「でも」とギターのベルトを肩にかけて振り向いた。
「わたしにそのことを気づかせてくれるきっかけを作ってくれたのも、こうして頑張ろうって思えるようになれたのも冬葉さんがいたからだよ。あの日、あの公園で出会ったのが冬葉さんじゃなかったら、きっとわたしはまだあの公園で引きこもったままだった。だからさ」
彼女は言いながら冬葉の前に来ると被っていた帽子を取り、それを冬葉に被せた。
「見ててよ。わたしが逃げないように。また前のわたしに戻ったりしないように。わたしの近くで見ててほしい」
「はい」
冬葉が微笑むと蓮華は嬉しそうに笑った。そして少し離れて冬葉の方に向き直り、ギターを構える。
人前で演奏するなんて、ただでさえ緊張することだろう。ましてやこんな場所で歌いながらの演奏。誰が蓮華のことを知っているかもわからない。そんな状況で演奏することにいったいどれほどの勇気が必要か冬葉にはわからない。
――がんばれ。
心の中で呟いたそのとき、蓮華が右手を動かした。小さなアンプからギターの音が響く。蓮華は何度か音を確かめるように弦を鳴らすとまっすぐ冬葉に視線を向けた。
冬葉も彼女を見返して頷く。それを合図にしたかのように、彼女はゆっくりと歌い出した。それは彼女が冬葉のために作ってくれたというあの曲。童謡のような優しいメロディに乗る心地良い歌声が冬葉の心を温かく包み込んでいく。
冬葉は自然と視線を周囲に向けたが。まだ誰も立ち止まる様子はない。しかし蓮華がギターを奏で始めた瞬間、数人が立ち止まってこちらに寄ってきた。
動画ではアコースティックギターでの演奏だったが、切なくて柔らかな音色はエレキギターでも変わらない。優しい歌声と切ない音色が夜の駅前を包み込む。当然というべきか、気づけば蓮華の周りには人だかりができていた。
――すごい。
きっとこれが才能というものなのだろう。彼女の歌声や演奏する姿には人を惹きつける魅力と存在感があった。オーラがある、とでもいうのだろうか。
「……あれ、蒼井蓮華じゃない?」
ふいに近くでそんな声が聞こえた。
「動画が投稿されて復帰したって聞いたけどマジなんだ?」
「よく平気で人前に出てこれたよね」
「人を殺しかけたやつが」
わざと大きな声で言っているのだろうか。そんな会話をしている人たちの方を見ると、彼らはニヤけながら蓮華のことを見ていた。蓮華もきっと気づいている。そんな彼らの周りに集まっている人たちもコソコソと何か言っている。その声色から決して好意的ではない言葉を。
――嫌な感じ。
不特定多数の悪意と好奇心が蓮華を取り囲んでいる。彼女の歌を純粋に楽しんでいる人がいない。そんな雰囲気を冬葉ですら感じてしまう。それでも蓮華は歌うことをやめない。それどころか蓮華のことを悪く言っている人たちに視線を向けて笑みすら浮かべていた。
その透き通るような笑みは冬葉が知る彼女の笑みとは違う。しかし、目を離すことができないほど魅力的で綺麗な表情だった。
そんな彼女に圧倒されたのか、周りの人たちは次第に口を閉ざして蓮華の歌に聴き入り始めた。
――大丈夫なんだね。蓮華さん。
思いながら冬葉は微笑む。どうやら冬葉が心配する必要なんてないようだ。そこにいるのはあの公園にいた蒼井蓮華ではない。冬葉が知らない、歌手の蒼井蓮華なのだから。
彼女のあんな凜々しい表情は見たことがない。しかし、それでも時折こちらに視線を向けたときに見せる柔らかな表情や視線は紛れもない冬葉の知る彼女。
「――綺麗」
思わず呟いた声は蓮華の歌声に吸い込まれていく。
曲が終わり、周囲からは自然と拍手が起こっていた。蓮華は微笑むと「ありがとうございます」と深く礼をする。そして「たぶん、わたしのこと知ってる人もいるんだよね」と集まった人たちへ視線を向けながら言った。
「わたしのこと嫌いな人も、きっといるよね。こいつまだ生きてたんだって思ってる人もいる」
そう言った彼女の視線は先ほど蓮華のことを悪く言っていた人に向いた。彼は「いや、そこまでは――」とバツが悪そうに視線を逸らす。すると蓮華は微笑んだ。
「いいよ。わたしもそう思ったりしてたもん。わたしまだ生きてるんだって……。わたしはあれからちゃんと生きることをやめてたし、ほんとに一度は死にかけてた」
「え――」
「何もかもどうでもよくなっちゃってさ。声を出すことも、動くことも食事すら面倒で……。でも、そんなわたしを必死に引っ張り上げてくれた人がいたんだ。人生を変えてまで……。そしてわたしにまた歌を唄おうって、そんな気持ちにさせてくれた人がいた。その人のおかげでわたしはこうして外に出ることができるようになったし、自分でちゃんと歩こうって思えるようになった」
蓮華の視線が冬葉に向く。
「その人は純粋で真っ直ぐで、ただ素直にわたしの歌が好きだって言ってくれたんだ。すごく嬉しかった」
冬葉は彼女に笑みを向けた。蓮華も微笑む。とても嬉しそうに。
「わたしがしたことは許されることじゃないって分かってるけど、それでも今のわたしが二人に返せるものは歌しかないから。だからまた曲を作っていこうと思ってる」
「それは、歌手活動を再開するってことですか?」
集まった人たちの中からそんな声が聞こえた。蓮華は声がした方に視線を向けて「どうかな」と困ったように微笑んだ。
「またオーディションを受けようとは思ってるけど、過去は消えないから。それでも曲は作り続けるつもり。できた曲を聴いてほしい人たちは近くにいてくれるし、こんなわたしのことをまだ応援してくれてる人たちにも動画で届けることはできるから」
「ライブは!」
ふいに女の子の声が響いた。
「いつかまた、ライブやってくれますか?」
声の方へ視線を向けた蓮華は「君――」と驚いたように目を見開いた。そして柔らかく微笑む。
「そうだね。昔みたいに大きな会場では無理だと思うけど、いつか必ず」
「――あの、そのときは絶対に行きます。だから頑張ってください」
「うん」
「応援してます。今もずっと」
「うん。ありがとう。本当に、ありがとう」
蓮華が彼女に向けた笑みは歌手としての笑みではなく蓮華としての微笑み。
「あと一曲、何か演奏しようかと思うんだけど何がいい?」
「え、わたし……?」
「あのとき、君に聴かせてあげられなかったから。わたしの曲だったら何でも弾けるから大丈夫だよ。ちょっとあの頃よりは下手になってるけど」
「でも――」
「たしかに、今はわたしの曲をわたしが勝手に歌っちゃダメなんだけどね。でもお金はもらわないし、元々はわたしの曲だからきっと怒られないよ」
蓮華は少し首を傾げると「君が一番好きな曲は何?」と彼女に聞いた。
「わたしが好きな曲は――」
彼女が答えた曲名は冬葉が知らないものだった。周囲の人たちも不思議そうな顔をしている。しかし蓮華だけは目を大きく見開いてから「そっか」と笑った。
「あの曲を知ってる君はすごいね!」
蓮華は笑って彼女にピックを向けると、そのままギターの弦を鳴らし始めた。初めて聞くその曲は重く抑圧された現実に苦しみ、もがいているような、そんな曲調と荒々しい歌詞。しかしそんな曲を蓮華は優しく包み込むように歌う。まるで昔の自分を抱きしめてあげているかのように。




