第二話 前編
ようやく給料日がやってきた。といっても自由に使える金額はそれほど多くない。
「お姉ちゃん。優先度が大事だからね」
何を買おうかメモに書き起こしているとテーブルに置いたスマホから紗綾の声が言った。
「わかってるってば。大丈夫。ちゃんと書いていってるから」
「じゃあ、まず最初に買うものは?」
「テレビ」
「……なんでそうなったの。違うでしょ。洗濯機でしょ? コインランドリー通いは辛いって言ってたじゃん」
「あー、たしかにコインランドリー行く度に思ってるかも。よく覚えてるね、紗綾」
苦笑しながら冬葉はメモの先頭に洗濯機と書き加えていく。スマホからため息が聞こえてきた。
「なんで自分のことなのに覚えてないかな」
「いや、なんか今はテレビ欲しいなって思っちゃって」
「お姉ちゃん、昔からテレビほとんど見てなかったのに?」
「そうなんだけど、ドラマとか見たいなって最近思うようになって。あと、ついでにニュースとか」
「……ニュースがついでって」
その言葉だけで紗綾の呆れた表情が浮かんでくる。冬葉は思わず笑ってしまう。
「でも、なんで急にドラマなんて」
「んー、なんか見てた方が盛り上がりそうなんだよね」
「何が?」
「藍沢さんとの会話」
「……気まずいの? 職場」
一瞬にして紗綾の声が深刻になったことに気づき、冬葉は慌てて「違うよ。そうじゃなくて」と否定する。
「仕事の合間に藍沢さん、よくお喋りしてくれるんだよね。そのときにドラマの話がよく出るんだけど、わたしが見てないからなんだか申し訳なくて」
「ふうん? お姉ちゃんが見てないのにその人はドラマの話を続けるの?」
「うん。あらすじを教えてくれて、それがすっごく面白そうでさ。それで見てみたいなぁって」
「スマホで見れば――。って、そうか。お姉ちゃん、パケ放題じゃないんだっけ」
「そうなの。だから見るにはやっぱりテレビを買うしか……」
「んー。じゃあ、しょうがない。お姉ちゃんの人間関係の良化に必要ということで来月の購入候補だね」
「やったー」
喜びながらメモに書いていると「それにしても」と紗綾が真面目な口調で「お姉ちゃん、最近はその藍沢さんのことか恩人さんのことばっかりだね」と言った。
「え、そう?」
「そうだよ。まあ、藍沢さんは職場の先輩さんだからわかるけど、恩人さんのことはちょっと心配だな」
冬葉は「え、なんで?」とメモを書く手を止めてスマホを見つめる。
「なんでって、よくわからない人じゃん。名前なんだっけ?」
「蒼井蓮華さん」
「何歳?」
「十九」
「どこに住んでて何してる人?」
「さあ」
「なんで深夜の公園に現れるの?」
「散歩だって言ってたよ。あ、あと歌が上手くてすごく綺麗」
「……どうすんの。その人が壺を買ってくれって言ってきたら」
「え、なにそれ」
再びスマホからため息が聞こえた。
「壺は極端にしても、お姉ちゃんは少し仲良くなれたと思ったら疑うことを忘れるから心配って話」
「えー、大丈夫だって。蓮華さんも普通の――」
「普通の?」
普通の、と繰り返しながら冬葉は首を傾げた。年齢的には大学生なのだろう。学校には行っているのだろうか。それとも働いているのか。そういえば居候をしているようなことを聞いた気もする。
「……聞いてみようかな。彼女のこと」
「怪しいから会わないっていう選択肢はないんだ?」
「だって怪しくないもん」
「そうですか」
紗綾はなぜか不機嫌そうな声で言うと「この後、会うんだっけ?」と続けた。
「うん。日付が変わるくらいの時間に公園で」
「――それが怪しいって言ってんのに」
たしかに紗綾の言う通り、普通はそんな時間に待ち合わせなんてしないだろう。だが、冬葉と彼女にとってはそれが初めて会った時間であり、その時間に会うことに何も違和感はない。
冬葉が黙っていると「まあいいや」とため息を吐いた。
「紗綾、最近はため息ばかりだね」
「誰かさんのせいでね」
冬葉は苦笑しながら時間を確認する。テーブルの上に置かれた目覚まし時計は午後十一時半を指している。
「ごめん、紗綾。もうそろそろ行かなくちゃ」
「うん。あ、あと来週の連休なんだけど」
「来週……。ああ、ゴールデンウィーク?」
「そう。お姉ちゃんとこに行くからね」
「え? いいけど、布団ないよ?」
「一緒に寝ればいいじゃん」
「狭いでしょ」
「じゃ、適当にバスタオルでも掛けて寝る。とにかく行くから。決めたから」
「うん。それはいいけど、ちゃんとおばさんとおじさんに許可をもらってね?」
「わかってるよ」
紗綾は不機嫌そうな声でそう言い捨てると通話を切ってしまった。
「ゴールデンウィークか」
本当は自分が帰ろうと思っていたのだが、あの様子では紗綾がこちらに来ると言って聞かないだろう。家で何かあったのか、それとも学校で何か嫌なことでもあったのか。
――もっと相談してほしいのにな。
ぼんやりとスマホを見つめながら思う。最後に彼女から何か相談されたのはいつのことだっただろう。そもそも相談されたことがあっただろうか。考えてみたが思い当たることはない。
――頼りないのかな。やっぱり。
冬葉は小さくため息を吐くと出掛ける準備を始めた。
「ふうん? 妹さん、しっかりしてるんだね」
深夜の公園。灯りが降り注ぐブランコに並んで座りながら冬葉は紗綾との会話を、かいつまんで蓮華に話して聞かせた。蓮華は笑みを浮かべながら「お姉ちゃんのこと心配でたまらないって感じ」と続けた。冬葉はため息を吐く。
「蓮華さんのことも怪しいって言うんですよ?」
「いや、それは正解だと思うよ?」
その言葉に冬葉は驚いて目を丸くする。彼女は「まあ、さすがに壺は売らないけど」と苦笑した。
「でも、普通はこんな夜中に公園に来てる女なんて怪しいって思うでしょ」
「そうなんですか?」
「そうなんですよ。冬葉さん」
名前を呼ばれて一瞬ドキッとしてしまう。そんな冬葉の反応には気づかず、蓮華は軽く息を吐くようにして笑った。
「冬葉さん、ちょっと世間と認識ズレてる感じするよね」
「……そうでしょうか」
「そうだよ。まさか今日も来るとは思わなかったし」
「そりゃ来ますよ。だって――」
「だって?」
――会いたいと思っていたから。
だが、どうして会いたいと思ったのかはよくわからない。わからないが思ったのだ。彼女のことをもっと知りたい、と。
「――冬葉さん?」
黙り込んでいた冬葉を怪訝に思ったのか、蓮華は首を傾げた。冬葉はそんな彼女の顔を見つめる。
――やっぱり綺麗だな。
先週、近くで見た彼女の顔を思い出す。そして急に恥ずかしくなって彼女から顔を背けた。
「あれ。もしかして怒った?」
「え、怒っ……? え、なんで?」
「いや、それはこっちが聞きたいっていうか。急に顔を背けるし。ああ、もしかして名前呼ばれるの嫌だったかな」
蓮華は困ったような顔で軽く頭を掻く。
「先週、下の名前教えてもらっておきながら桜庭さんって呼ぶのもどうかなと思ったんだけど。馴れ馴れしいって思ったなら――」
「全っ然!」
思わず力を込めて言ってしまった。蓮華は驚いたのだろう、目を大きく見開いた。
「あ、いや。その、ぜんぜん名前呼びは、その、嫌じゃないです。むしろちょっと嬉しいというか」
「そう?」
「はい。わたし、あんまり名前で呼んでくれるような親しい友達もいなかったので」
俯きながら冬葉は言う。蓮華は「へえ」と呟くように言うと「なんか意外」と優しい声で続けた。
「冬葉さん、こんなにおもしろいのに」
「おもしろ……?」
「うん。もっと知りたいな、冬葉さんのこと」
視線を向けると蓮華は膝に頬杖をついて冬葉のことを見ていた。視線が合い、冬葉は慌てて逸らす。するとフフッと彼女が笑った。
「冬葉さんは恥ずかしがり、と」
「……わたしのことばかりじゃなくて蓮華さんのことも教えてほしいんですけど!」
強い口調で誤魔化しながら冬葉は公園の適当なところへ視線を向けながら言った。
「わたしのことかー。たしかにね。妹さんにわたしが怪しくないってちゃんと伝えてもらわないと冬葉さんと会えなくなっちゃうしなー」
キィッとブランコが軽く揺れる音がした。灯りによって彼女から延びた影が揺れる。
「でもわたしのことって言っても、名前と年齢は言ったじゃん?」
「十九歳、でしたっけ」
「うん」
「学生さんですか?」
「ううん。高卒」
「じゃあ、就職を?」
しかし蓮華は答えなかった。見ると彼女は「就職、か」と鎖を掴んでブランコを軽く揺らしながら地面を見つめていた。
「就職はしてない、かな」
言って彼女は自分で納得するように「うん、してないや」と頷いて顔を上げた。大きくブランコが一度揺れ、ザッと地面を擦る音が響いて止まった。
「やりたいことをやってたって感じかな」
「やりたいこと……」
「そ。まあ、今は何もやってないんだけど」
彼女はそう言って笑うと「今は親戚だった人の家に居候しながらニートって感じ」と続けた。
「そんな明るく言うようなことじゃ……。それに親戚だった人って、なんで過去形なんですか」
「だってそうなんだもん。兄貴の元奥さんだからさ」
なるほど。であれば、たしかに親戚だった人という関係になるのだろう。
「冬葉さんはこの街に来たばっかりなんだよね?」
「そうですね。わたしは高校卒業して一度就職したんですけど、上手くいかなくて……。それからはバイトだったり、再就職したりしてました。でも精神的に甘かったんでしょうね。わたし、どうしても馴染めなくて、仕事もミスばかりで周りに迷惑をかけて……。何も続けられなかったんです」
「でも、ちゃんと今は働いてるんだ」
「まだ二ヶ月ですよ」
「職場の人とも上手くやれてるんでしょ? 先週のお菓子のお店だって職場の人から教えてもらったって言ってたじゃん」
「それは、その人が良い人で」
「じゃあ、頑張れるね」
心地良く、優しい声が続ける。
「知らない街にたった一人で来てさ、誰も知らない場所で一人で頑張らなきゃいけないなんて辛いでしょ。でも、そんな中で一人でも自分に良くしてくれる人がいれば気持ちは全然違うもんね」
その言葉は優しく、しかしどこか悲しそうに聞こえて冬葉は彼女を見つめた。彼女は微笑みながら冬葉と視線を合わせる。
「頑張れるね、きっと今度は」
まるですべてを見透かしているような彼女の言葉は、それとは正反対に自分はもう頑張れないと言っているようにも聞こえて思わず冬葉は「なんで」と呟いていた。優しい言葉とは裏腹に彼女の表情がとても悲しく見える。
「ん?」
なんでそんな顔をするのか、理由を知りたいと思う。しかし気軽に聞いてはいけないような気がして言葉が出てこない。彼女にはそんな表情をして欲しくない。よくわからない感情は涙となって冬葉の瞳から溢れていた。
蓮華は「え! なんで泣くの?」と慌てた様子でわたわたと手を動かしている。冬葉は泣きながら笑ってしまう。
「いや、笑わないでよ。てか泣くのもダメ!」
「うん。ごめんなさい。なんか自分でもよくわからなくて」
冬葉は涙を拭いながら笑った。蓮華はホッとしたように息を吐くと「いきなり泣かれるのは心臓に悪いよ」と苦笑する。冬葉はもう一度謝りながら「でも、うん」と頷いた。
「蓮華さんの言う通り、今度は頑張れると思います。頑張らなくちゃいけないんです」
「どうして?」
「妹に、夢を叶えてほしいから」
そのとき、蓮華の表情が変わったように思えた。しかしそれも一瞬のことで彼女は柔らかく微笑んで「妹さんの夢は何?」と聞く。
「それはわからないんです。でも夢があるってことは確かで……。あの子には何も気兼ねすることなく夢を叶えてほしいんです。そのためにわたしは頑張って働くんだって決めて親戚の家を出てきたので」
「親戚……?」
冬葉は頷いた。
「うち、両親は事故で他界しているので」
「そっか……」
それ以上、彼女は何も聞かなかった。代わりに「頑張れ、お姉ちゃん」と優しい声で言う。
「はい。頑張ります。今度は頑張れますよ。蓮華さんが言う通り、この街には優しい人が二人もいますからね」
「二人……?」
蓮華が首を傾げる。冬葉は笑って「職場の先輩と、蓮華さんです」と頷いた。彼女は目を丸くしたがすぐに嬉しそうに「そっか」と笑った。
「あ、そういえば明日、その職場の先輩と例のカフェに行くことになったんですよ」
「例のって……。ああ、先週のお菓子のお店?」
「はい! お給料日が来たからちょっとだけ贅沢をと思って」
「いいなー。わたしも行きたかったなー」
「メニューとか味とか確かめてくるので、美味しかったら一緒に行きましょ?」
「なにそれ。冬葉さん視察してきてくれるの?」
「してきます! あと、お土産も買ってきますよ」
蓮華は笑って「それは悪いからいいよ」とやんわり断った。
「わたしへのお土産買うよりも、まずは生活に必要なものを買いなさいって妹さんに怒られるよ?」
それは否定できない。黙っていればバレないだろうが、つい紗綾には何でも話してしまう。黙っていられる自信はまったくない。
真剣に考えていると蓮華はフフッと笑って「じゃあ、今日はもう帰ったほうがいいね」と言った。
「え?」
「明日、お出掛けなんでしょ? 早く寝ないと寝坊しちゃうよ? 寝不足の顔で先輩に会うのもどうかと思うし」
「それは……」
たしかにその通りだが、まだもう少し話をしたい。そう思っていると彼女は「また来週、ここでね」と笑った。
「また聞かせてよ。冬葉さんのこと」
冬葉は微笑む。
「じゃあ蓮華さんのことも、もっと聞かせてくださいね」
蓮華は「しょうがないなー」と頷いた。冬葉も頷き、そして立ち上がる。
「蓮華さんは?」
「わたしはもう少しここでのんびりしてから帰るよ」
「そうですか。あまり遅くならないようにしてくださいよ?」
「もう十分遅い時間だけどね」
「たしかに」
冬葉は笑って彼女に手を振る。
「じゃあ、また来週」
「うん。気をつけてね」
手を振り返す蓮華に頷いて冬葉は公園を出た。道を歩いていると背中の向こうから柔らかな歌声が微かに聞こえてくる。
冬葉は足を止めて振り返る。公園から聞こえてくる蓮華の歌声。
それは先週とは違い、どこか切なく悲しそうだった。