第一話 後編
――どうしてここにいるんだろう。
金曜日。仕事を終えた冬葉は混乱した思考のまま歩いていた。
そこは綺麗な並木道。両側には様々な店舗が並んでいる。そのどれもがセンスの良さそうな店構えをしており、とても冬葉一人では入れそうに無いところばかり。当然、この通りに来たのも初めてだ。
週末の夕暮れ時、通りには仕事帰りなのだろう人々が楽しそうに歩いていた。これから食事にでもいくのか、みんなスーツやお洒落な服を来た人たちばかりだ。それに比べて冬葉は明らかに安物の服。周りから浮いていることを実感せざるを得ない。
冬葉は浅くため息を吐いて斜め前を歩く長身の女性に視線を向けた。
スラリとスーツを着こなした彼女は、この通りを歩いていても違和感がない。それどころか絵になるほどだ。
「この先にね、美味しい焼き菓子のお店があるんだよね」
藍沢は楽しそうに軽く前方を指差して冬葉を振り返った。冬葉は笑みを浮かべながら、どうしてここにいるんだろう、と再び思考を巡らせる。
たしか仕事の息抜きで雑談をしていたときに藍沢に聞いたのだ。知り合いに贈るお礼の品として何がおすすめですか、と。そうしたら彼女は真面目に考えてくれた後「無難なのは、やっぱりお菓子じゃない?」と答えてくれた。
「お礼とはいえ、あまり高価なものだと相手も気が引けちゃうだろうし。あ、でも甘い物苦手な人だったらアレかなぁ……。アレルギーとかもあるかもしれないし。その人って、どんな人? 年代とか、性別とか」
「え、えっと、十九歳の女の子です。アレルギーとか好き嫌いはわからなくて」
「あー、じゃあ焼き菓子とかいいんじゃないかな。あんまり嫌いって言う人聞かないし。わたしの知ってる店、アレルギー対応の物もあるから良ければ紹介するよ?」
「ほんとですか? 助かります」
「じゃ、今日は定時退社して一緒に行こっか」
「はい。え……?」
「決まり! じゃあ、さっさとお仕事すませちゃおう」
楽しそうに笑って藍沢は作業に集中し始めた。それが今日の午後のこと。
本当に定時後にこうして一緒に買い物に来ることになるとは思わなかった。
「あの……」
冬葉は前を歩く藍沢に声をかける。
「んー? あ、もしかしてお腹減った? どっかでご飯食べるのもアリだよね」
職場にいるときよりも親しみやすい雰囲気の藍沢に少し戸惑いながら、どう言葉にしようかと迷う。
お店を紹介してもらえるのは助かるのだが、正直言って予算が不安だ。この通りの雰囲気を見る限り、冬葉が想定している価格帯よりも高そうなのだ。お菓子は買えるとしても食事をする余裕は正直なところない。
――情けない。
お金がないから外食は断りたいなんてどう思われるだろう。モヤモヤとそんなことを考えていると「あ、着いたよ」と藍沢が足を止めた。顔を上げるとそこは真っ白な壁の綺麗な洋菓子店だった。
中はカフェも併設しているようだが、さすがにそろそろ閉店の様子。外から見えるカフェスペースにはクローズの看板が下げられていた。
「良い時間に着いたね」
ニヤリと笑って藍沢は店に入っていく。冬葉は首を傾げながらその後に続いた。
店に入ると店員の女性が愛想良く「いらっしゃいませ」と笑みを浮かべる。しかし藍沢の顔を見た途端「またこの時間狙って来たんですか?」と呆れたように言った。
「仕事終わりに来ると必然的にこの時間なんだよねー」
「まあ、こちらとしては助かりますけど」
店員は苦笑しながら視線を冬葉に向ける。
「藍沢先輩のお友達ですか?」
「――藍沢、先輩?」
冬葉が呟くと藍沢は頷いた。
「この子、高校の後輩なんだよね。同じバスケ部で、万年補欠の」
「一言余計です」
冬葉は笑う。
「それじゃ、高校時代からのお友達なんですね」
「いや、そうでもないんですよね。偶然ここに先輩が来るまでは疎遠になってたんです。でも金曜の閉店前に商品が安くなるって知ってからはよく来てくれるようになって」
「安く……?」
冬葉は呟きながら藍沢を見る。彼女は笑って「週末の閉店が近くなるとね、賞味期限近いものを値引きしてるんだってさ」と言った。
「まあ、賞味期限近いって言っても今日までってわけでもないし、お礼の品としては値段もちょうどいいかなと思ってさ。あ、でもその人と会う日が遠かったらちょっと無理か」
それは考えてなかったと藍沢は難しい顔をする。冬葉は慌てて「あ、それは大丈夫です」と手を振った。
「今日会う約束なので」
「そうなの? って、え? 今日? 大丈夫なの、時間?」
「ああ、はい。それも大丈夫です」
「そう? だったらいいけど」
「先輩、友達の予定も聞かずに連れてきたんですか」
店員の言葉に藍沢は笑って誤魔化すと「さ、本日のオススメを教えてください」と言った。店員はため息を吐いてから「どなたかへのプレゼントということでよろしいですか?」と冬葉に笑みを向ける。
「あ、えと、はい。プレゼントというか、お礼の気持ちというか。でもその人が甘い物好きかどうかよくわからなくて」
「なるほど。でしたら、こちらの詰め合わせがよろしいかと。クッキーやマドレーヌなど色んな焼き菓子の詰め合わせです。甘すぎず淡泊すぎない味で量的にも価格的にもちょうど良い感じだと思いますよ」
「じゃあ、それでお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
「ね? ここ、良いお店でしょ。店員に聞けば勝手に選んでくれるから迷うことなし」
「たしかに、そうですね。優柔不断なわたしには助かります」
冬葉が笑うと藍沢も嬉しそうに笑った。
「味も保証するよ。カフェメニューも美味しいからさ、今度来ようよ」
「はい。是非」
言いながらそういえば、と藍沢を見つめる。彼女は不思議そうに首を傾げた。
「いえ。その、後輩さん誤解したままですけど、いいのかなって」
「誤解?」
「わたしのこと、藍沢さんの友達って」
「え、誤解なの?」
「え?」
「いいじゃん。今は勤務外なんだし、友達で」
気にした様子もない藍沢に何と返そうか迷っているうちに「お待たせしました」とレジに呼ばれてしまった。
「贈り物ということで、軽めにラッピングしておきました」
レジカウンターの上には控えめだが可愛らしい袋が置かれていた。冬葉は恐縮しながら「ありがとうございます」と頭を下げる。
しかし、なぜか店員は「こちらこそ、ありがとうございます」と笑みを浮かべて視線を冬葉の肩越しに向けた。振り返った先では藍沢が壁に貼られたカフェのメニューを見ている。
「先輩があんな顔してるの、久しぶりなんですよ」
コソッと彼女が言う。
「え、あんな顔って……」
「すごく楽しそうに笑ってるでしょ? 先輩があんな風に笑ってるの、いつ以来かな」
「でも、藍沢さんはいつも笑顔で楽しそうですよ?」
冬葉の言葉に店員は「それは、きっとあなたのおかげですね」と優しい笑みを浮かべた。
「先輩、あんな人たらしみたいなタイプですけど、けっこう一途で繊細なんです。なので、これからもよろしくお願いしますね」
「え、はあ……」
言われた意味がよくわからないが、とりあえず冬葉は頷きながら会計を済ませた。
「お会計終わった?」
「あ、はい。すみません。お待たせしてしまって」
「今度はカフェタイムに来るから、サービスよろしく」
藍沢は店員にそう声を掛けると「じゃ、帰ろっか」と店の外に出て行く。冬葉も出口へ向かいながら店員を振り返る。彼女は優しい笑みを浮かべたまま「またお待ちしてますね」と手を振って見送ってくれた。
「良い人ですね。後輩さん」
通りを駅へと向かいながら冬葉は言う。藍沢は「うん。良い奴だよ。あいつは――」と頷いた。その言葉には何か特別な想いが込められているような気がして冬葉は「そうなんですね……」と、ただ頷いた。
「じゃあ、今日はもう解散かな」
「え、夕飯は――」
言ってから冬葉は慌てて口をつぐむ。藍沢は「なんだ。やっぱり一緒にご飯食べたかったんだ?」と笑った。
「いえ、その……」
そういうわけではない、というと語弊があるが正直なことを言うには無駄なプライドが邪魔をする。藍沢は笑いながら「今日はもう十分楽しかったからさ」と言った。
「夕飯で楽しい時間を過ごすのは、また今度にしようかなと思って」
「また今度?」
「そ。それまでに桜庭さんの食事の好みを把握しとかなきゃね」
「わたしは何でも食べますけど」
「それは良いね」
ククッと藍沢は笑ってから「じゃあ、駅はこの先だから」と立ち止まった。
「わたし、実はこの近所に住んでるんだよね」
「え、そうなんですか」
「うん。だからここで解散ってことで」
「わかりました。すみません、わざわざ付き合って頂いて」
冬葉の言葉に藍沢は「いいよ。じゃあ、また来週」と手を振った。
「はい。また来週」
冬葉も手を振ってから駅に向かって歩き出す。そうしながらチラリと後ろを振り向くと、藍沢が職場では見たことのない優しい表情で冬葉のことを見送っていた。
まだ少し夜は冷える。冬葉は両手に温かいココアの缶を持って公園に向かっていた。本当は水筒に珈琲を淹れていこうとしていたのだが、紗綾に止められてしまった。
「お姉ちゃんだけが飲むためなら止めないけど、もしその恩人さんに分けるつもりなら、ちゃんと自販機とかコンビニで買ったものにしなよ。ていうか、深夜に珈琲ってどうなの」
たしかにその通りだ。先週、彼女は言っていた。寝る前の散歩だと。だったらカフェインのあるものはよくないだろう。かといってココアが良いのかどうかもよくわからないが。
思いながら冬葉は公園への道を歩く。スマホを確認すると時刻は二十三時五十分。
――もう来てるかな。
それとも来ていないだろうか。そもそも本当に来てくれるだろうか。先週の言葉は気まぐれで、もう二度と会えないかもしれない。
公園が近づくにつれてそんな不安が広がっていく。そのとき、微かに聞こえた歌声に冬葉はハッと足を止めた。
風に運ばれてくるのは優しい童謡のようなメロディ。どこかで聞いたことがあるようで、しかし知らない曲のような気もする。
歌声に誘われるように足を進めた冬葉は公園の入り口で再び足を止める。
公園中のライトが降り注ぐブランコに座る少女。彼女はユラユラと軽くブランコを揺らしながら目を閉じ、歌を口ずさんでいた。それはとても優しくて心を包み込んでくれるような歌声。
ライトを受け、凜と背筋を伸ばして歌う彼女の姿はとても言葉では表現できないような美しさだった。
歌に聴き惚れていると、ふとその歌声が止まった。気づくと彼女が冬葉に視線を向けている。
「なんだ、来たんだったら声かけてよ。桜庭さん」
柔らかな表情で彼女は言う。冬葉は「あ、ごめんなさい」と慌てて謝った。
「その、綺麗な歌だったからつい……」
「聴き惚れちゃった?」
「はい」
頷いた冬葉に彼女は目を丸くする。そして照れたように笑ってから「お隣、どうぞ」と空いているブランコに手を向けた。
「あ、失礼します」
声をかけてから隣のブランコに腰掛けると「さっきの歌、なんていう曲ですか?」と訊ねた。
「んー? さあ」
「え……」
「適当だよ、適当」
オリジナルということだろうか。もしそうなら、かなりすごいことなのではないだろうか。思いながら彼女を見つめていると「それにしても桜庭さん、器用だね」と少し呆れたような表情で彼女は言った。
「え?」
「それ。よく両手に持ったままブランコ座れたなって。実はけっこう体幹しっかりしてる系?」
彼女は言いながら冬葉の手元を指差した。そのとき、ようやく冬葉は自分がココアの缶を両手に持ったままだったということを思い出す。
「あ、ただ忘れてただけです」
「……普通忘れるかな。手に持ってること」
冬葉は笑って誤魔化しながら「これ良かったらどうぞ。まだ夜は冷えるから」とココアを一本差し出した。
「いいの?」
「そのために買ってきたので」
「そっか。ありがとう。確かに今日はちょっと冷えるよねー」
彼女は嬉しそうにココアを受け取るとさっそくプルタブを開けた。冬葉は自分の缶は地面に置いてから「それと」とバッグからお菓子が入った袋を取り出す。
「これも」
「え、なに?」
「先週のお礼です」
「ああ、本当にくれるんだ?」
「当然です。お口に合うかわかりませんが」
「てことは食べ物だ? ありがとう。開けてもいい?」
「どうぞ」
なんとなく緊張しながら冬葉は彼女が袋を開けていく様子を見守る。
「あ、お菓子がいっぱいだ! しかも美味しそう」
「――あの、実はそれ、あまり賞味期限がなくて」
言おうかどうしようか迷ったが、言わないよりは言っておいた方がいいだろう。彼女は「そっか。じゃあ一緒に食べよ」と袋から一つを取り出して冬葉に差し出した。
「え、いやいや。それはお礼に差し上げたものなので」
「いいじゃん。家に持って帰ったら海音に食べられちゃうのがオチだもん」
「海音、さん?」
「あ、居候している家の主」
「え?」
「まあ、だから他人に食べられるよりも一緒に食べちゃった方がいいでしょ? 食べようよ。ちょうどココアもあることだし」
彼女はそう言ってココアの缶を軽く左右に振った。冬葉は微笑んでから「じゃあ、いただきます」とクッキーを一つもらう。
「おー、これおいしいね。桜庭さん行きつけのお店なの? 店名、オシャレすぎて読めないけど」
クッキーを一つ口に放り込み、彼女は袋に貼られた店名シールを見つめている。
「職場の先輩に教えてもらったお店なんです。そこ、カフェもやってるみたいなんですよ」
「へー、いいね。行ってみたいな」
「行ってみたいですよねー」
「行けるでしょ、桜庭さんは」
「今のところ、万年金欠なもので」
冬葉の答えに彼女は笑った。そしてまた二人並んでお菓子を食べる。
少し冷たかったはずの空気が気のせいか温かく感じる。居心地の良いゆったりとした時間だ。こんな穏やかな時間を過ごすのはいつ振りだろうか。
「良いね」
まったりとお菓子を味わっているとふいに彼女がそう言って微笑んだ。
「え?」
「今日の桜庭さん、良い感じだよ」
「え、そうですか? えと、何が?」
首を傾げると彼女は「何がって……」と冬葉をじっと見つめる。
「よくわかんないけど」
「何ですか、それ」
「雰囲気、かな。先週よりも全然良い」
「そりゃ、今日は鍵を無くしてませんから」
たしかに、と彼女は笑う。そして鼻歌を口ずさみ始めた。さっきとは違う曲。しかし、心に染みこんでくる優しい歌声。これもオリジナルなのだろうか。
「――歌、好きなんですね」
しばらく聴き入ってから冬葉は口を開いた。
「そう思う?」
「思うっていうか、そう感じます。とても優しい歌声だから」
「ふうん?」
彼女は少し顎を上向かせると何か考えるように首を傾げた。そして手に持っていた小さなマフィンを食べ終えてから立ち上がる。ガシャンとブランコの鎖が鳴った。
「お菓子も無くなっちゃったし、そろそろ帰ろっか」
「あ、そうですね」
冬葉は慌てて手に持っていたマドレーヌを口に放り込む。そうしている間に彼女は冬葉の目の前に立つと腰を屈めてきた。綺麗な顔が目の前に迫り、冬葉の心臓が大きく脈打つ。
「わたしの歌が優しく聞こえたのなら、それはきっと桜庭さんといるからだよ」
「えと、あの……?」
戸惑っていると彼女は柔らかく微笑んで冬葉の口元にそっと触れた。
「マドレーヌの欠片、口元につけてる人初めて見た」
彼女は子供のように笑うと冬葉の口元に触れた指先をぺろりと舐めた。
「え、ウソ! 付いてました?」
「付いてました。そしていただきました」
「なんで食べちゃうんですか。捨ててくださいよ」
「やだ。もったいないじゃん」
からかうように彼女は笑うと「じゃあ、今日は帰るね」と手を振る。
「あの!」
慌てて冬葉は立ち上がった。反動でブランコが少し大きめな音を立てる。彼女は不思議そうに「急にどうしたの、勢いつけて」と首を傾げた。
「いえ、その……。まだわたし、あなたの名前を知らないなって」
「神様って言ったじゃん?」
「真面目に!」
少し頬を膨らませると彼女は「ごめんって。怒らないでよ」と困ったように笑みを浮かべた
「わたしは蒼井蓮華。以後、お見知りおきを」
蓮華は優雅に一礼してみせる。
「蒼井蓮華、さん」
「フルネームはガチガチだから嫌いだなぁ。レンとかレンカでいいよ」
「じゃあ、蓮華さん」
「……まあいいか。それであなたは? 桜庭さん」
「え、わたしは桜庭ですけど」
「それは知ってる」
蓮華は呆れたように笑う。
「わたし、桜庭さんの下の名前は聞いてないんだけど?」
「あ、そうですよね。すみません。冬葉です」
「冬葉。冬葉か……。良い名前だね。なんか白い感じがする」
「白い……?」
しかし蓮華は嬉しそうに頷くと「じゃ、今日は帰るね。お菓子とココア、ありがとう」と踵を返した。
「あ、あの――」
また来週も会ってくれますか。そう言おうとして言葉を呑み込む。
会ったとして何をしようというのだろう。もうお礼はした。それ以上の用事は特に思いつかない。それでもまた彼女と会って、この穏やかな時間を一緒に過ごしたいと思う自分がいる。
「また来週、金曜が土曜に変わる頃にここにいるよ」
彼女はそう言うと公園を出て行った。
「……また会ってくれるんだ」
不思議な感覚が胸に広がっていく。ムズムズするようなこの感覚は何だろう。嬉しい気持ちに似ている、だけどそれとは少し違うような……。
冬葉は彼女の指が触れた口元に手をやる。
「――すごく、綺麗だったな」
ポツリと呟き、そして急に恥ずかしくなって両手で顔を覆う。
――帰ろう!
冬葉は鞄を手にすると急いで帰宅した。