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第一話 前編

「桜庭さん、なんか今週ずっと元気だよね」


 資料作りが一段落して休憩スペースで珈琲を飲んでいると、同じく隣に座って小休憩中の藍沢(あいざわ)ナツミがマグカップを片手に言った。


「え、そうですか?」

「そうだよ。金曜日は疲れてるのに遅くまで付き合わせちゃって悪かったなと反省してたんだけど、月曜からすごく機嫌よさそう。なんか土日に良いことでもあったの?」

「いや、別にたいしたことは」

「ほんとかなぁ」


 疑わしそうに藍沢は冬葉を見つめてきたが、すぐに「ま、元気に働いてくれるのは嬉しいけどね」と笑った。


 藍沢は冬葉の教育係をしてくれている職場の先輩だ。この職場に入って二ヶ月。初日からずっとやらかしてばかりの冬葉を根気強く見守ってフォローしてくれる優しい人だった。新卒で入社し、今年で三年目と言っていたので二十五歳くらいだろうか。

 バスケをやっていたらしい藍沢の身長は百七十センチ近くあり、身体も引き締まっていてパンツスーツ姿がよく似合っていた。この職場はオフィルカジュアルで問題ないのだが、藍沢は必ずパンツスーツを着用している。その理由を聞くと「オフィルカジュアル、いまだにわかんないんだよね」と恥ずかしそうに笑っていた。


「入社したばかりの頃は店員さんに聞いて選んだりしてたんだけど面倒になっちゃって……。いつまで経っても何がオーケーで何がダメなのかまったく区別つかないの。桜庭さんもだけど、他の子たちもどこでそういうの習ったのか不思議だよ」


 そしてどうやらオフィルカジュアルというファッションを考えるより、どんな場所でも問題ないスーツの方が楽だという結論に達したらしい。

 逆に童顔の冬葉からすればスーツが似合わないのでオフィスカジュアルを着るしかない。といっても、適当に周りから浮かないだろう服を選んでいるだけなのでこれがオフィスカジュアルなのかどうかはわからないが……。

 自分もいつかはスーツが似合うようになるのだろうかと考えることもあるが、きっとそうはならないだろうと諦めの気持ちもある。スーツが似合う女性になるためには何が必要だろうか。身長か、あるいは凜々しい表情か。どちらにしても自分には得られそうにない。


「ん、なに。あ、まさか今の発言ってパワハラ? ごめんね? なんかわたし、変なこと言っちゃったかな」


 黙り込んで藍沢を見つめていたからだろう。彼女は心配そうな表情で首を傾げた。慌てて冬葉は「まさか、違いますよ」と笑う。


「ただ藍沢さんって美人でかっこいいなぁと思って――」


 つい素直に思っていたことが口に出てしまい、慌てて冬葉は口を閉じた。目の前では藍沢が驚いたように目を見開いている。

 先輩に対して失礼だっただろうか。そう思ったが、すぐに藍沢は「えー、ありがとう」と嬉しそうに微笑んだ。


「あ、いえ。思ったことそのままなので。あの、すみません」

「え、なんで謝るの」

「その、いきなり失礼だったかなと」


 すると藍沢は「いや、失礼どころか嬉しいけど?」と真っ直ぐに冬葉を見つめて言った。


「あ、えと。そうですか? えっと……」


 どう答えたらいいものか分からず、あたふたしていると藍沢はフッと笑って「桜庭さんって反応面白いよね」と言った。


「そ、そうでしょうか」

「うん。素直っていうかなんていうか。ああ、子犬みたいな感じで大変よろしい」

「こ、子犬?」

「そ。新しい家にもらわれてきた子犬みたいな感じで可愛いね」


 彼女はニッと笑ってから「さて、と」とマグカップを持って立ち上がった。


「あとは任せてもいいかな。わたし、このあとミーティング入ってて」

「あ、はい。あとは種別ごとにファイルをフォルダにまとめて共有に置いておけばいいんですよね」

「うん。あ、あと一応確認用に一式紙に出しといてくれる?」

「わかりました」

「よろしくね」


 藍沢はそう言うと自分のデスクに戻っていく。デスクに着席した彼女の顔にはさっきまでの親しみやすい笑みはない。まるで別人のように真剣な表情をディスプレイモニタに向けていた。





「ねえ、どう思う? デスクに戻った瞬間に笑顔消えちゃったんだよ? わたし、やっぱり失礼なこと言ったかなぁ」


 夜。帰宅した冬葉は夕飯を食べながら妹の紗綾に泣きつくように聞いた。テーブルに置かれたスマホからは「それが失礼なことになるなら誰も恋愛できないんじゃない?」と呆れたような紗綾の声が聞こえる。


「なんでそうなるの。違うでしょ、恋愛してる人と職場の先輩とは」

「まあ、そうだけどさぁ……。お姉ちゃん」


 呆れたような声のまま紗綾は「ちゃんとやれてんの?」と言った。


「え、仕事? ちゃんと上手く……とまでは言わないけどなんとかやってるよ? 藍沢さんは優しいし」

「他の人たちとは? 中途採用だと同期もいないでしょ。その藍沢さん以外の人たちとはちゃんと話できてる?」


 それを聞いて今度は冬葉が「紗綾……」と呆れた声を出してしまう。


「え、なに」

「心配しすぎ。お姉ちゃんはもう立派な大人です」

「立派な大人に思えないから心配してんでしょ。金曜日、家の鍵を無くしたのはどこの誰だったっけ?」

「それは――」


 何も言い返せない。うっかり話すのではなかったと後悔するが、もう遅い。それに、と紗綾は続ける。


「住んでるアパートだってそうだよ」

「え、なに。ちゃんと不動産屋さんに紹介してもらったよ?」

「それはそうなんだけど、二十一の女が一人暮らしする物件としてどうなの。風呂なしトイレ共同四畳半のワンルームって……。鍵はちゃんとしたやつ? 簡単にピッキングされたりしない?」

「ピッキングって……。それに湯船はないけどシャワーはついてるから衛生面では問題ないでしょ」

「そういう問題じゃないんだけど。湯船にだってたまには浸からないと――」


 冬葉は「ほんと大丈夫だってば」と紗綾の言葉を遮って苦笑する。それでも紗綾は言葉を続けた。


「ご飯は? 自炊できてる? 今日の夕飯のメニューを述べよ」

「え、納豆ご飯とお味噌汁」

「お味噌汁はインスタント」

「正解」

「……ダメじゃん」


 ため息が聞こえた。冬葉は声を出して笑う。


「仕事終わりに作る気にはなれないよ。給料日だってまだ来てないし」

「給料日じゃなくても平日じゃなくても、お姉ちゃんの夕飯ってそんな感じでしょ」


 さすがは妹というべきか、見抜かれてしまっている。冬葉は軽く咳払いをしてから「お姉ちゃんのことより」と口を開く。


「あんたは自分のこと心配しなさい」

「わたしのことって?」

「将来のこと。紗綾、来年はもう三年生になるでしょ。今から行きたい大学や専門学校のこととか考えて受験に供えないと」

「……別に進学する気なんてないし」


 しまった、と冬葉は顔をしかめる。高校受験のときもそうだったのだ。紗綾は高校には行かずに働くと言って聞かなかった。それでもなんとか進学してくれたのは相談に乗ってくれていた当時の担任のおかげだろう。

 最終学歴が中学卒業では紗綾の夢は叶わない。そう助言をしてくれたのだそうだ。しかし、その肝心な紗綾の夢を教えてもらうことはできなかった。本人が話していないことを他人の口から伝えることはできない、と。

 しかし姉としてはやりたいことをさせてあげたい。夢を叶えてあげたい。そのためには、やはりいつか彼女の夢を知っておきたい。


「お姉ちゃん……?」


 黙り込んでしまった冬葉を心配したのか、紗綾が不安そうな声を出した。


「――ところでさ、紗綾」


 話題を変えようと冬葉はできるだけ明るい声で言う。


「鍵を拾ってくれた人に何かお礼をしようと思うんだけど、何がいいと思う?」

「えー、お礼? 言葉でいいんじゃない?」

「真面目に考えてよ」

「けっこう真面目だけど。お姉ちゃん、お金ないって言ってるのに」

「ないことはないよ。ただ給料日前ってだけで」

「それってないってことじゃない?」

「……手作りのお菓子とか」

「オーブンあるの?」

「ない。でも、フライパンと電子レンジなら」


 深いため息が聞こえた。


「それで何作るの……」

「ホットケーキとか」

「そもそも見知らぬ他人から手作りのお菓子もらったら、お姉ちゃんどう思う?」

「え、けっこう怖い」

「良かった。少しは一般的な感覚持ってたね」

「ひどくない?」


 冬葉の苦言を無視して紗綾は「買うしかないんじゃない? 何か適当に美味しそうなお菓子とか」と続けた。


「だよねぇ……」


 しかし、まだ越してきたばかりの街だ。どこが良い店なのか冬葉にはわからない。無言で考え込んでいると「それこそ職場の人に聞いてみたらいいのに」と紗綾が言った。


「え、藍沢さんに?」

「まあ、別にその人でも別の人でもいいけどさ。少なくともお姉ちゃんよりはお店知ってるでしょ」

「たしかに」


 正直、藍沢以外の人とはまだあまり会話ができていない。聞くとしたら彼女しかいないだろう。


「明日、聞いてみようかな」

「で、その鍵を拾ってくれた人っていうのは本当に変な人じゃないんだろうね?」

「紗綾」

「なに」

「まるでママみたいだね?」


 再び深いため息がスマホから聞こえた。


「もういい。寝る」

「うん。ちゃんと宿題してね」

「はいはい」

「おばさんとおじさんにもよろしく」

「……うん」

「紗綾」

「なに」

「――おやすみ」

「うん。じゃ」


 スマホの画面が光り、そして消えた。真っ暗な画面が映し出しているのは情けない冬葉の顔。


「……ごめんね」


 狭く静かな部屋で呟く。脳裏に浮かんでくるのは寂しそうで、何かを必死に我慢しているような紗綾の顔。

 一人で暮らすことを告げたときの彼女の表情が忘れられない。それでも間違った決断をしたわけじゃない。紗綾にとって良いのは冬葉と一緒に来ることではなく親戚の家で暮らすことだ。少なくとも今は。

 カチャッと箸が茶碗に当たる。話している間にすっかりご飯も味噌汁も冷めてしまった。しかし温め直すのも面倒だ。冬葉はモソモソと冷たいご飯を口に運び、味気ない食事を続けた。

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