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第八話 後編

 それから海音とは当たり障りのない会話をして別れた。

 互いにどこまで踏み込んでいいのかわからない。そんなぎこちない会話ではあったが、海音がどれだけ蓮華のことを想っているのかということはその話し方や表情からわかった。そして彼女がどれだけ優しい人なのかということも。


 ――みんな優しいのに。


 ガサガサと両手に買い物袋を提げてアパートへ向かいながら冬葉は思う。

 蓮華も海音も、そして藍沢もみんな優しい人なのだ。

 誰が悪いということはない。ただすれ違ってしまっているだけ。そのすれ違いが元通りになったとき、三人の関係はどうなるのだろう。そこに自分の居場所はあるのだろうか。

 考えて少しだけ不安になる。少し話を聞いただけでもわかる。彼女たちの関係は誰が見ても特別なものだ。そこに他人が入り込む余地はない。


 ――別に、元通りになるだけか。


 そうだ。何を不安になっているのだろう。そこに自分の居場所がなくなっても、それは元通りになるだけなのだ。それは冬葉にとっては少し寂しい。しかしきっと蓮華たちにとっては良いことだ。

 そんなことを思いながらアパートの階段を上がっていくと部屋のドアの前に誰かが立っていた。冬葉が近づく音に気づいたのか、その人物がこちらを振り返る。そして「あ、帰ってきた」と低い声で呟いた。


「紗綾? あれ、なんでここに?」

「来ちゃダメなの?」


 紗綾はそう言うと眉を寄せる。どうやら不機嫌のようだ。冬葉は「そんなことないけど」と玄関の鍵を開けて中に入った。


「いつからここに?」

「二時間くらい前」


 その答えに冬葉は目を見開く。


「なんで連絡してくれなかったの」


 しかし彼女は無言でテーブルの前に座り込むと小さなバッグを床に置き、クッションを抱きかかえた。特に泊まり用の荷物も持って来ていないようだ。


「どうしたの、紗綾」

「なにが? 会いに来ちゃ行けなかった?」

「そんなことないよ。でも、なんか変だから」


 冬葉は荷物を適当に置いてケトルに水を入れると湯を沸かし始めた。


「……どこ行ってたの。買い出しに二時間以上かかるとは思えないんだけど」


 紗綾が買い物袋に視線を向けながら言う。


「カフェ行ってたから」

「誰と?」

「なんで誰かと行ったって思うの。わたし一人かもしれないでしょ?」


 コポコポと湯が沸き始めた音を聞きながら冬葉は苦笑する。しかし紗綾は表情を変えることなく「お姉ちゃんが一人でカフェなんて行くわけない」と言った。


「そんな決めつけなくても。お姉ちゃんだってたまには一人で行くかもよ?」

「誰と行ったの? 蒼井蓮華?」

「違うよ」


 冬葉は視線をケトルに向けながら答える。


「じゃあ、誰?」

「海音さん」

「海音……。誰?」

「蓮華さんのお姉さんみたいな人、かな」


 別に隠すこともないだろうと冬葉は正直に話す。今ここではぐらかすようなことを言えば、それこそ紗綾の機嫌を損ねるだけだろう。


「紗綾も会ったことあるよ。スーパーで」

「……ああ。あの人と一緒にいた」


 紗綾は眉を寄せると「いつの間に仲良くなったの?」と言った。


「その海音って人の話なんて聞いたことないんだけど」


 パチンとケトルのスイッチが切れた。注ぎ口からは白い湯気がフワフワと上がっている。


「仲良くっていうか、買い物行ったら偶然会ったから」


 言いながら冬葉はマグカップにココアを淹れるとテーブルに運んだ。


「はい。寒かったでしょ」

「……お姉ちゃん、もうあの人と関わるのはやめなよ。その海音って人ともさ」


 目の前に置かれたマグカップを両手で包み込みながら紗綾は呟くように言う。冬葉は彼女の隣に腰を下ろしてココアを一口飲んだ。


「――どうして?」

「……どうしてって、わかるでしょ?」

「わかんない」


 冬葉が答えると紗綾は横目で見てきた。そしてため息を吐く。


「あの動画、見たんだよね?」

「蓮華さんの?」

「そう」

「見たよ」

「コメント欄も見た?」

「うん。見た」

「だったら――」

「でも、あれはわたしが知ってる蓮華さんのことじゃないから」


 紗綾の言葉を遮って冬葉は言った。


「何言ってんの?」


 紗綾が眉を寄せて冬葉に顔を向ける。


「お姉ちゃん、あの人の過去知らないの? 調べたりしなかった?」

「知ってるよ」


 冬葉は微笑んだ。


「蓮華さんから全部聞いた」

「あの人から? どうせ本当のこと言ってないんじゃないの」

「そんなことないよ。全部、ちゃんと話してくれた」

「全部? ほんとに?」

「うん」

「あの人がファンの子を殺したっていうのも?」


 それを聞いて冬葉は目を見開いた。


「聞いてないんだ? やっぱり」


 紗綾は眉を寄せると低く「お姉ちゃん、騙されてるよ」と続けた。


「……紗綾こそ、その話はどこで聞いたもの?」

「どこって、みんな言ってるよ。当時はネットでも騒がれてたし」


 冬葉は小さく息を吐くと「その子は亡くなってないよ」と静かな口調で言った。


「その子はたしかに自殺しようとした。でも一命は取り留めたの」

「ウソ」

「ウソじゃない」

「なんでわかるの」

「蓮華さん、その子に何度も謝りに行こうとしたんだって。でも、謝罪は受け入れてもらえなかったらしいんだけど」

「そんなのあの人が――」

「紗綾。紗綾の話は全部ネットで見聞きしたことでしょ?」


 冬葉が言葉を遮ると紗綾はグッと口を閉ざした。


「わたしは蓮華さんに話を聞いた。子供の頃のこと、家族のこと、お仕事のこと、そのファンの子のこと、海音さんのこと。蓮華さんが生きてきた人生をちゃんと聞いたんだよ。あの話にウソはない。わたしはそう思う」

「……お姉ちゃんは騙されやすいから」

「そうだね。だけど、ネットで流れてる情報が本当だという確証はないでしょ」

「それは――」


 紗綾は俯き「そうだけど……」と消え入りそうな声で呟いた。冬葉は微笑み「紗綾」と声をかける。


「わたしのこと心配してくれたんだよね? わたしが頼りないから」


 紗綾は俯いたままチラリと冬葉を見た。


「お姉ちゃんは頼りなくはないよ」

「そう?」

「そうだよ。ただ、ちょっと鈍くさくて抜けてて騙されやすいだけ」

「……それを頼りないっていうんだよ。きっと」


 冬葉は笑ったが紗綾は笑わなかった。マグカップを両手で持ったまま「お姉ちゃんは優しいから」と続ける。


「だから、自分のこともいっぱい我慢してたでしょ。何をするのもわたしの為にって。自分のことよりもわたしの為にって、そうやって楽しいことも我慢して今まで生きてきたでしょ」


 冬葉は目を丸くして「紗綾? 何言ってるの?」と彼女の顔を見る。紗綾はココアを一口飲むと一つ息を吐く。


「――お父さんとお母さんが死んで、おじさんたちの家に引き取られたとき、わたしは子供でお姉ちゃんも子供だった。なのにお姉ちゃんはわたしの前で一度も泣かなかったよね。わたしがいるから、我慢してた」

「そんなこと――」

「わかってたよ。わたし」


 紗綾は冬葉の言葉を遮ると顔を上げて「ずっと知ってた。お姉ちゃんが我慢してること」と微笑んだ。


「でも、わたしはそれが嫌だったんだよ」


 その言葉に冬葉は目を見開く。紗綾は微笑んだまま「お姉ちゃんばっかり我慢してるのは嫌だった」と続ける。


「もっとわたしを頼りにしてほしかったのに、でもわたしは子供だったから頼りないのも当然で……。どうしたらいいのかわからなくて。ようやく高校生になってちょっとはお姉ちゃんを助けることができるかもしれないって、そう思ったらお姉ちゃん一人で決めて勝手にどっか行っちゃうしさ。でも、わたしと離れた方がお姉ちゃんはもしかしたら幸せになれるんじゃないかって一瞬はそう思ったんだよ」

「紗綾、なんでそんなこと」

「荷物は持たない方が楽でしょ? それに少し距離があった方がお姉ちゃんはわたしをもっと大人として見てくれる。そう思ったのにさ」


 彼女はそう言うと悲しそうに視線を俯かせた。


「お姉ちゃんはわたしを頼りになんてしてくれない」

「……そんなこと」

「お姉ちゃんはわたしの言うことを信じてくれない。わたしは、ただお姉ちゃんに幸せになってほしいだけなのに」

「紗綾……」


 紗綾がこんなことを言うのは初めてだった。いつも自分の気持ちを言うような子ではなかった。内気というわけではない。しかし自分に素直になれないような、そんな子。


「わたしは紗綾のことを重荷に思ったことなんてないよ? わたしも同じ。ただ紗綾に幸せになってもらいたいだけ」

「だったらまずはお姉ちゃんが幸せになってほしい。もうあの人とは会わないでよ」

「……なんでそうなるの? 紗綾」

「だって――」


 紗綾の声が震えている。視線を向けると彼女の瞳には涙が溢れていた。


「嫌だよ。お姉ちゃんが傷ついてひどい目に遭うの。蒼井蓮華はひどい奴だって、ネットではそんな話しか出てこない。そんな評判の悪い人の近くにお姉ちゃんにいて欲しくない」


 紗綾は泣きながらそう言って顔を覆った。冬葉はそんな彼女を見つめ、そっと手を伸ばして彼女を引き寄せる。


「蓮華さんはそんな人じゃないよ」

「でも、みんなそう言ってる」

「その人たちは蓮華さんのこと知らないからね。今度、ちゃんと本人に会って話してみてよ。紗綾もわかるよ。蓮華さんがどんなに優しい人なのか」

「……もし、ちゃんと話してみても嫌な奴だってわたしが思ったら離れてくれる?」

「うーん……」


 冬葉は紗綾の頭を撫でてやりながら苦笑する。


「それは困っちゃうな」


 胸元で紗綾が息を吐いて笑ったのがわかった。彼女は冬葉に体重を預けながら「わたし、ナツミさんは好きだよ」と言った。


「あ、そういえばわたしに内緒で連絡とってるでしょ? 藍沢さんと」


 冬葉が言うと紗綾は笑った。


「ナツミさん、すごく良い人なんだもん。お姉ちゃんのことすごく気に掛けてくれてる」

「うん。良い先輩だよ」

「……それだけ?」


 紗綾はそう言うとそっと冬葉から身体を離した。その瞳はまだ涙に濡れていたが、視線はまっすぐに冬葉へ向いている。冬葉は首を傾げた。


「それだけって……?」

「ナツミさんのこと、良い先輩だって思ってるだけなの?」


 冬葉は少しの間、紗綾を見つめてから「何か聞いた? 藍沢さんから」と聞いた。紗綾は首を横に振る。


「でもナツミさんと話してるとさ、なんとなく思っちゃって」


 紗綾は言いながら微笑んだ。


「友達から恋愛相談持ちかけられてるときの雰囲気によく似てたから」

「……そうなんだ」


 冬葉の言葉に紗綾は「納得するってことは、やっぱりそうなんだ?」と首を傾げた。冬葉は微笑み、そして「でもね、まだわからないんだ」と答えた。


「どういうこと?」

「藍沢さんの気持ちはきっと本当で、でも、きっとそれだけじゃなくてさ」

「……あの人からも告白された?」


 冬葉は笑いながら「そういうことじゃなくて」と手元に視線を向ける。


「色々と複雑なんだよ……」

「話してくれないんだ?」

「……まだわからないから」

「色々と?」

「そう」


 冬葉は笑うと「まずは紗綾に蓮華さんのことをちゃんと知ってもらいたいな」と紗綾に寄りかかる。


「わたしは知りたくない」

「そんなこと言わないでよ。藍沢さんのことを知ってくれたように、蓮華さんのことも知ってほしい」

「……お姉ちゃんはさ、女の人が好きなの?」


 紗綾の言葉に冬葉は「さあ。どうなんだろう」と息を吐くようにして答える。


「わからないの?」

「うん。今までそういう経験もなかったし」

「お姉ちゃん、モテるのにね」

「モテないよ」

「モテてるじゃん」


 紗綾はそう言うと彼女もまた冬葉に寄りかかってきた。


「わたしもお姉ちゃんのこと大好きだよ」

「そっか」


 冬葉は微笑む。初めてだった。紗綾が素直に気持ちを伝えてくれたことが。それが嬉しくて温かくて、冬葉は目を閉じて彼女の温もりを感じる。


「――わたしね、お姉ちゃん」

「うん」

「誰よりもお姉ちゃんに幸せになってもらいたいんだ」

「誰よりも?」

「うん。それが、わたしの夢」


 冬葉は紗綾に視線を向けた。彼女は穏やかな表情で微笑んでいる。


「だからわたしはお姉ちゃんの迷惑にならないように早く一人立ちしようと思ってる」


 ――ああ、だから。


 ようやくわかった。ずっと話してくれなかった紗綾の夢。紗綾にはやりたいことがある。それを叶えてもらいたいから紗綾には大学に行ってもらいたかった。しかしどうやら間違えていたようだ。


「早く言ってくれたら良かったのに」

「……言えるわけないじゃん」

「言わないとわからないよ。お姉ちゃんは鈍感なんだから」


 紗綾は笑って「だからさ、お姉ちゃん」と身体を起こして冬葉に笑みを向けた。


「わたしのことは大丈夫だから、ちゃんと自分のことを考えてね」


 妹の夢を叶えたい。それが冬葉の夢だった。その夢を叶えるためには今のままではダメなようだ。冬葉は微笑む。


「じゃ、やっぱりまずは蓮華さんと会ってもらおうかな」


 途端に紗綾は嫌そうに顔をしかめる。だが、それだけだ。嫌だとは言わない。きっと彼女にも変化があったのだろう。


「本当はさ、今日ここに来たのはお姉ちゃんにあの人と会うのをやめてもらおうと説得しに来たんだけど」

「そうなの?」

「うん。でも、その説得はちゃんとわたしがあの人と話した後にしとく」

「説得の時間は永遠に来ないと思うなぁ」

「それはわからないよ。わたしの審査は厳しいからね?」

「何の審査なの」


 冬葉は声を出して笑った。つられるように紗綾も笑う。

 久しぶりだった。こんなにも楽しく紗綾と一緒に笑える時間が。


「――じゃあ、連絡してみるね。蓮華さんに」


 言いながらスマホを開く。


「あ、今日は泊まっていく? 着替えとかならお姉ちゃんの貸してあげられると思うけど」

「そうしようかな。おばさんに連絡しとく」

「うん」


 頷きながら冬葉は蓮華にメッセージを送る。昨日の今日だ。なんだか緊張してしまう。いきなり妹と会ってくれというのは変だろう。何と送ればいいだろうか。

 考えているとポンッとメッセージが届いた。それは藍沢からだった。


『冬葉が一緒にいてくれるなら、海音と話してもいいよ』


 冬葉は少し考えてから返信する。


『わかりました。海音さんに聞いてみますね』


 既読になったが返信はない。藍沢らしくない素っ気ないメッセージだ。


 ――いいのかな。


 二人の会話を自分が聞いてしまってもいいのだろうか。聞いてしまったとき、自分の気持ちに何か変化は起きるだろうか。

 思いながら冬葉は海音にメッセージを送った。


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