第六話 後編
彼女はいつものようにブランコに座っている。しかしいつもとは違った張り詰めたような雰囲気で手元を見ていた。
冬葉はスマホを握りしめたまま公園の敷地内へと足を進める。
一歩、また一歩とブランコへ近づくも彼女は冬葉に気づかない。まるで抜け殻のように動くこともなく、ぼんやりと手元を見つめ続けている。
何を見ているのだろう。
彼女に近づきながら視線をそちらに向ける。彼女は両手で握ったスマホを見つめているようだった。
なんとなく話しかけづらい雰囲気に躊躇していると冬葉が手に持ったままだったスマホがポンッと音を立てた。その瞬間、蓮華が勢いよく顔を上げた。
その表情は驚いたせいだろうか、ひどく強ばっているように見えた。しかしすぐに冬葉だと気づくと柔らかな笑みを浮かべる。
「こんばんは。冬葉さん」
彼女は静かにそう言うと「まさか来てくれるとは思わなかった」と続けた。彼女が座るブランコが少し揺れて鎖が軋む。
「藍沢さんとのデートはどうだった?」
「デート……」
「そうでしょ?」
彼女は笑みを浮かべたまま首を傾げる。
「違います。あれはデートなんかじゃ……」
「でもきっと、藍沢さんは冬葉さんのこと好きだよね」
ゆっくりと彼女はそんなことを言った。
「どうして……」
「わかるよ。だって、冬葉さんは似てるもん」
言って彼女は笑うと「告白された?」と続けた。
「蓮華さん、なんか変ですよ」
「そうかな?」
「そうです。なんでそんな――」
「無遠慮なこと言うのかって?」
「違います。そうじゃなくて」
どうして、こんなにも辛そうで哀しそうな顔をしているのだろう。
こんなに辛そうなのに、どうして笑っているのだろう。
「でも、否定しないってことはそうなんだ?」
「え?」
「告白、されたんだね。藍沢さんに」
「それは……」
「彼女はきっと良い人だよ」
蓮華は微笑んだまま諦めたような口調でそう言った。
「わたしなんかよりも大人で優しくて器も大きい。良い人だと思うよ。ちゃんと仕事もしてるし」
「やめてください」
「ああ、ごめん。そんなことわたしよりも冬葉さんの方がよく知ってるよね。仕事も一緒にしてて、遊びにだって行ってたし。デートだって――」
「今、わたしが会ってるのは蓮華さんですよ。ここにいるのはわたしと蓮華さんだけ。わたしは蓮華さんのことを話したいです」
冬葉が言うと彼女はハッとしたように言葉を呑み込み、そして小さく息を吐いた。
「ごめんね。やっぱりわたし、ちょっと変かもね」
「……メッセージ、見ました」
「うん。既読つくの早すぎてちょっと笑っちゃった」
そう言いながらも彼女の笑みは不安そうだ。
「動画も見ました」
冬葉は言いながら彼女の前に立つ。蓮華は力ない笑みのまま冬葉を見上げた。
「どう、だったかな」
「びっくりしました」
素直に感想を述べると彼女は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに息を吐くようにして笑った。
「感想、予想とは違った」
彼女の言葉に冬葉はハッとして「あ、すみません。すごくなんていうか、その……」と眉を寄せて言葉を考える。
何という言葉が適当だろう。
なんと言えば彼女にこの気持ちが伝わるだろう。
浮かんでくる言葉はどれもしっくりこない。
「――嫌われたかと思った」
「え……?」
冬葉は驚いて目を見開いた。
「え、なんでそんな?」
「だって、見たんでしょ?」
「見ました。すごく素敵な歌で――」
そのとき、再び冬葉のスマホがポンッと鳴った。反射的にスマホの画面を見る。するとそこには紗綾の名前が表示されていた。
「もしかして藍沢さんから?」
蓮華の声に冬葉は「いえ、妹から」と答える。
「そう。妹さん、なんて?」
「今はそれよりも――」
「ダメだよ。ちゃんと見てあげてよ。妹さんからのメッセージ」
弱々しく、しかしどこか強い口調でそう言った彼女の目は何かを悟っているような諦めているような、そんな目に見えた。冬葉は迷いながらも紗綾からのメッセージを開く。
『お姉ちゃん、やっぱりあの人って歌手の蒼井蓮華だった』
そのメッセージと共に送られてきたのは蓮華が送ってくれたあの動画のリンクだ。そして続けて送られてきたメッセージにはこうあった。
『あの子、色々と問題起こして業界から追い出されたって有名なんだよ。だからお姉ちゃん、もうあんな子に会わないでよ。絶対にひどい目に遭うから』
呆然と紗綾からのメッセージを見つめていると「妹さん、なんて?」と静かに蓮華が言った。
「えっと……」
「蒼井蓮華は問題ばかり起こして業界を干されたヤバい奴だからもう関わらないで、とか?」
冬葉は思わず目を見開いて視線を彼女に向ける。蓮華は「当たりだ」と微笑んだ。
「紗綾、きっと何か勘違いしてるんだと思います」
「どうして?」
「だって歌手って、芸能人ってことじゃないですか。でも蓮華さんはこうしてわたしの目の前にいるし。いつも気軽にお喋りしてくれるし――」
すると蓮華は笑った。
「冬葉さんの中の芸能人のイメージってどんななの? まあ、たしかに今はもう芸能人じゃないけどね。事務所との契約も随分前に切れてるし」
言いながら彼女は俯き、軽くブランコを揺らす。
「でも、昔は芸能人だったよ。とくにオーラも才能もないからそんな風に見えないのは当然かもしれないけど。紗綾ちゃんが言うように最低な人間だし」
「違います」
「違う?」
蓮華はザッと足をついてブランコの揺れを止め、俯いたまま「何が?」と言った。
「だって蓮華さんは――」
「うん。わたしは?」
「すごく優しくて温かな人で、あの曲だって本当に素敵で……。あんなに綺麗な歌を歌う人が紗綾が言うような問題を起こしたりとか、そんなことするような人じゃないです」
蓮華は微笑んだままじっと冬葉のことを見つめていたが、やがて「冬葉さん」と口を開いた。
「動画、見てくれたんだよね?」
冬葉は頷く。
「あのチャンネルね、まだデビューする前に作ったものなんだ。だからまだ残ってて。まあ、昔の動画はさすがに消しちゃったけど」
彼女は言って哀しそうに笑った。そして「久々にアップしたけど思ったよりも反応多くてびっくりしちゃった」と続ける。
「あの動画のコメント欄、見た?」
「コメント欄?」
「そう。そこを見ればさ、わかるよ。わたしのことが」
彼女は言って手元に視線を向けた。そこには彼女のスマホが握られている。画面に映っているのは彼女自身のチャンネルページだ。
冬葉もチャンネルページを開き、画面をスクロールさせる。
動画の下の方。そこにコメントがいくつも、いや、何百と書かれている。
その数の多さに驚いたが、すぐにそこに書かれている内容がほとんど同じような言葉で埋め尽くされていることに気づき、冬葉は眉を寄せた。
『なにこいつ、まだいたの?』
『まさか復帰しますとか言い出す系?』
『損害賠償払いきれなくて死んだって聞いてたけど』
『よくまた顔出せたよね。他人の人生台無しにしたんでしょ?』
『人を見下してるような奴の歌、誰が聞くんだろうな』
『また問題起こして干されるだけでしょ』
そんな、蓮華を貶めるような言葉がズラリと並んでいる。どこまでスクロールしても悪意の言葉しか並んでいない。
――どうして。
蓮華はこんなにも優しいのに。こんなにも温かいのに。こんなにも綺麗な歌を歌うのに。
並んだ言葉を見つめるうちに自然と涙が溢れてくる。この涙の理由が怒りなのか悲しみなのか、それとも悔しさなのかよくわからない。冬葉は耐えることができずにスマホを閉じると蓮華に視線を向けた。
彼女はじっと自分の手元を見つめていた。
あの、悪意しかない言葉の一覧を。
「……蓮華さん」
「ね? 冬葉さんもわたしのこと嫌いになったでしょ?」
彼女は顔を上げることなく呟くように言った。
「わたしのこと、ここのコメント見たらすごくよく分かるよ。ご丁寧に昔のニュース記事のリンクも貼ってあるからさ。そこ見てみたら――」
「蓮華さん!」
思わず冬葉は彼女の手からスマホを取り上げた。蓮華は呆然とした表情で冬葉を見上げている。
「……なんで泣いてるの? 冬葉さん」
「なんで泣いてないんですか、蓮華さんは」
「なんでって……」
彼女は困ったように首を傾げた。
「本当のことだから」
「違う」
「違わないよ。ほら、そこのリンクの先の記事見てみてよ。そこを見れば――」
「わたしは!」
冬葉は思わず声を荒げていた。蓮華は驚いたのか口を開けたまま動きを止めた。冬葉は息を吐き出しながら「わたしは」と続ける。
「蓮華さんのこと、ちゃんと知りたいです。こんな、きっと蓮華さんと会ったこともない人たちの言葉なんか信用できない」
「紗綾ちゃんも言ってるよ?」
「紗綾だって蓮華さんと顔を合わせただけです。それに最初から紗綾は蓮華さんのことをネットのニュースか何かで知ってたんですよね」
「たぶんね」
「だったらノーカンです」
「なにそれ。なんのカウントなの」
蓮華は笑った。そして深く、とても深く息を吐いた。
「藍沢さんと一緒にいたんだよね? 今日」
「はい」
「何か言ってたでしょ。わたしのこと」
冬葉は口を閉ざした。
「あの人はネットの人たちとは違うよ。会ったことはないけど、それでもわたしのことを知ってるはず」
「……たしかに、そうかもしれません」
「あの人もわたしのことひどい奴だって言ってたでしょ?」
「そうは、言ってなかったですけど――」
それでも藍沢は蓮華のことが嫌いだと、はっきり言っていた。蓮華は息を吐くようにして「似たようなことは言ってたでしょ」と笑った。
「なんで、笑うんですか」
冬葉は蓮華を睨む。その視線を受けて彼女は困ったように「なんでだろうね」と息を吐いた。
「なんで、そんな顔してるんですか」
じっと彼女の顔を見つめながら冬葉は言う。彼女は困った表情のまま「そんな顔って……。元々こんな顔だけど?」と力なくおどけてみせる。
「どうして怒らないんですか」
冬葉は一歩彼女に近づいて言った。蓮華は少し驚いた表情をしたが「だって、本当のことだし」と笑う。
「本当のこと? こんなの、ただの悪口じゃないですか」
冬葉は言いながら自分と蓮華のスマホを地面に落とした。それに驚いたのだろう。蓮華は「冬葉さん? なに、どうしたの」と視線を彷徨わせる。まるで怒られた子供のように。
そんな彼女の頬を冬葉は両手で包み込んで目が合うように顔を近づけた。
「こんなに辛そうな顔をしてるのに、どうして平気な振りをするんですか」
彼女は呆然としたように冬葉の顔を見つめている。
「こんなに哀しそうなのに、どうして泣こうともしないんですか」
「……だって、わたしは」
「わたしのこと好きだって言ってくれるのに、どうして何もかも諦めたような顔してるんですか」
冬葉は言って彼女の頬に触れていた手を放し、そっと彼女の身体を包み込んだ。
「こんなに寂しそうなのに、どうしてわたしのこと遠ざけようとするんですか」
「だってわたしは、ひどい奴だから」
「わたしはそんなこと一言も言ってないし、一欠片も思ってませんよ。蓮華さん」
「……みんなそう言ってるから」
「わたしも、その『みんな』のうちの一人なんですか?」
「――だって」
蓮華の声が震えている。彼女の肩も微かに震えている。抱いた胸元が少し冷たいのは彼女の涙だった。
蓮華はすすり泣きながら「だって、わたしは海音と藍沢さんの関係を壊した」と続ける。
「家族も事務所の人にも、周りの人みんなに迷惑をかけて……。だからわたしはひどい奴で、ネットでこんな風に言われ続けるのも当たり前で……。だからわたしは――」
「わたしは、この公園で会った蓮華さんしか知らないから」
冬葉は彼女の言葉を遮って言った。蓮華はハッと息を飲み込むようにして言葉を止めた。冬葉は彼女の身体をギュッと抱きしめながら「わたしが落とした鍵を拾ってくれた優しい人」と続けた。
「ちょっと人をからかったりするけど、そのときに見せてくれる笑顔がとてもかわいい人。歌がとても上手で、その声がとても綺麗な人。ときどきすごく寂しそうな顔をする人。いつもわたしのことを気遣ってくれる人。どこまでが本気でどこまでが冗談なのかわからない人。一緒にいると安心して、すごく心が温かくなる人」
「……なにそれ」
「それが、わたしが知ってる蓮華さんですよ。ぜんぜんひどい人じゃない」
しかし冬葉の胸元で蓮華は「違う」と小さく呟いた。
「冬葉さんは知らないから。わたしのこと」
「じゃあ、教えてください。本当の蓮華さんを、蓮華さんの言葉で」
「――嫌いになるよ?」
心細そうな彼女の声に冬葉は微笑み、そしてもう一度ギュッと彼女を強く抱きしめる。
「なりませんよ」
「わからないじゃん」
「なりません。わたしは蓮華さんのこと信じてるので」
「……騙されやすいからなぁ。冬葉さんは」
ほんの少しだけいつもの調子を取り戻したような彼女の声。冬葉は笑って「聞かせてください。蓮華さんのこと」と彼女から手を離した。蓮華は両手で涙を拭うと一度深く息を吐き出し、そして足元に落ちていたスマホを拾い上げた。
「スマホ、落としちゃダメだよ。現代人の命綱なんだから」
「……すみません、つい勢いで」
「冬葉さんって、ときどき予想もしない行動するよね」
彼女は微笑みながら冬葉にスマホを手渡すと、そのまま隣のブランコの鎖を掴んだ。座れということだろう。
冬葉は彼女の隣のブランコに腰を下ろすと軽く揺らした。キィッといつものように鎖が鳴る。
「……ちょっと、長くなるかもよ?」
それでもまだ迷うように彼女は冬葉に視線を向ける。冬葉は微笑んで「いいですよ」と頷いた。
「夜は長いですから」
「さすがにオールはしないよ」
蓮華は笑うともう一度息を吐き、そしてゆっくりと話し始めた。




