第六話 前編
ゆっくりとしたスピードで走る車から冬葉は暗い街並を眺めていた。車内の温度が低く感じるのはすっかり身体が冷えてしまったからだろうか。
強く冷たい風が吹く展望台。そこで見た夜景は、もうよく覚えていない。ただ小さな子供のように冬葉にしがみつく藍沢の温もりだけが残っている。
どれくらいそうして抱き合っていたのかもわからない。ただじっと彼女を抱きとめていると、ふいに藍沢が冬葉から離れて「帰ろっか」と立ち上がった。
「ナツミさん……」
思わず名前を呼ぶと顔を俯かせた彼女は「ごめんね」とため息交じりに言った。その表情は暗くてよくわからない。
「夜景、ちゃんと見たかったよね。ごめん。こんな雰囲気壊すようなことしちゃって」
「そんな――」
「……帰ろ? 冬葉」
藍沢は言って冬葉に手を伸ばした。冬葉が立ち上がってその手を取ると藍沢はゆっくり歩き出す。少しだけ冬葉よりも先を歩く彼女の手に力はなく、冬葉が力を緩めれば離れてしまいそうだった。
冷たく柔らかな手をギュッと握ると彼女の手が微かに揺れた。だが、それだけだ。何も言わず、顔を上げることもなく、藍沢はトボトボと駐車場まで戻ると車に乗り込んだのだった。
それから彼女はずっと静かに車を運転し続けていた。ちらりと見た横顔は展望台にいたときより落ち着いているように見える。涙に濡れていた目元は少し赤く腫れていた。
行くときには流れていたラジオは今は流れていない。静かな車内に響いているのはエンジン音だけ。それでも気まずさを感じないのはずっと考え続けているからだろう。
今、彼女は何を考えているのだろう。
どんな想いでいるのだろう。
そして自分が彼女にかけるべき言葉は何だろう。
彼女に応えるべき自分の気持ちは……。
考えても考えても答えが出ないことばかりだ。
冬葉はスマホを取り出して画面を確認する。誰からもメッセージは来ていない。時刻はまだ二十三時を過ぎたところ。蓮華からのメッセージはきっとまだもう少し先。
――蓮華さん。
蓮華と藍沢の関係は想像していた以上に複雑で、とても冬葉が気軽に踏み入ることができるようなことではない。
二人は直接会ったことがないのに互いに遠慮してしまっている。藍沢に至っては蓮華のことを嫌ってすらいるのだろう。それだけの理由が彼女にはある。
それは理解できるのだ。しかし――。
――嫌だな。
藍沢から向けられた気持ちは嬉しい。しかし、その先に蓮華へ対する嫌悪があることが悲しい。話を聞いた限り、蓮華が藍沢に何かしたというわけでもない。きっと何かが行き違ってしまっただけ。
どうしたらいいのだろう。
自分に出来ることは何だろう。
じっとスマホを見つめて考えていると「冬葉」と藍沢が口を開いた。顔を上げて彼女を見たが、彼女は無表情に運転を続けていた。
「ごめんね、今日は。ほんとに」
「……ナツミさんが謝ることなんて、何もないじゃないですか」
しかし彼女は小さく首を左右に振った。
「なんか、あそこに行くと色々と思い出しちゃって……。冬葉の気持ちをちゃんと考えるべきだった」
そう言って彼女は小さく息を吐く。
「びっくりしたでしょ」
「それは――」
否定はできなかった。驚いたのは事実だ。
藍沢の過去、蓮華との関係、そして――。
「本気だからさ、わたし」
彼女は無表情にそう言って「冬葉のこと好きだよ」と続けた。その言葉があまりにも真っ直ぐで冬葉は戸惑ってしまう。
「……えっと、それは、どうして?」
「どうしてって、んー。そうだな」
そのとき彼女は車に乗ってから初めて表情を変えた。どこか恥ずかしそうな、しかし柔らかな表情を浮かべて「素直なところ――」と言葉を続ける。
「いつも頑張ってるところ。妹のことをすごく大事に想ってるところ。優しいところ。それから――」
「それから?」
「ずっと我慢してるところ」
「え……?」
思わず声を漏らすと、藍沢は一瞬だけ視線を冬葉に向けた。そして微笑む。
「詳しい事情は知らないけど、ずっと周りのことばかり考えて生きてきたんだなってわかるよ。冬葉を見てるとさ」
「――そうですか?」
「そうだよ。今だって、そう……」
彼女は沈んだ口調で続ける。
「わたしにどんな言葉をかけようって考えてるでしょ? あと、わたしの告白にどう返事をしたらいいのか困ってる」
「それは誰だって考えると思います。とくに、その、告白のお返事はちゃんと考えるものでしょう?」
「うん。そうかもね。でも冬葉はさ、自分の思いを無視してそれを考えちゃってるだろうから」
彼女は沈んだ口調のまま言って再び微笑む。
「だから、我慢しなくていいからね」
冬葉は目を見開いて彼女を見た。
「我慢して考えて、悩んで……。その結果出した答えに自分の気持ちがないなんて悲しいじゃん。だから、冬葉にはもう我慢してほしくない。冬葉がもう我慢しなくていいように、わたしが隣にいたい。冬葉を見てるとさ、そう思っちゃうんだよね」
冬葉は彼女の言葉を俯きながら聞いていた。
我慢している。
そう思うことはもうなくなっていた。それが当たり前だと割り切って生きてきた。
そうしないと紗綾を守れないと思ったから。
叔父家族に迷惑をかけると思ったから。
冬葉が我慢すれば周囲が上手く回ることが多かったから。
だから何も望まなかった。自分の意見は心の中で溶かして消していた。いつでも周りが楽しく笑顔でいられるように。それだけを考えて。
今思えば、他人との関係が希薄だったのもそのせいだったのだろう。
冬葉が自分の意見を言わず、自分の気持ちを言わず、相手に何かを望むこともしなかったから。
「……冬葉?」
窺うように藍沢が冬葉の名を呼ぶ。しかし冬葉は答えることができなかった。優しい言葉に涙が溢れてしまう。藍沢はそれ以上は何も言わず、ただ優しい空気が車内を包み込んでいく。
「――返事は別に急がないし、冬葉を縛り付けたいとも思ってない。でもさ、やっぱりわたしはあの子に冬葉を渡したくない」
しばらくして藍沢は静かに口を開いた。
「そのことだけは伝えておきたくて……」
顔を上げると藍沢は穏やかな表情で前方を見ていた。気がつくともうすぐ車は駅に着くようだ。
「わたしは……」
自分の気持ちがわからない。藍沢のことも蓮華のことも好きなのだ。しかしそれが恋愛感情なのかどうかわからない。そんなこと考えたこともなかった。
ただ二人のそばにいられるのが楽しくて嬉しかった。
それだけだったのに、その感情に名前を付けなくてはいけない。
――そんなの、できない。
車は駅のロータリーに入り、乗降スペースにゆっくりと停車した。
藍沢は冬葉を見ると力なく微笑む。
「言ったでしょ。返事は急がないって。今すぐに冬葉の気持ちを聞きたいわけじゃない。ただわたしの気持ちを知っておいてほしかっただけだからさ」
言ってから彼女は「あー……。でも、ごめんね」と苦笑する。
「こんな一方的なやり方、冬葉を困らせてるだけだよね。やっぱりダメだ。今日のわたし、ダメダメだね」
「そんなことないです。ダメなのは、きっとわたしの方で――」
思わずそう答えると藍沢は無言で微笑み、そして「冬葉はダメじゃないよ」と言った。
「ただ、ちょっとのんびりしてるだけでしょ?」
冬葉が視線を向けると藍沢は笑みを深めた。冬葉は「ちょっと、ですかね」と微笑む。
「のんびりでいいから。冬葉のペースでゆっくり考えてほしいな」
「――わかりました」
冬葉が頷くと彼女は「うん。じゃあ」と迷うように視線を彷徨わせた。
「今日は、これで」
「はい……」
「おやすみ、冬葉」
「おやすみなさい」
冬葉はドアを開けて車から降りる。
「あー、冬葉」
ドアを閉めようとしたとき、藍沢がなぜか申し訳なさそうな顔で口を開いた。冬葉は首を傾げる。
「ありがとう」
「え?」
「幻滅しないでくれて……。今日のわたし、色々とカッコ悪かったから」
その言葉に冬葉は思わず笑ってしまう。
「なんで笑うの」
「だって、それだといつものナツミさんはカッコつけてるみたいじゃないですか」
「そうだよ?」
藍沢は笑って頷く。
「冬葉にカッコ良く見せたいから仕事でも頼れる先輩って感じで頑張ってたんだけど」
「え……」
「じゃ、今度こそおやすみ。家まで気をつけてね。冬葉」
「あ、はい。おやすみなさい」
冬葉は促されるまま車のドアを閉める。すると車はゆっくりと走り去って行った。冬葉は車を見送ると小さく息を吐く。
感情が目まぐるしく揺れ動いている。今、心で波を立てている感情がどんな気持ちなのかもわからない。
とりあえずアパートに向かおうと足を踏み出しながら冬葉はスマホを取り出した。
時刻は二十三時四十分。帰りは道が空いていたので早く着いたようだ。そろそろ蓮華からのメッセージが来ても良い時間のはず。
早く蓮華の言葉に触れたい。
蓮華の声を聞きたい。
こちらからメッセージを送ってはダメだろうか。
通話をかけてはダメだろうか。
しかしきっと蓮華の声を聞いてしまえば、さらに気持ちはグシャグシャになってしまう。それも分かっている。分かっているのに聞きたいと思ってしまう。あの優しい声を。
この気持ちはいったい何なのだろう。
この感情はいったいどんな感情なのだろう。
そのとき開いていた蓮華とのトーク画面にメッセージが投稿された。思わず冬葉は立ち止まる。
『冬葉さんへ。聞いてくれるとうれしいな』
そんな言葉と共に送られてきたのは、どうやら動画のリンクのようだ。冬葉はその場で立ち止まったままイヤホンを取り出すと耳に付ける。そしてリンクを押した。
開いたのは動画配信サービスのチャンネルページ。そのチャンネル名には『蓮華』とある。
――蓮華さんのチャンネル?
不思議に思っていると動画の再生が始まった。そこは見覚えのある真っ白な壁の部屋。その部屋のソファに座った蓮華はギターを手にして一つ深呼吸をする。そしてアカペラで歌い始めた。
「これ……」
それは聞き覚えのある童謡のようなメロディ。その優しい歌声はいつだったか、彼女が公園で口ずさんでいた曲に違いなかった。
冬葉が知っている部分をアカペラで歌い終わった彼女は一呼吸置いてからギターの弦を鳴らす。童謡のようだったその曲は一気に切ないバラードへと変化を遂げた。
メロディラインは同じはず。それなのになぜだろう。こんなにも切ない気持ちになってしまうのは。
冬葉はギターを演奏しながら歌う蓮華の姿をじっと見つめ続けた。
歌詞は抽象的で綺麗な言葉が並んでいる。その歌詞に込められたメッセージは冬葉にはわからない。
それなのに常に物悲しさを感じてしまう。
胸が締めつけられる。
彼女の歌声から伝わってくる感情がある。
それは、渇望だった。
そうか、と冬葉は思う。彼女は言っていた。これを見れば蓮華のことが分かると。たしかにこの歌から伝わってくる感情には覚えがある。ずっと冬葉が気づかないふりをしてムリヤリ無視し続けていた感情だ。
彼女はきっと冬葉と同じ。ずっと我慢して生きてきたのだ。その心が悲鳴を上げている。
その悲鳴が歌声に込められている。
――蓮華さん。
動画を見終わった冬葉はスマホを握りしめて足を踏み出していた。
彼女はきっと冬葉と出会う前からずっと我慢して生きていた。初めて会ったときから彼女は優しくて綺麗で、何を考えているかわからなくて。それでもずっとあの公園で冬葉のことを迎えてくれていた。
儚い笑顔で。
そして時々、哀しそうに歌っていた彼女の姿が脳裏に蘇ってくる。
わかってしまった。
彼女が我慢していたこと。それはきっと歌うことだ。
そして彼女が求めているのはきっと……。
冬葉は歩くスピードを速め、やがて走り出していた。
蓮華はまるで冬葉の気持ちを決めつけているかのようなことを言うことがあった。あれこそがきっと彼女が求めていることで、彼女が恐れていることだったのだ。
――蓮華さんもナツミさんと同じなんだ。
しかし彼女が求めているものが冬葉に求められているかどうかはわからない。わからないけれど、それでも足を進めずにはいられない。
息を切らせて走り、見えてきたのは見慣れた公園。冬葉はその入り口で立ち止まって視線をブランコに向ける。
街灯に照らされた、いつものブランコ。
そこに彼女はいた。




