第五話 後編
金曜日。なかなか仕事に集中できず、残業してなんとか切り上げた冬葉は藍沢が運転する車の助手席で窓の外の街並みを眺めていた。
車はレンタカーなのか、新しい香りがする。車内にはラジオが流れているが、とくに藍沢は聞いている様子でもない。無表情に車を走らせている。
昨日も今日も藍沢との関係はぎこちないままだった。話しかければ笑顔で返してくれるし、業務の会話も問題ない。しかし以前のように気軽に何でないことを話してくれることはなかった。昼休憩も一緒に過ごしていたものの、彼女は常に何か言いたそうな表情をしてそれを押し込めているようだった。
コンビニで買った菓子などをつまみながら当たり障りのない会話を続けながら車を走らせ、すでに二時間くらいは経っただろうか。ぎこちない空気はさらに膨らみ、今ではほとんど会話もない。
――このままじゃダメだ。
冬葉は小さく息を吐くと「……藍沢さん」と口を開いた。
「んー? あ、ナツミでいいよ。もう仕事じゃないんだし」
「ナツミさん」
素直に呼ぶと藍沢は運転しながら少し笑った。
「恥ずかしがるかと思ったのに」
「――聞いてもいいですか?」
冬葉の口調が気になったのか、藍沢は一瞬だけ視線を冬葉に向けた。そして「怒ってる?」と言った。その声はラジオの音や車の走行音で掻き消されそうなほど小さい。
「怒ってません。ていうか、そもそも怒る理由なんてないじゃないですか」
「……あるよ。わたしが無理に連れてきたから」
信号が赤になり、車列の動きが止まる。藍沢はまっすぐに前を見ていたが、その表情は落ち込んでいるように見えた。そんな初めて見る彼女の表情に冬葉は思わず笑ってしまう。
「なんで笑うの」
「すみません。なんか新鮮だったので」
「新鮮?」
怪訝そうに彼女は冬葉に視線を向けた。そのとき信号が青になって前の車が動き出した。
「青ですよ。ナツミさん」
「あ、うん」
再び車はゆっくりと走り出す。まだどこに行くのか聞いていない。聞いたところでわからないから別に構わない。車は夜の景色へと変化していく街中を進み続けていた。
「――なに?」
しばらく車を走らせてから藍沢が口を開いた。
「え?」
「聞きたいことって」
「ああ、はい」
頷きながら冬葉は前方に視線を向ける。
「……たしかに今日の誘いはナツミさんにしては強引だったなって思います」
「うん。ごめん」
「でも理由があるんですよね?」
「理由、か」
藍沢の横顔に視線を向ける。彼女は考えるようにほんの少し眉を寄せていた。
「――蓮華さん」
冬葉が口を開くと一瞬だけ彼女の表情が強ばった。冬葉はそんな彼女の横顔を見つめながら続ける。
「彼女と一昨日、話をしたんです」
「……会ったんだ?」
「いえ、通話で。そのときにナツミさんのことを聞きました」
藍沢は何も言わず、静かに運転を続けている。
「詳しく話してはもらえなかったけど、知り合いなんですよね? ナツミさんと蓮華さん」
沈黙が続いた。こんなにも藍沢と気まずい空気になったことはない。息苦しさを和らげてくれているラジオの音がありがたい。
窓の外を流れる風景はいつの間にか街から離れているようだった。山を登っているのかカーブが続く。
「――知り合い、とは違うのかもしれない」
ポツリと藍沢が口を開いた。
「蓮華さんも似たことを言ってました。だからナツミさんのことを自分が話すことはできないって。自分のことだけど、自分のことじゃないからって」
「そう……。あの子はちゃんと知ってるんだ」
そう言った彼女の口調はどこか空虚だった。
「ナツミさん……?」
「ごめんね、冬葉。そうだよね。わたしの態度、わけわかんないよね。しかもこんな振り回しちゃってさ。本当にごめん」
「別に振り回されてるとは思ってませんよ。わたしだってナツミさんと遊びに行くのは楽しいですし、誘ってくれるのも嬉しいです」
「そうなの?」
なぜか驚いたように彼女は目を見開いた。冬葉は首を傾げる。
「そりゃそうですよ?」
「わたしのことウザいとか思ってたりしないの?」
「しませんよ。ナツミさんはステキな先輩です」
「先輩……」
なぜか藍沢は寂しそうに笑った。そして「ちょっとだけ時間くれる?」といつものように明るい口調で続けた。
「ちゃんと説明するから。でも、頭の中整理するのにちょっと時間が欲しくて」
「大丈夫です。待ちますから」
「うん。ありがとう」
彼女はそう言うと再び沈黙する。
窓の向こうには木々の隙間から夜景が見え隠れしている。そこがどこなのか、やはり冬葉にはわからない。ただ、冬葉たちの他にも登っていく車が何台もいるので人気スポットだということは間違いないのだろう。
――本当は、もっと楽しくお喋りしながら来たかったな。
ちらりと見た彼女は沈んだ表情で前方だけを見ているようだった。車内に流れるラジオが二十二時を知らせていた。
山頂の駐車場にはかなりの車が停まっていた。観光バスも数台停まっているので観光名所のようなところなのかもしれない。
「……ここね、展望台からの景色が綺麗なんだってさ」
車から降りた藍沢は静かな口調でそう言った。彼女は周囲に視線を向けると「ちょっと人、多いね。これは予想外」と苦笑しながら冬葉を見た。力ない表情だが、さっきまでの気まずい空気はない。冬葉は微笑んで「夜景、楽しみです」と彼女と並んで歩き出す。
展望台は駐車場から徒歩十分ほど歩いた先にあるようだ。人の流れに乗って歩きながら周囲を見渡すと恋人同士で来ている者が多い。
「やっぱりカップルが多いみたいですね」
思わず口を開くと藍沢は息を吐くようにして笑った。
「わたしたちもそう見えてるかもよ?」
驚いて彼女を見ると藍沢は微笑んでいた。そして「なんてね」と呟くように言うと前方に視線を向ける。
「……ナツミさん」
「うん?」
「ここ、前にも来たことがあるんですか?」
「ううん。言ったじゃん。見つけたんだって」
「でも、ナビ使ってなかったですよね? けっこう遠かったのに」
そう言うと彼女は「バレたか」と困ったように笑った。
「でもほんとに来たことはないよ。昔、ここに来ようと思ってすごく道調べたことあったんだよね。何度もシミュレーションしてさ、それで覚えちゃって」
「何度も……」
道を覚えるほど地図を見ていたということだろうか。それはただ遊びに来るための計画とは思えない。何か特別な目的があったのだろうか。
思いながら隣を歩く彼女の横顔を見る。藍沢はぼんやりとした表情で足元へ視線を落としていた。
「――ここ、もしかして大切な場所なんですか?」
前方に展望台が見えてきた。その上からはたくさんの人たちの楽しそうな声が聞こえる。
「……大切な場所、になるはずだったところかな」
そう言った彼女を見て冬葉は思わず足を止めた。彼女は微笑んでいた。今にも消えてしまいそうなほど、そして壊れてしまいそうなほど悲しそうに。
「あの、ナツミさん……」
何か言葉をかけたかった。しかし思いつく言葉は安っぽい言葉ばかりで冬葉は俯きながら口を閉じる。藍沢に話を聞こう。そう決意して来たはずなのに、その決意を後悔している自分がいる。
いつも楽しそうに笑ってくれる彼女がこんな顔をするのなら何も聞かない方がいいんじゃないか。そう思う自分がいる。
――わたしは、自分勝手だ。
誰にだって話したくないことはある。それなのに自分が蚊帳の外にいる気がするという理由だけで、それを無遠慮に聞き出そうとしている。それは相手にとって辛いことかもしれないのに。
急に風が出てきて周囲の草たちを揺らす。その草たちのように冬葉の決意も揺らいでいた。
ふいに笑い声が聞こえて振り向くと後ろから来たカップルがお喋りをしながら冬葉たちを追い越して行った。
さらに後ろからまた一組。
また、一組。
地面を見つめたままその場に立ち尽くしていると、目の前にスッと手が差し伸べられた。顔を上げると藍沢が笑みを浮かべて首を傾げた。
「行こ? 良い場所取られちゃうよ」
そう言って彼女は冬葉の手を掴んで歩き出す。ゆっくりと、何を言うでもなく。
展望台への階段を昇った先では真っ暗な空間の向こうに光の街が広がっていた。無数の光たちは色とりどりに輝いている。
街灯の光、ビルの灯り、信号の灯り。そして車のライトが光の川を作り出している。
「――綺麗」
想わず呟いた冬葉の言葉に「ほんとだね」と静かな声で藍沢が頷く。しばらく景色を眺めていると「こっちきて」と彼女は冬葉と手を繋いだまま展望台の一角へと移動した。そこは遠く向こうに海が見える場所だった。
街の向こうに広がる夜の海は夜空から降り注ぐ月明かりによってほんの少しだけ煌めいて見える。
「今日は満月だから、一番ここから綺麗に夜景が見えるんだよ。風も強いから雲もすぐ流れていっちゃうしね」
言われて空を見上げると丸く大きな月がぽっかりと夜空に浮かんでいた。
「すごい……。こんな綺麗な夜景、見たことないです」
「そう? 良かった。気に入ってくれて。ちょっと寒いけどね」
藍沢はそう言うとフッと笑った。その瞳は夜景を見つめていた。楽しんでいるといった表情ではない。何かを思い出しているのか、彼女の視線はどこか空虚だ。なんとなくそんな彼女を見てはいけないような気がして冬葉も夜景に視線を戻した。
キラキラとした光の街の中に赤い光の流れができた。大きな幹線道路か何かで信号が赤にでもなったのだろうか。強い風が吹いて近くにいたカップルが寒そうに肩を竦ませながら帰って行く。
「……二年前にね、ここに来ようって思ってたんだ。大切な人と」
どれくらい景色を眺めていただろうか。ふいに藍沢が口を開いた。視線を向けると彼女は薄く微笑んで冬葉に顔を向けた。そして繋いだ手を引っ張るようにして空いたベンチに移動して腰を下ろす。
彼女は冬葉の手を握ったまま、視線を手すりの向こうに広がる夜景に向けた。
「恋人、ですか」
訊ねると彼女は息を吐くようにして「うん」と頷いた。そして「少なくとも、わたしはそう思ってた」と続けた。彼女は夜景を見つめたまま穏やかな表情で続ける。
「大学一年の頃から付き合ってて、卒業してからは一緒に暮らしてた。二人で一緒に家具とか電化製品とか選んだりしてさ」
そのとき冬葉は洗濯機を買いに行ったときのことを思い出した。
――趣味が合わなくてケンカしたりもしてたけど。
あのとき彼女はそう言っていた。きっとその人とあの店で買い物をしたのだろう。
「わたしはさ、ずっと一緒にいるんだって。そう思ってたんだよ。彼女と」
「――彼女?」
冬葉が問い返すと藍沢は「そう。彼女」と苦笑したような笑みを浮かべた。
「わたし、女の子が好きなんだよね」
「……そうなんですか」
ふいに繋いでいた彼女の手に力が込められたような気がする。冬葉はじっと彼女の瞳を見つめる。藍沢の瞳は不安そうに揺れていた。
「……手、放した方がいい?」
「どうして?」
「だって気持ち悪くない?」
「なにが?」
「わたし、女の子が好きなんだよ?」
「ダメなんですか?」
不思議に思いながら冬葉は首を傾げた。藍沢は目を見開いて「冬葉も、そうなの?」と呟くように聞いた。冬葉は眉を寄せながら「よくわかりません」と微笑む。
「わたし、まだ誰かを好きになったりとか、そういうのなくて」
「そうなんだ?」
「ずっと、周りの迷惑にならないようにって。それだけを考えてきたから」
親が亡くなってからずっと、本当にそれだけを考えて生きてきた。誰にも迷惑をかけないように。紗綾が不自由なく楽しく暮らせるように。それだけを。
だから周囲の人間関係に目を向けることもなかったのだ。
恋愛なんて、自分には遠い世界の話だった。
「そっか……」
藍沢は呟くように言って冬葉の手を握り直す。温かな手は優しくて思わず冬葉も彼女の手を握り返す。
「優しいね。冬葉は」
「……そんなことないです」
「優しいよ。ずっと周りのことを考えて、周りの人が傷つかないように気を遣って……。彼女も、そうだった」
藍沢は微笑みながら続ける。
「ぶっきらぼうだし口は悪かったけど優しい子だった。わたしと付き合うまでは異性としか付き合ったことがなくてね。それでもわたしが告白したら真剣に考えてくれて、それで一緒にいてくれるようになって……。だから彼女もきっとわたしのことを好きで、ずっと一緒にいてくれるんだって、そう思ってた」
「何が、あったんですか?」
「結婚したの。彼女」
「え……」
「元彼、彼女の幼なじみとね」
「どうして」
すると藍沢は「彼女が優しすぎたから」と答えた。そしてほんの少しだけ視線を上向かせる。
「彼女の幼なじみには妹がいるんだけどね。才能のある子で、まだ高校生だったのに色んなことに挑戦して結果を出して、大人の世界に放り込まれて、そして疲弊して、心が壊れそうになってた。幼なじみの妹っていっても小さい頃から一緒に過ごしてきた、彼女にとってもすごく大切な存在だった。それは知ってたんだよ。よく話にも聞いてたから。だけどさ、まさか彼女がその子を選ぶとは思わないじゃん」
藍沢の声は少しだけ震えていた。しかし言葉を止めることができないかのように彼女は苦しそうに声を絞り出す。
「何も知らないわたしが暢気に指輪なんて買ってさ、ここで彼女と一緒に夜景を見たあとで渡そうって、そんなバカなこと考えてた頃には彼女は別の女のこと考えて、その女の為に昔の男と結婚の約束してたんだよ。そんなのさ、ひどいじゃん」
ひどいよ、と藍沢は震える声で繰り返した。冬葉は思わず繋いでいた手を離して彼女の身体を両手で包み込む。
藍沢は泣いていた。
感情を押し殺すようにして静かに涙を流していた。そんな彼女を見ていられなくて冬葉は強く彼女を抱きしめる。
藍沢は冬葉にしがみつくようにしながら「だから、わたしは蒼井蓮華が嫌い」と息を吐きながら言った。苦しそうに。冬葉は驚いて彼女から身体を離す。
「え、どうしてそこで蓮華さんが……」
「彼女の幼なじみの妹が蒼井蓮華なの」
藍沢はそう言って顔を上げる。暗闇の中でもわかるほど彼女の顔は涙で濡れていた。
「蓮華さんが……?」
「そうだよ」
彼女は頷くと視線を俯かせる。
「あの子はわたしから海音を奪ったのに、きっと今でも近くには海音がいるのに。なんでまたわたしから奪おうとするの」
藍沢は消え入りそうな声で言いながら冬葉に両手を伸ばし、冬葉の身体を引き寄せて抱きしめた。
「どうしてまた、わたしの好きな子を奪おうとするの……」
「え……?」
思わず声を漏らすと、彼女は泣きながら息を吐いて少し笑う。
「そうかなって思ってたけど、ほんとに気づいてなかったんだ」
「ナツミさん、なにを……?」
「そういうとこも似てる……。ねえ。気づいてよ、冬葉。いい加減さ」
彼女は冬葉の首元に顔を埋めると「好きだよ」と続けた。
「だから、行かないで」
冬葉の背に回された腕に力が入る。
「あの子のところになんか行かないでよ、冬葉。ずっと、わたしの隣にいてよ」
突然のことに冬葉は何を言うこともできなかった。何かを考えることもできない。ただ全身に感じる藍沢の体温と胸元を濡らす彼女の涙だけを感じていた。
周囲にはいつの間にか人の姿はない。風がさらに強くなってきた気がする。
――好きだよ。
強く冷たい風に紛れるように、悲しそうに呟いた蓮華の声が耳の奥で蘇っていた。




