8.
注文していた紙の内、半分を受け取ってからひと月余りがたった。あれからずっとソフォクレスの頭はパメラの事でいっぱいだった。
恋に落ちている事の自覚はあったが、どうすれば良いのか分からない。パメラの事を好きになったところでどうにもならないのだから何度も忘れようとした。
でも、出来なかった。
あの男とはどうなったのか、パメラは今何をしているのか、何を考えているのか。そんな事ばかりが頭を過ぎる。
仕事に集中しようにも出来ず、ミスをしてばかりだ。
そして今は守護天使の為に用意されている談話室で、明日のスケジュールを副守護天使長のビオンと打ち合わせている所だ。
「そういう訳で、注文していた紙の残り半分が出来上がったから取りに行ってくるよ」
「品を取りに行くだけなら使用人にでも任せればいいだろ。なんでソフォクレスが行くんだよ」
あまり突っ込まれたくない所を聞かれて、ソフォクレスはビクリと肩を揺らす。
もう一度会って確かめたい。と言う想いがあった。パメラがあの男と結婚するなら流石に諦めが付いて忘れられるかもしれない。
「何度も足を運んでいるし、知り合い同士の方が色々と都合がいいだろ。それに結構な額を持ち運ぶことになるし」
「なら俺が行く」
「なんでそうなるんだよ」
ビオンが苛立たしげにこちらを睨んできた。
「ソフォクレス、お前最近おかしいぞ。お前がその製紙工房へ行きたいのはそこに居る女に会いたいからだろ」
「.......っな、何言ってるんだよ」
座っていたビオンが立ち上がり、ソフォクレスの前に立った。
「ヴィーナス様の目を誤魔化せると思うなよ。あのお方が何の神か分かってるだろ」
「違うって言ってるだろ!」
ソフォクレスも思わず立ち上がってしまった。ビオンも睨んでくるが、ソフォクレスも睨み返す。
「何が違うだ! 愛の守護天使長であるお前が、自分が恋しているって事くらい分かるだろ?! 俺たちは守護天使だ。生んでもらった時から死ぬ時まで、主以外を見てはいけないんだ! 目を覚ませよ!!」
「……俺だってどうしたら良いのか分からないんだよ。 忘れたくても忘れられないんだ。好きで好きで、彼女の事で頭がいっぱいになるんだ……」
ガクンっ、と椅子に座り直すと頭を抱えた。
目を覚ませ、だって? それが出来るならとっくにそうしている。もう泣き出したいくらいの気持ちになってきた。きっと自分は情けない顔をしているだろう。
「何を揉めているの」
声を聞きつけたのか、ヴィーナスが談話室に入ってきた。何処まで聞かれていたんだろう。
「いえ、何も。明日のスケジュールを打ち合わせていました」
居住まいを正して答えると、ヴィーナスがこちらにやって来る。
「明日は製紙工房に品を取りに行くんだったわね。ソフォクレスが行くんでしょ? 私も一緒に行くわ」
「え?」
「前から一度、見学してみたいと思っていたの。明日は来客もないし書類を片付けようとしていただけだから丁度いいわ」
「でもそんな急では……」
「もてなして貰おうなんて思ってないわよ。工房の皆さんにはいつも通り働いて貰えればいいの。普段の様子を見たいんだからね。なんなら私が神だって事は伏せて、愛の天使の一人として行ったっていいわ」
ソフォクレスが黙っていると、ヴィーナスが念を押してくる。
「私も一緒に行く。分かったわね?」
主にそう言われれば「はい」と答えるしかない。翌日、ソフォクレスはヴィーナスと馬車に乗り、愛の神殿を出発した。
******
「あら、今日はお一人では無いんですねぇ。愛の守護天使様ですか?」
パメラの母親がソフォクレスの後ろに居る女性を見ると、 ニコリと笑って挨拶をする。
「奥様、ご機嫌よう。アイリーンと申します。突然で申し訳ないのですが、工房を見学させて頂きたいと思いましてやって来たのですが、よろしいでしょうか。お仕事の邪魔にならないように、隅で見るだけで良いので」
アイリーンと名乗ったヴィーナスが丁寧に礼をとると、パメラの母は快く見学を了承してくれた。
「ソフォクレス様は私が見学中に品物のチェックをお願いしますね。奥様にご案内をして頂いてもよろしいでしょうか」
「様」付けして呼んでいるが、ヴィーナスが言っていることはほぼ命令だ。普段はおっとりとしているのに、こういう時に「否」とは言わせない雰囲気を出せるのは、流石は神と言ったところか。
「もちろんですよ。パメラー! こちらへ来て納品してちょうだい」
パメラが奥からやってくると、バチリっと目が合った。
「あたしはこちらの方をご案内するから、その間に納品をよろしくね。さあアイリーンさん、こちらへどうぞ」
ヴィーナスが母親の後について工房の奥へと行くのを見届けると、パメラが品物を持って椅子へ座った。
「こちらが残り半分の品です。ご確認お願いします。……今日はお一人ではなかったのですね」
「ああ、どうしても工房を見学したいと言って聞かなくて」
ソフォクレスは紙を受け取ると、パラパラと捲ってチェックし終えると、代金をパメラに確認してもらう。
シンと静まり返った空間に、奥から水車の規則正しい音だけが響いて聞こえてくる。
聞くのなら、2人だけの今か。
「パメラは……この前一緒にいたの男性と結婚するの?」
パメラがパッと顔を上げると、怒っているような表情をしていた。
(こういう時は「結婚」じゃなくて「交際」って言った方がよかったかな……)
「何故そんなことを聞くのですか。ソフォクレス様には、関係ない事です」
「そうだね。でも、気になって頭から離れないんだよ。あの男性と親し気にしている所を想像すると気が変になりそうなんだ」
「なっ……それは、どう言う意味ですか」
「パメラ、俺は君の事を好きになってしまったみたいだ」
パメラが口をポカンと開けたまま、じっとこちらを見てくる。無理もない、あまりにも突拍子がなさすぎる。
「わ、私は……。あの方とはあれ以来何もありません。お付き合いして欲しいと言われましたが、断りました。他の方に心があるのにお付き合いするなんて出来なくて。私……私もソフォクレス様の事が好きです」
想いが通じあった。この喜びを、どうやって表現したら良いんだろう。数々のカップルを見てきたが、みんなこういう気持ちだったのか。
「ですけど……私はただの天使です。そして貴方様は守護天使。どうする事も出来ません……。それとも、私が生きている間は伴侶として傍においてくれると言うのでしょうか。私は貴方と一緒に居られるのなら、子供なんていりません」
「それは……」
「それはダメよ」
いつの間にか戻って来ていたヴィーナスが、ソフォクレスの言葉を遮る。後ろにはパメラの母親が顔を真っ青にして立っていた。